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1. 日本経済の行方
2. 失われた90年代―日本の「シンス・イエスタデー」
3. 江戸時代のカタストロフとしての明治維新
4. 明治・大正のカタストロフとしての昭和恐慌
5. 昭和時代のカタストロフ −第一部 満州国建国まで
6. 昭和時代のカタストロフ −第二部 日本敗戦への道
7. 平和日本のカタストロフ −第一部 日本国憲法の興亡
8. 平和日本のカタストロフ −第二部 戦後の日米関係(その1)

9. 平和日本のカタストロフ −第二部 戦後の日米関係(その2)
          −60年安保から沖縄返還、ニクソン・ショックまで

(4)日米安全保障条約(その1)
(5)日米安全保障条約(その2)
(6)沖縄返還とニクソン・ショック(その1)
(7)沖縄返還とニクソン・ショック(その2)
(8)田中内閣と日中国交回復

10. 平和日本のカタストロフ −第三部 "花見酒"経済の終焉
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  9. 平和日本のカタストロフ −第二部 戦後の日米関係(その2)
          −60年安保から沖縄返還、ニクソン・ショックまで

(4)日米安全保障条約(その1)

●51年安保条約の問題点
 サンフランシスコ平和条約と同時に締結された日米安全保障条約(以下、「安保条約」という)は、占領下で締結された条約であるため、アメリカ側の一方的な権利をうたった箇所が多かった。その主要な問題点を以下に挙げてみる。

▲米軍の駐在は認めるが、米軍に日本防衛の義務はない!(第1条)
 例えば、安保条約の第1条では、日本に駐留する米軍は「外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用できる」としている。しかし、この文章の主語は、「アメリカ合衆国の軍隊」であり、米軍出動を決定する主体はアメリカ本国にあった。つまり、日本は米軍に基地を提供し、米軍はこれを行政協定の許容範囲で自由に利用できるが、外国からの侵略に対して日本を防衛する義務は規定されていなかった

 この条約が締結された時、アメリカには1948年に上院で成立したヴァンデンバーグ決議と呼ばれるものがあった。この決議の第3項には、「自助および相互援助に基づく、かつ合衆国の国家的安全に影響する地域的および他の集団的取り決めにのみアメリカは参加できる」という規定が存在した。

 吉田政権は、日米共同防衛の体制を打ちたてて、アメリカの日本駐留の代償として、アメリカに日本の防衛義務を明確化しようとした。
 国連憲章の第51条にいう集団的自衛権の関係を日米間に設定しようとした日本の提案は、日本には「自助および相互援助」の力、つまり「軍事力」がない事からアメリカに一蹴された経緯がある。

 これに対して岸政権は、MSA(=日米間の相互防衛援助協定)を受諾・調印し(1954.3.8)、「国防の基本方針」を策定(1957年)してアメリカに日本の防衛能力を認めさせるなど、弱小の日本を安保改定で有利な立場に立てるように努力を重ねた
 日本の軍事力の増強はアメリカを満足させるものではなかったが、日本の安全保障体制に対してアメリカの日本防衛義務を明確にしようと努めた。

▲日本は内乱鎮圧まで米軍に頼るのか!(第1条)
 第2の問題は、第1条における内乱鎮圧の規定にあった。同条では、「外国による教唆又は干渉によって惹き起こされた日本国における大規模な内乱及び騒擾を鎮圧するため」、日本政府の明示された要請により米軍が出動できる、という規定である
 1940年末、NATO軍が作られた時、アメリカは加盟国内の間接侵略に対しNATO軍が介入できるとする条項を挿入しようとしたことがある。しかしこの条項はNATO側の強い反対にあい、条約に盛り込まれなかった経緯がある。
 つまり内乱の鎮圧を米軍に頼るという事は、独立国の面目に関わるという意見が日本でも大勢を占めていた。

▲基地の権利等の第三国への許与禁止の規定は、日本の主権侵害である!(第2条) 
 第3の問題は、安保条約の第2条が、アメリカの事前の同意なしに、基地の利用に関する権利を第三国に許与しないという規定である。
 これは明らかに独立国に対する主権侵害であると考えられる。

▲安保条約の期限が明示されていない!(第4条)
 第4の問題は、安保条約に期限が明示されておらず、日米の非対象的な関係が恒久化する恐れがあることにあった。安保条約の第4条には、「国際連合又はこれに代わる個別的もしくは集団的の安全保障措置が効力を生じたと、日本国及びアメリカ合衆国の政府が認めた時は、いつでも効力を失うものとする」と記されている。

 この規定では、日本国だけが個別的・集団的安全保障措置の効力を生じたと考えても、アメリカがそのように認識しなければ条約の効力は持続するわけである。これも明らかに独立国の主権を侵害した条文といえる。
 これに対して、安保条約の期限を明確にすることが求められた。 

●安保条約の改定交渉 
▲条約改定交渉の経緯 
 安保条約の改定については、日米両国で共に部分改定論と全面改定論の2論が存在していたが、岸は急速に全面改定論に傾いた。そして新条約により共産圏からの脅威に対して、アメリカによる日本の防衛義務を明文化することを目指した

 1958年10月4日、正式な第1回安保改定交渉が東京で開かれた。そして、この時から1年余にわたる交渉が開始された。
 日米交渉における要点は次のようなものであった。
 1. 条約が対象とする区域はどのようなものか?
 2. その条約区域に対する武力攻撃を、日本は日米「共通の危険」と認めるかどうか?
 
 10月4日に米国が草案を提出した時点において、既に、内乱条項や第三国に対する駐兵や基地使用許与に関する制限条項は外されていた。
 交渉の過程で、条約の対象区域について、最初、アメリカは太平洋地域との案を提出したが、順次、沖縄・小笠原を含む案になり、最終的に日本本土に限定された

 「共通の危険」は、日米安保条約を双務的な条約に改正しようとすることに関係する。つまりアメリカが攻撃された場合には、日本が援助、救援するのか?ということである。此の点について、1953年に外務省条約局長の下田武三が、集団的自衛権は日本国憲法第9条に違反するとする政府見解を明確にしていた。
 つまり日本政府は、アメリカが攻撃された場合に、それを援助することは憲法上できない、とする立場をとっており、アメリカと日本は真っ向から対立していた。

 此の点を新安保条約の第5条では、日本国の施政下にある領域において、いずれか一方が武力攻撃を受けた場合には、日米が共に自国の平和および安全を危うくするという共通認識をもつ。「自国の憲法上の規定及び手続きに従って、共通の危険に対処するように行動する事を宣言する」と規定した。

 日本側は、アメリカの日本防衛義務の明文化、内乱条項の削除、条約期限の明記のほかに、基地の域外使用と核兵器持込の危惧からくる反対論を考慮して、米軍の配置及びその装備の日本における重要変更と在日米軍の域外使用に関して日米の事前協議を主張した

 その結果、新安保条約の第6条(アメリカ軍による日本国の施設、区域の使用許可に関する条項)についての「交換公文」の中で、米軍の「日本国への配置における重要な変更、同軍隊の装備における重要な変更並びに日本国から行われる戦闘作戦行動のための基地としての日本国内の施設及び区域の使用は、日本国政府との事前の協議の主題とする」という形で文書化することに成功した。

▲60年安保条約の国際環境
 1950年代末に、米ソの冷戦構造は大きな変わり目を迎えていた。
 1957年8月26日、ソ連は「究極兵器」と呼ばれる大陸間弾道弾(ICBM)の発射実験に成功した。これによりアメリカ本土は、直接ソ連から核攻撃の射程内に入り、一方のアメリカには大陸間に届く長距離ミサイルがまだ存在しなかった。
 核兵器の優位性の上に作られていたアメリカの軍事戦略は、核の搬送手段の開発をソ連に逆転されたことにより、全面的に見直す必要に迫られた。
 この段階で、日本の地理的な軍事戦略上の重要性が一挙に上昇してきた。

 一方のソ連は、10月と11月の2度の人工衛星の打ち上げに成功し、11月の革命40周年記念日の後で、社会主義12カ国による「モスクワ宣言」を発表し、「平和共存」を呼びかけた。 これはソ連の封じ込めを狙ったアメリカによる「力の外交」の根幹を揺るがすことになった。
 
 更に、中東では58年2月に、シリアとエジプトが合併してナセルを大統領とするアラブ連合共和国が成立し、58年7月にはイラク革命により共和制となり、59年1月には南米キューバでキューバ革命が起こるなど、民族解放の動きが全世界的に広がりを見せ始めていた
 また中国では、毛沢東がその後に失敗であったことが明らかになる「大躍進運動」の開始を58年5月に宣言。8月には農村に人民公社を設立し、鉄鋼の大増産を行う事を決議した。この時期、まさに世界中で社会主義が輝いて見えていた。

 58年11月、ソ連のフルシチョフ首相は、ベルリンの4カ国による国際管理を廃止して、全ベルリン統治を東独政府に移管する用意がある、という演説を行った。
 更に59年1月10日に、対独戦参加28カ国に対して、東西両ドイツとの講和条約締結の提案を行った。また59年1月のソ連共産党第21回大会において、ソ連共産党は、国際緊張緩和と平和共存の実現を主要な任務としていることを明らかにした。

 このような雪解けムードを背景にして、1959年9月18日に4年以内に軍備全廃を達成しようという「国連史上最大」といわれるフルシチョフの軍縮提案が行われた。そして国連では、11月21日の総会において、満場一致で82カ国軍縮共同決議案が採択された。

 このソ連の平和攻勢に逆行するアメリカ側の事件が、60年5月1日に起こった。その日、ソ連領空に侵入したアメリカのU2型偵察機が撃墜された。このことが5月5日にフルシチョフによって発表されると、国際関係はにわかに緊張し、5月16日にパリで開かれる予定であったアイゼンハワーとフルシチョフの首脳会談は中止になった。

 このU2機事件2重の衝撃を世界に与えた。その第1は、U2偵察機は、レーダーで捕捉されない装備をしており、しかも通常のミサイルの射程を越えた高空を飛行する特殊な秘密兵器である。このような秘密兵器が領空侵犯をしていた事実である。 そして第2には、この高性能の秘密兵器がソ連により、撃墜されたことである。このことはソ連の軍事技術が、アメリカのそれより優れていることを物語るものであった。 
 この国際的軍縮ムードの高まりの中で、その動きに逆らうアメリカと岸内閣が日米軍事同盟を組もうとしていることに対して、日本国民は衝撃をうけた。




 
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