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  (2)国一揆・変質する一揆 1

 幕府権力が弱体化する中、それまで幕府権力に対抗する形で将軍の「代替わり」などに合わせて引き起こされてきた土一揆は、守護大名への対抗勢力としての国一揆や一向一揆などに変貌していった
 
●山城の国一揆とは?

 南山城(=現在の京都府南部)の国人(=地侍)たちは、最初は京都へのぼり東軍や西軍に属することにより、都におけるそれぞれの戦いに参加していた。
 たとえば南山城の相楽郡の国人の例を見ると、彼らの多くは細川勝元の東軍側に属していた。
 それが文明2(1470)年に西軍の大内政弘の大軍が南山城に攻め入ったため、山城国十六人衆と呼ばれた国人たちは降伏し、大内氏の西軍の支配下に組み込まれた。

 そのため南山城は東軍の攻撃目標となり、何度も大きな合戦の舞台となった
 文明9(1477)年11月に西軍の大内政弘や畠山義統らは自国に引き上げ、応仁の乱は終結して、南山城の多くの地は焼け野原となり荒廃していた。

 ところが応仁の乱が終わっても、山城南部、河内、大和においては、畠山政長(東軍)と義就(西軍)の相続をめぐる争いがなおも続いていた
 そして文明14(1482)年12月に畠山義就の西軍が南山城に侵攻して制圧したが、文明17(1485)年10月には、畠山政長の東軍が反攻を開始して大軍による小競合いが繰返されていた。

 そこでこの戦乱の被害に耐えかねた宇治、久世、綴喜、相楽4郡の国人36人は、文明17(1485)年12月10日、農民の支援を受けて蜂起し、畠山両軍に退陣を迫った。
 これが有名な山城の国一揆である。その翌日、南山城の国人衆や一般の住民多数が宇治平等院に集まって、両軍の撤退要求やその後の南山城のあり方について話し合いを行った。

 奈良興福寺大乗院の僧 尋尊の日記によると、「今日,山城の国人集会す。上は60歳,下は15,6歳と云々。同じく一国中の土民群集す」と書かれており、そこにおいて、次のような「国中掟法」が決議された
  (1) 今より以後、畠山方の者、国中に入るべからず。
  (2) 本所領ども(=荘園の権利関係)は、おのおのもとの如くたるべきこと。
  (3) 新関は、一切これを立つべからざること。

 この要求にあわせて、寺社本所領の直務、他国者の代官請負の排除、親関の廃止の要求がなされた。そして、これらの要求は直ちに両畠山軍に伝えられたが、その結果については予断を許すものではなく、そのため寄合いに結集した地侍や農民は非常に緊張しながら結果を待っていた。

  ところが驚いたことに、17日ころから両軍の中から戦線を離脱する武士たちが続出し始め、この国一揆の要求は全面的に受け入れられて、両軍は南山城から撤退する事が決まった

●惣国制の成立と解体
 南北朝から室町時代にかけて現われてくる農村の自治組織の事を、「惣」とか「惣国」と呼び、畿内ではそれは既に鎌倉時代から見られるようになっていた。
 この組織は、中小の農民層が台頭する中、打ち続く戦乱に対抗するために、農村の自衛、自治の組織として自然発生してきたものである。
 そこでは名主層から乙名(おとな)、年寄、沙汰人などという指導者が選ばれ、寄合いにより組織の掟が作られ、評議により行動する自治組織の形をとっていた。

 山城国一揆は、まさにこの「惣」の代表的なものであり、それまでの土一揆とはかなり性格が異なるものであった
 しかも応仁の乱という守護大名の権力闘争に対抗するものとして登場してきており、「一揆」とはいいながら、恒常的な自治組織として8年にわたって存在した。
 その意味では、山城国一揆は「一揆」というより「山城惣国」と呼ぶことも出来る。
 驚くべきことに、パリ・コンミューンなどにその類似性が認められるものである。

 この山城国一揆が最高潮の頃の長亨元(1487)年に、京都の西郊の乙訓郡でも別の国一揆が成立した。それは文明18(1486)年から始まったものであり、乙訓郡一帯の荘園領主・地侍に参加を要請した。
 この一揆の発端は、早くから細川方(東軍)に属して細川政元の承認のもとに惣国制が行なわれていた地域へ、 畠山義就派(西軍)の勢力が入部を企てたことから起こったといわれる。

 その意味では惣国制も、東西両軍の対立から必ずしも独立ではなく、守護大名の勢力による承認の中で成立していた。
 しかしこの乙訓郡の一揆も、それが成立すると同時に「守護使不介入」となり、幕府の支配が及ばなくなった。
 このことは幕府の権力のありかた、守護大名の勢力関係、惣国制の独立性などの観点から非常に興味がもたれるが、乙訓郡における国一揆のその後の動向は残念ながらよく分からない。(「京都の歴史」3,375頁)

 山城の国一揆は、その後、国人対農民、国人どうしの対立が表面化してきた。そこへ明応2(1493)年に伊勢貞陸を守護職とし承認してしまった。みずから守護不入の国持体制を放棄したわけである。
 9月に、伊勢貞陸は、相楽, 綴喜2郡を大和の国人・古市澄胤に与え、古市氏は9月11日、軍勢を率いて2郡に入部してきた。これにより南山城の地侍たちは、古市氏につく一派と、稲八妻城(現在の精華町)に篭って最後の抵抗を試みようとする一派に分裂した。

 そこで古市軍はまず、守護支配に反対する張本人の稲八妻公文(荘園の現地管理役人)の進藤父子の館を攻撃し、その後城攻めに向かい、激戦の末これを打ち破った。7年9カ月に及んだ山城国一揆は、明応2(1493)年8月18日、自ら解体し名実ともに終わりを告げた。






 
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