アラキ ラボ
日本人の思想とこころ
Home > 日本人の思想とこころ1  <<  76  77  78  >> 
  前ページ次ページ
  (3)足利義教から義政の時代へ(乱の変貌)

●正長の土一揆 −将軍代替り(義持−義教)における最初の徳政一揆

 正長元(1428)年8月から11月にかけて、奈良、京都に激しい土民の蜂起が起こった。奈良興福寺大乗院の日記には、この一揆は「日本開闢以来、土民の蜂起これ初也」と書かれており、これが最初の土一揆といわれる。
 この年は、年頭から不順な天気が続き、前年来の不作もあり、秋には飢饉の到来が予想されていた。それに「三日病」(みかのやまい)という悪病が流行して、社会不安はさらに高まっていた。

 この年には将軍義持が1月に亡くなり、次の将軍義教がくじ引きで決められた。また5月には、関東管領・足利持氏が将軍に刃向う事件が起こった。さらに、7月には天皇が称光天皇から後花園天皇にかわるという、政治的にも代替わりのあわただしい雰囲気がただよう年であった。

 このような状況の中で、8月に近江の大津、坂本の馬借たちが徳政を要求する騒動が起こった。ついで9月には徳政一揆が京都で起こった。徳政一揆とは、徳政の発布を要求しておこされる一揆のことをいう。
 このときは8月18日ころ、醍醐・山科あたりの土民が、徳政と号して蜂起し、方々の借金証文を奪って焼いた。
 当時、醍醐寺にいた三宝院満済(義満の猶子で、醍醐寺の座主)から知らせを受けた細川持之の兵数百騎が、醍醐寺の警備にあたった。その一方で、侍所赤松の兵200騎が山科に出陣し、醍醐・山科の群訴は中止になり街道の治安も回復した。

 11月には、再び京中が騒がしくなり、東寺が土一揆に占領された。農民たちは、占拠した東寺を本拠にして、洛中・洛外の酒屋・土倉を襲い、証文、質物を奪った。この騒動で空也堂などが焼失した。
 11月11日、幕府は在京の守護大名に、彼らの家来たちが土一揆に参加する事を禁じ、誓約書を幕府に提出させており、土一揆の構成は農民だけではなく、守護大名の家来たちも参加していた事をうかがわせるものである。

 11月22日、幕府は徳政と称して土一揆が酒屋・土倉において質物を奪い、乱入狼藉を働く事を禁止した。このころ土一揆は、目的をようやく達して下火になってきた。このように徳政一揆は、1荘園の農民が1領主を相手に戦うとか、多くの荘園の農民が、団結して1領主を相手に戦うというものではなく、多くの荘園の農民がそろって京都を攻めるといった性格のものであった。

 この正長の土一揆は、将軍の代替わりの時期に合わせて馬借(物資の輸送にあたった運送業者)により始められ、畿内・近国から、伊勢・大和・吉野に広がり、特に、支配力の強い寺社や公家の領内で起こった点に特徴がある。

 そしてこれらの一揆の攻撃目標は、京都の土倉、酒屋、高利貸しを営む寺院が目標であったが、かなり広域であることから、当然、幕府との衝突を覚悟したものといえる。

●嘉吉の土一揆 −将軍・義教から義勝への代替わり一揆
 最初の土一揆といわれた正長の土一揆(1428)から13年後の嘉吉元(1441)年9月、京都に久しぶりの大一揆が起こった。
 この年は、6月に将軍義教が暗殺される大事件があり、8月には幕府による赤松軍への攻撃が始まっていた。つまり嘉吉の土一揆も正長の場合と同様に、将軍の代替わりの時期に併せて起こされた徳政一揆である

 この8月頃から近江の坂本、三井寺、京都の鳥羽・伏見・嵯峨・賀茂辺りで一揆が起こり始めていた。まず近江に馬借の騒動がおこり、ついで清水坂において一揆と京極の兵の小競り合いがあり、双方から負傷者が出た。
 
 9月に入ると一揆は本格的になった。3日には鳥羽、竹田、伏見、嵯峨、仁和寺、賀茂辺で『代始め徳政』(義勝の将軍任命は翌年)を要求して騒ぎ出した。
 一揆衆は数万にのぼり、侍所が大勢で防戦に勤めたが鎮圧することはできなかった。この日、法性寺が焼かれ、東福寺が占領された。
 さらに、4日には白河に一揆が起こり、『東寺執行日記』によると5日には16箇所で陣が張られて、京都は土一揆により完全に包囲される事態になった。
 一揆衆は、毎日、交互に京中を攻め立てて、酒屋、土倉、寺院を襲った。

 一揆の目的は、質物を奪い、借書を破棄することであり、抵抗があれば火をはなった。出雲路、鷹司高倉、正親町、烏丸などの土倉が攻撃され、河崎の土倉松蔵は抵抗して放火された。
 法性寺、法華堂は焼かれ、浄蓮華院は放火すると脅されて、遂に借書を破り捨てた。土一揆に占領された東寺では、酒樽に枝豆まで添えて出して放火を免れた。

 この嘉吉の土一揆では地侍に率いられた周辺荘園村落の住民が組織的に、大挙して徳政を要求していた。この徳政一揆は、単なる暴徒ではなく、非常に統制がとれていて、簡単に退けることができなかった。これに対して幕府側は、侍所の兵を中心に防戦にあたったが、この統制のとれた一揆を相手にして、簡単に退ける事は出来なかった。
 そして結局、幕府は土一揆を鎮圧することができず、9月12日に徳政を認めた。
 
 幕府は、最初は土民だけに徳政を認めようするが、武家・公家をも含めた一国平均の徳政を一揆側は要求していた。つまり、この土一揆の支持層は、借入れに苦しむ下級武士や、中下級貴族とも繋がっていたと思われる。
 そこで幕府は一国平均の沙汰としての徳政令を発布するが、一揆側は永代売却地や年紀契約地(期限付売却地)が除外されていたため、攻撃をやめず、結局、幕府はそれらをも認め、一国平均を天下一同に適用することになった

 幕府が、一揆を鎮めるために徳政令をあわてて出した事は、発布前後の状況を見ると明白である。
 幕府は、9月18日付で、『一国平均』の徳政を発布する旨の立て札を『六口』に立て、さらに閏9月10日になり、その細目を公示した。
 このとき幕府側は「土民」に限り徳政を認めようとするのに対して、土民側は「尊非を論ぜず」徳政を行なうよう主張したことは、徳政一揆の性格を考えるに当たって注目される。

 いずれにしても嘉吉の一揆が、数万の農民を動員しながら、非常に組織的な行動をとっていることや、嘉吉の変という突発的な政変を見事に利用して代替わり徳政を要求していることは、土一揆の機動性や基盤の広さを推測させられるものである

 とにかく嘉吉の徳政令は、室町幕府の初の徳政令であると同時に、極めて徹底したものであった。そしてこの徳政令の結果、一般の借銭と年紀売りについては、殆んどすべての債務が破棄されることになった

●徳政将軍・義政と「分一徳政令」
 義教の後を受けて将軍になった義勝は、在任わずか2年で亡くなった。そして三春と名乗っていた7歳の義政が、嘉吉3(1443)年、管領・畠山持国以下諸将の会議において家督を継ぐことに決まった。
 その後、後花園天皇から義成(よししげ)という名を賜っていたが、宝徳元(1449)年に15歳で元服し、足利義政として正式に征夷大将軍に任命された

 この足利義政こそが、応仁、文明の大乱のなかを武家政権の中心として生きた将軍であると同時に、将軍になるすこし前から激化した徳政を要求する一揆により、在世中に多数の徳政令を出した『徳政将軍』になる。
(『応仁記』の記事によると、義政が出した徳政の回数は13回とあるが、実際には亨徳3年、長禄元年、文明12年、同17年の4回?と思われる)

 ここでいう「徳政」とは、奈良時代から平安時代にかけて、天皇の病気、飢饉、天皇即位後の大嘗会などにおいて、農民救済のために、公私の債権・債務を破棄することである。そして「徳政令」とは、そのために出される法令のことをいう。
 徳政令は、永仁5(1297)年に、鎌倉幕府が御家人を貧困から救済するために、それまでの売買・質入れ地の無償返還と貸借関係の破棄を命じる法令が出されたのが最初である。これが「永仁の徳政」であり、徳政令の出発点になる。

 室町時代になっても、嘉吉の徳政令までは鎌倉時代の武家徳政と同じであった。
 しかし 享徳3(1454)年の徳政令以降、債務・債権者とも幕府に債務・債権の1/10ないし1/5の分一銭(ぶいっせん)を納めることにより、彼らの権利を認めるという「分一(ぶいち)徳政令」に変わった。
 「分一徳政令」とは、(1)債務・債権者とも貸借額の10分の1を幕府におさめて奉書を得れば、借書を破棄してもよい、(2)種々の借銭及び本物返しといって期限付きで買い戻す権利を留保してある土地や屋敷には徳政は認めない、とした、義政のときに造られた幕府の法令のことである。

 これは高利貸業者と債務者の双方から上前をはねることにより、幕府の収入を確保する施策であり、これにより文明12(1480)年の幕府の収入は、明応ごろ(1492−)の土倉役の8年分を記録したといわれる。(「京都の歴史」3、247頁)
 また酒屋・土倉も、無条件で貸借関係が破棄されると貸金のすべてが失われるのみでなく、その資金が銭主からの合銭によって賄われている場合には、それらが債務として残り、さらに被害額が大きくなるが、そのような酒屋・土倉の被害額を少なくする政策でもあった。

 しかし一揆側にしてみると、分一銭を納入して幕府の政令発布を勝ち取るよりも、実力行使により債権の破棄を行なう私徳政のほうが有利であり、必ずしも幕府の徳政政策にのる必要はなかった。そのため徳政を要求する一揆は、その後も大規模なものが頻発しており、「分一徳政令」は必ずしもうまく行かなかった。

●応仁の乱へ
 将軍義政には、その後継を考え始めた当初、男子の後継者がなかった。そこで義政夫妻は後継男子の出生をあきらめ、いやがる弟の浄土寺門跡義尋を養子にし、将来、男子が生まれても将軍にしないとした誓書まで渡した。寛政5(1464)年11月のことである。

 ところがその翌年の1月に、義政と妻の日野富子との間に男子が生誕するという思わぬ事態となり、最初の約束はおかしくなった。
 同じような後継問題を、そのころ、室町幕府の最高幹部であった管領の畠山氏,斯波氏が共に抱えていた。この幕府幹部の相続問題が、応仁の乱の構図を作り出した。
 
 図表-2に挙げる応仁の乱の関係者を見ると、そのことがよく分かる。
 そして同時に、応仁の乱の複雑さと分かりにくさ、そして利害関係のない第三者から見た場合のつまらなさのすべてが、この後継者問題の構図の中にある。

図表-2 応仁の乱の関係者
総大将 西軍 山名宋全 東軍 細川勝元
第9代将軍の候補者 足利義尚 足利義視
畠山氏 畠山義就 畠山政長
斯波氏 斯波義廉 斯波義敏

 1467年から10年にわたって天下を2分した応仁の乱により、平安京から続いてきた京の都は、完全に焦土と化し荒廃した。
 そしてその一方では、この焦土の中から新しい近世が始まろうとしていた。
 その境目となった応仁の乱については、次回に述べる。






 
Home > 日本人の思想とこころ1  <<  76  77  78  >> 
  前ページ次ページ