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日本人の思想とこころ
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  (2)足利義教とその時代(乱の時代の始まり)

 「花営三代」のつかの間の春は、1428年の義持の死によって終わった。
 第4代将軍・義量(よしかず)は、応永32(1428)年2月に19歳で早世していたため、将軍職を義量に譲って出家していた義持が、再び将軍の代行をせざるをえなくなっていた。
 ところが、たった一人の子に先立たれて気落ちした義持は、風呂の中で掻き毟った腫れ物から敗血症を発症し、それから2年後の応永35(1428)年1月、後継者も定めず亡くなった。

 ここから足利幕府の凋落の歴史がはじまった。その最初の将軍が、足利義教(よしのり)である。義教は、なんとくじ引きにより将軍に選出された
 この義教の時代に幕府権力の弱さは表面化し、義教の最後は、宴会の席上で暗殺されるという凋落の歴史の開幕にふさわしい悲惨な最後を遂げた

●将軍・義教の誕生
 義持の後継者として、義満の子の4人兄弟が候補に挙がった。それは青蓮院義円、大覚寺義昭、相国寺永隆、梶井義承の4人兄弟であり、それぞれの背後には、彼らを支持する守護大名がついていた。
 そのことが、義持が後継者を定めえなかった理由でもあり、それがくじ引きを神慮と考えて、次の将軍を決めたほうが良いという見解にもなった。

 この冒頭の青蓮院義円が、後の義教である。義教は、足利義満の四男として、応永元(1394)年に生まれた。10歳のとき天台の主流である青蓮院に入り、義円と名乗った。
 修行に専念して、応永26(1429)年11月には大僧正、天台座主になり、准三后の宣下をうけて、名実ともに当時の仏法世界における頂点を極めた。
 それが義持の死により、突然、将軍の候補者となり、しかもくじ引きの結果として、将軍・義持の後継者に決定した。
 そこで還俗して「義宣」と名乗ったが、その名は『世をしのぶ』という縁起が悪い意味があるため、結局、義教と名乗ることにした。
 この将軍・義教は、いろいろな改革を行なっている。
  
●義教による政策とその実施
 ▲朝廷や幕府の改革
 まず朝廷に対しては、天皇権を犯さず、それを護持する態度を明確にした。
 たとえば、応永35(1428)年の称光天皇の崩御にあたり、従来の幕府であれば皇位継承の問題に介入するところを、すべて後小松上皇の意志にゆだねた。
 そして後花園天皇の践祚大嘗祭における行幸に際しては、武人である事を意識した右大臣として供奉するなど、名分と建前を明確にした。
 
 この態度は、宮廷の紀綱改革にも反映した。公家衆などによる幕府への媚ともいうべき参賀などを制限し、内裏や院の風紀なども厳しい取締まりを行なった。
 幕府の紀綱改革においては、年中行事や職制を整備した。それまで遊興的、慣習的に行なわれていた参内・公武参賀・和歌・連歌・猿楽などが、義教の時代に式目として定められ、年中行事として確立した。

 ▲幕府権力の回復
 義教は、従来、室町幕府が支配しきれなかった関東府や九州の統治をおしすすめ、横暴を極めた比叡山延暦寺の僧徒を制圧し、不遜な態度が多かった守護大名を粛清するなど、幕府権力の回復に非常に大きな功績を残した。

 たとえば関東府は、鎌倉を中心に関東10カ国を支配する旧幕府の伝統を背景にして、室町幕府に対しては対立的な立場をとってきていた。
 この『鎌倉公方』が義教のときに、足利持氏という人を得て、永享10(1438)年、反・義教で一挙に燃え上がった(永享の乱)。
 義教は、この乱を治めることにより、関東府に対する事実上の支配権を確立することに成功した。

 同様に、室町幕府は、九州探題を置きながら、大内、大友、小弐、菊池などの守護大名の勢力を臣従させることができなかった。
 そのため、九州支配は殆んど無力の状態であった。是に対し義教は、無能な探題・渋川氏をあきらめ、有力な大内氏と結んだ。
 大内盛見は、応永の乱で幕府に反抗し、義満に殺され、所領を削られた大内義弘の弟である。しかしその後、幕府にくだって忠節を誓い、周防・長門・豊前の支配を許されていた。
 義教は、この大内氏と組んで永享5(1433)年、大友、小弐を破り、九州全域の支配権を確立した。

 ▲比叡山僧徒の制圧
 僧兵等の横暴に対しては、義教は、かねがね法道を汚す者として批判的に見てきていたが、将軍になって以降、幕府の威信をかけて断固制圧する方針に踏み切った。
 永享6(1434)年6月、山門の衆徒が幕府に強訴をかけたとき、義教は、すかさず諸大名に命じてこれを撃退した。

 8月に叡山の僧徒が鎌倉の持氏と通じている風聞を利用して、近江の六角・京極らに命じて、叡山の山門を囲み攻撃態勢をとった。
 恐れをなした衆徒は降参を請うてきたが、義教は許さず、永享7(1435)年2月、衆徒の首謀者4人を騙し討ちにして首をはねた。
 叡山の僧徒たちは、義教の措置に震え上がり、僧徒23人は根本中堂に火を放ち自殺し、これ以来、叡山の僧徒は義教をおそれて鳴りを潜めた。

 ▲有力守護大名の粛清
 有力守護大名の権力を封じ込め、足利将軍の権力を回復するために、義教はそれまでの将軍とは全く違う高姿勢をとった。
 永享3(1431)年5月、義教は、幕府元老の1人である山名時ひろの子の山名持ひろの不出仕ぶりを厳しくとがめた。
 その激しい怒り方に恐れをなした山名氏は、持ひろを廃嫡にして謝意を表した。
 この義教の高圧的な態度に不安を感じた元老たちは、義教に対して、私局を行なわず幕政に尽力する旨の誓書を提出した。

 ところがやがて関東と九州を平定した義教は、尊大な有力守護で若狭、三河、丹後の守護職の一色義貫と、伊勢、美濃の守護職の土岐持頼を暗殺した。彼らは義教の命を受けて豪族間の抗争の鎮定を行なっていた武将であり、義教のこの処置に諸大名は愕然とした。
 そしてそれ以後、義教の意見に口を挟む守護大名は誰もいなくなった。いわば恐ろしい血の粛清を背景に権力を掌握したわけである。

 ▲日明貿易の復活
 義持のとき中断された日明貿易は、義教の時代に入り、経済活動の発展にともなう貨幣需要が高まったために、再開せざるを得なくなった。そこで義満のときの「日本国王臣」という表現から『臣』という文字を取り去り、対等の交易を志向した。
 
●義教暗殺
 永享9(1437)年11月、室町第に奉公する尼僧が、伊勢神宮の参詣から帰るや神がかりして義教を『悪将軍』とする神のご託宣を伝えるなど、義教に殺された人々の怨念は、世に満ち溢れていていた

 嘉吉元年(1441)6月24日夜、将軍義教は、赤松満祐が関東平定の祝宴を自邸で行なうという招きに応じて、公家や諸大名とともに西洞院二条の赤松邸を訪れた。
 猿楽能の名手音阿弥が鵜羽を舞っていたとき、屋敷内外を300人の刺客が襲った。
 赤松氏は、室町幕府の創成期からの功臣であり、満祐も播磨、備前、美作3カ国の守護職を兼ねる幕府の大立者である。
 しかし一色義貫と土岐持頼が殺されるのを見た満祐は、次は自分であるという不安にさいなまれて、将軍義教の暗殺に踏み切った。(嘉吉の変)

 義教の死はあまりにもあっけないものであった。伏見宮貞成親王は、その日記「看聞御記」に、「将軍此の如き犬死、古来、其の例を聞かざることなり」と書いている。
 赤松満祐は、領国播磨に引き上げ、幕府の追討軍に備えたが、さらなるクーデターを警戒して、追討軍が組織されたのは8月になってからであった。戦いは8月19日に始まり、満祐は必死に応戦したが、9月10日に木山城は落城し、赤松満祐の首は四条河原に晒された。

 この嘉吉元(1441)年8月から、京都周辺の各地に土一揆が起こり、徳政を要求して騒然とした雰囲気になってきていた。この中、翌嘉吉2(1442)年11月、9歳の義勝が征夷大将軍に任じられるが、翌3年7月、赤痢で急逝する。
 嘉吉の乱や嘉吉の大一揆の難局に当たり、将軍・義勝を助けて政務を行なった管領・細川持之も嘉吉2年8月に亡くなり、時代は乱世の兆しに満ち溢れてきた。






 
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