(2)長岡京は何故、廃都となったか?
●藤原種継 ―暗殺事件
延暦4(785)年9月23日の夜、造都の建設工事が進んでいた長岡京で、思いもかけない大事件が持ち上がった。その日、桓武天皇は伊勢の斎宮に向かう皇女を見送るため平城京へ行幸されており、その留守の長岡京は、桓武天皇の弟である皇太子早良親王が預かっていた。
その日、造都の建設現場にいた造宮長官・中納言・藤原種継が、賊に弓で射たれて亡くなった。直ちに犯人の追及が行なわれ、大伴継人、大伴竹良など数十人が逮捕された。 その後、事件の責任者はさらに拡大し、既に亡くなっていた中納言・大伴家持をはじめ、皇太子・早良親王にまで及んだ。
事件の前、藤原種継と早良親王は、対立関係にあったことは事実のようであるが、暗殺事件への親王の関わりは疑問である。しかし桓武天皇の後継は、天皇の弟の早良親王と天皇の子である安殿皇太子のどちらかという関係にあり、この事件を契機に早良親王は、廃太子に追い込まれた。
早良親王は、乙訓寺に幽閉された後、淡路に送られることになり、この処置に抗議した親王は絶食して、移送の途中で亡くなり、遺体のまま淡路に送られて葬られた。
続日本紀は、日本書紀のように後で編集されたものではなく、同時進行の形で記述されている正史である。そして、この事件の経過については、当時の政権にとっては都合の悪い事が記載されていたようである。
そのため正史の完成後に、都合の悪い部分は、大幅に削除され、廃棄されたと見られる。そのことから造都関係の記事は、事件の翌年である延暦5年から7年にかけて異常に少なくなっており、明らかに削除されたことを示している。
しかし削除される前の続日本紀の梗概が、日本紀略に残されており、削除部分のあらすじについては、かろうじて知ることができる。さらに、桓武天皇の晩年のことを記録する正史である日本後記になると、その殆どが欠落しており、「平安時代」という言葉とは逆に、桓武天皇の心は惨憺たる状態であったことが想像される。
●何故、長岡京への遷都は中止されたのか?
藤原種継の暗殺と皇太子早良親王の流刑などの大事件を境にして、長岡京への遷都の環境は一変する。まず春3月に内裏で行なわれた曲水の宴や、冬至の封禅の儀などは、延暦6年を最後に行なわれなくなる。
それに代わって延暦8年ころから、政権にとって不都合な事が続くようになる。それらを図表-1に示してみよう。
図表-1 長岡京に発生した不祥事の年表
西暦 |
邦歴 |
月日 |
事項 |
789 |
延暦8年 |
1月9日 |
佐伯今毛人辞職す |
6月 |
征夷軍大敗す |
9月 |
右大臣藤原是公没 |
12月 |
皇太后高野新笠没 |
790 |
延暦9年 |
3月 |
皇后藤原乙牟濾31歳没 |
9月 |
皇太子安殿親王病気 |
秋、冬 |
天然痘流行 |
10月3日 |
佐伯今毛人没す(造宮功労者) |
791 |
延暦10年 |
8月 |
伊勢神宮焼く |
10月 |
皇太子健康優れず |
792 |
延暦11年 |
4月 |
大納言紀船守没 |
6月 |
皇太子久しく病む |
6月10日 |
皇太子が久しく病む理由を占うと、「早良親王の祟り」と出た |
6月17日 |
勅で、早良親王の墓の守護が悪いので祟りが起こる |
6月21日 |
雷雨はげし、洪水となりて、式部省の南門倒壊する |
8月9日 |
大雨、洪水で桂川溢れる |
11月 |
洪水で桂川溢れる |
794 |
延暦13年 |
5月27日 |
藤原百川の娘の藤原帯子が急死 |
797 |
延暦16年 |
5月19日 |
宮中で怪異があり、金剛般若経を転読させる |
800 |
延暦19年 |
7月23日 |
早良親王に「崇道天皇」の称号を贈り、山陵に奉告 |
図表-1から延暦8(789)年以降、桓武天皇の政権の重要な人物が次々に亡くなったことが分る。
さらに、東北では征夷軍が大敗し、天然痘が流行し、伊勢神宮が焼け、洪水が頻発する。このように延暦8年頃から顕れ始めた状況は、誰が見てもただごととは思えない。
延暦11(792)年6月に占いをたてて見ると、それらの不祥事は明確に「崇道天皇(=皇太子早良親王)の祟り」である、とされた。桓武天皇は、晩年になってから、この早良親王の祟りが非常に重荷になったようである。
長岡京の造都が中止になり、平安京へ遷都することになる大きな理由の一つに、この怨念説がある。さらに、今ひとつには長岡京の洪水説がある。
しかし桓武天皇は、封禅の儀の導入にも見られたように、中国の「天人相関思想」の影響を強くうけている天皇である。
この「天人相関思想」からいえば、洪水という天災は、天子の治世に対して天があたえるいましめの一つである。つまり、怨念説と洪水説は、桓武天皇によっては、2つに区別されるものではなく、全く同一のものと考えられる。
その結果としての桓武天皇の選択枝は、もはや長岡京の廃都しかなかったと思われる。
|