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  (6)沖縄返還とニクソン・ショック(その1)

 60年安保は、政府側・反対運動側の双方に大きな傷跡を残した。
 安保条約批准を全国民的な反対運動の中で強行した岸政権に対して、安保批准採決を欠席した自民党・非主流派との内部対立も深刻化していた。
 岸政権に代わり池田政権が成立したが、国家政策は岸の憲法改正、日米同盟を中心とした余りにも政治的な路線から、「所得倍増計画」による経済成長政策に重点を移し、国民による支持の回復を図らざるを得なくなっていた

 一方の安保反対運動の側も、闘争が激化する中で指導体制が一本化できず、社会党、共産党、新左翼の間の溝は修復不能なくらいに深まっていった
 アイク訪日延期、岸退陣という成果を勝ち取ったものの、安保条約は自然成立してしまった。その後の挫折感は、70年代を通じて国民の間に広がり、高度成長政策の効果が現れ始めるに従い、再び戦争について深く考えることを止めた。
 
●沖縄返還
▲戦後の沖縄 
 沖縄は太平洋戦争で全土が戦場となって、人口の4人に1人が亡くなるという惨状となり、日本降伏に先立つ1945年6月23日に司令官・牛島満中将が自決した時点で組織的戦闘が終わったこの日が、現在、沖縄の「慰霊の日」とされている。

 米軍は、日本降伏後の沖縄を極東における軍事戦略上の要衝に位置づけ、本土と切り離して支配することにした。1946年1月29日、GHQは北緯30度以南の南西諸島(奄美群島、沖縄群島、宮古群島、八重山群島)の行政権を日本から分離した

 1950年12月に軍政府に代えて米民政府(琉球列島米国民政府)が設置され、民政長官は東京の極東軍総司令官が兼任し、副司令官は沖縄現地の軍司令官が当てられて、事実上の軍政が続いた

 1951年の対日講和条約の第3条において、アメリカが、国連でこれら諸島の領域に信託統治を提案した場合、日本はそれに反対しないこと、その提案が行われるまでアメリカはこれらの領域に施政権を行使することが規定されていた。
 しかし講和会議では、アメリカとイギリスの代表は、これらの諸島の主権は日本に残されていると発言して、潜在主権の存在が確認されていた。

 アメリカの統合参謀本部は、1952年8月、国際連合に信託統治の申請をすべきではないことを決定し、現状が維持されることになった。
 奄美諸島については、53年12月24日に日米両国政府の返還協定が調印され、25日に実施された。
 また沖縄でも52年春から屋良朝苗を会長にして「沖縄諸島祖国復帰期成会」が組織され、日本復帰への運動が始まっていた。

▲祖国復帰運動と佐藤政権
 1960年4月28日、祖国復帰運動の組織的な展開を目指して「沖縄県祖国復帰協議会」が設立され活動を始めた。6月19日に日本訪問を取りやめたアイゼンハワー大統領は、代わりに沖縄を訪問した。
 ところが沖縄でも、大統領を乗せたオープンカーが嘉手納から那覇の琉球政府へ向かう途中、突然、1万人の「請願デモ」の歓迎?を受けることになり、米海兵隊ともみ合いになった。

 1963年からは沖縄と本土を分断する北緯27度線上で、本土復帰運動の支援者と交歓する「海上大会」が行われるようになり、沖縄本島最北端の辺戸岬では、本土・与論島へ向けてかがり火が焚かれた。
 
 1964年1月15日、自民党総裁選に向けて政策を策定する過程で、佐藤栄作は自分の頭文字をとったSオペレーションというプロジェクトチームを発足させた。
 この中で沖縄の施政権の返還を文書で以って正式に米国に要求することを政策として決めた。このときのオルガナイザーが産経新聞の政治部記者で、その首相の首席秘書官となった楠田実であり、この作業部隊が、沖縄返還を佐藤政権の政策の一つの柱にすべきだという結論をだした。

 楠田の著書によると、Sオペレーションの討議報告書では、「日米関係」について、「日米安保体制は、現状変更をしない。しかし、1970年安保条約再検討の問題は世論を背景に検討する。」
 「沖縄の施政権返還」については、「日米の交渉で、施政権の返還を文書をもって正式に米国に要求する。」そして、「次の手続きとしては、・・日、米、琉の軍事基地協定を暫定的に結んで、沖縄の施政権返還を実現する段取りを検討する。」としていた。(楠田実「佐藤政権・2797日」)
 
 ところが6月26日の最終案文では、これらはすべて削除されて、地下へもぐってしまった。そしてその後の沖縄返還交渉自体も、交渉の密使となった若泉敬が彼の著書で「知っているのは4人だけ」(4人とは、ニクソン、佐藤栄作、キッシンジャー、若泉敬。若泉敬の著書「他策ナカリシヲ、信ゼムト欲ス」文芸春秋社、の腰巻の言葉)と書いたように、密室のなかでの秘密交渉に大きく依存する事になった。
 
 しかし沖縄返還を、佐藤栄作は政権の座についた最初から考えていたことは確かなようである。1964年11月9日、病気で退陣した池田勇人の後を受けて、政権の座についた佐藤首相は、翌年1月に訪米し、ジョンソンとの首脳会談において、早速、「先島返還」を要求した。
 先島返還とは、沖縄の分離返還方式の一つであり、まず沖縄本島以外の先島諸島(宮古列島、八重山諸島)の施政権から日本に返還を求めていこうというものであった。(河野康子「沖縄返還をめぐる政治と外交」)。

 翌1965年8月19日,戦後の首相として初めて沖縄を訪問した佐藤首相は、「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとって戦後が終わっていない」という有名な演説を行った。
 60年安保の後の日米関係修復のために、ケネディ政権は、駐日大使としてタカ派のマッカーサーに代えて、ハーバード大学教授で知日派のライシャワー(在任1961-66)を送り込んでいた。そしてライシャワー大使自身が、着任早々、沖縄を訪問して返還の必要性を感じて、両国政府に対して働きかけを始めていたといわれる。

 60年代初頭、ベトナム戦争の激化に伴い、沖縄では軍事基地反対の運動が激しくなっていた。しかしその一方で、沖縄は、ベトナムへの長距離爆撃機B52の発進基地、また原子力潜水艦の発進基地としての軍事的重要性も増していた。

 またCIAも沖縄に関連施設を持っており、沖縄の戦略的重要性は依然として非常に高かった。そのため当然のこととして、アメリカの軍部は、沖縄の返還に対しては否定的な姿勢をとっていた。(NHK取材班「戦後50年 そのとき日本は」、第4巻、48頁)

▲沖縄の返還交渉
 60年代初めのベトナム戦争は、まだアメリカが支援するゴ・ジン・ジェム独裁政権と南ベトナム民族解放戦線の紛争であった。しかし、61年1月に発足したケネディ政権は、段階的にベトナム戦争への介入を深めた。更に、ケネディの後を継いだジョンソン政権は、64年8月に「トンキン湾事件」を起こし、更に、65年2月には「北爆」に踏み切り、6月以降はアメリカ軍が直接、開放戦線と戦う「第2次インドシナ戦争」にまで発展していた。

 ベトナム戦争が本格化する中で、軍事基地しての沖縄の重要性は非常に増していた。しかし、その一方で、国務省はひそかに日本への返還について検討を始めていたといわれる。その経緯は、1980年、ブルッキングス研究所のP.クラップにより明らかにされた。(NHK取材班、「戦後50年 その時日本は」、第4巻、50頁)

 それによると沖縄問題の再検討は、1965年にライシャワー駐日大使の提言で始まり、66年に国務省の日本課長リチャード・スナイダーを責任者として沖縄問題の再検討をはじめていた。そして驚くべき事に、この検討グループには、国防省、陸軍、統合参謀本部、CIAのスタッフも参加したといわれる

 その報告書によると、アメリカ側が再検討に踏み切った原因は、アメリカによる沖縄統治が住民の要求に対して適切な対応をとってこなかったため、日本政府が1-2年のうちに基地協定による施政権の返還を求めると思われること、その前に基地機能を損なわないことを条件とした返還の条件を検討することであった。(河野康子「沖縄返還を巡る政治と外交」)

 しかし更に直接的理由としては、70年に予定される次の安保改定において、日本が一方的に安保条約を破棄し、米軍の沖縄からの撤退を要求する事を恐れたともいわれる。そこでスナイダーの第2次報告書では、沖縄を日本に返還した場合に、沖縄の米軍基地がどのような影響を受けるかが検討された。
 その結論は、意外なことに、(1)核兵器の貯蔵(2)B52の自動発進、の2点の保証が得られれば、基地の機能には変化がないことになった。(NHK取材班「前掲書」)

 このような状況下で、1967年11月14日、15日佐藤・ジョンソン会談が行われた。その結果としての日米共同コミュニケでは、(1)沖縄については、施政権を日本に返還するという方針の下で日米政府が継続的に検討する、(2)沖縄、本土の一体化を推進するため、日、米、琉の3者構成の諮問委員会を米政府高等弁務官のもとに設置する、(3)小笠原諸島の復帰に向けて両国は早速協議に入る、ということが示された。

 この首脳会談を目指して、佐藤首相は、国際政治学者・京都産業大学教授で、沖縄問題懇談会のメンバーをつとめる若泉敬を密使に仕立てて、沖縄返還の時期を「両3年以内」にする事を働きかけたが、その時期を明確にすることはできなかった。
 その最大の理由はベトナム戦争の見通しがつかなくなっていたことである。翌68年になると、解放戦線はベトナム全土で「テト攻勢」に入った。

 3月31日にジョンソン大統領は、北爆停止、北ベトナムに対する和平会談への交渉開始を提案し、次期の大統領選挙には出馬しない事を表明した。
 アメリカのベトナム戦争は最終段階に差し掛かっていた。

▲「太平洋新時代」と沖縄返還合意
 1968年11月5日のアメリカの大統領選挙において、民主党はジョンソンの代わりにハンフリー、共和党はニクソンの争いとなり、ニクソンが次期大統領に当選した
 一方、日本では11月27日の自民党大会において佐藤栄作が総裁に3選されて、内閣改造では外相として佐藤首相と対立することの多かった三木武夫に代わり、愛知揆一が任命された。  

 69年3月の国会答弁において、佐藤首相は、沖縄の返還条件として、対米交渉の出発点に「核抜き本土並み」を主張することを明確にした。そして6月に愛知外相が訪米して沖縄問題に関する基本的態度を表明した。
 その内容は、(1)遅くとも1972年中には、沖縄の施政権を日本に返還されるべきこと。(2)施政権返還後の沖縄については、日米安保条約とその関連規定が適用され、本土と同じ取り扱いが行われるべき事、であった。

 その後、日米協議が繰り返されて、日本政府は日米安保の事前協議について、朝鮮、台湾で緊急事態が起こったときには、極東の平和のため日本政府として必要な措置をとる事が当然と述べて、沖縄を含む日本における米軍基地からのアメリカ軍の展開に支障が起こらないようにする心証を与えることに努めていた。
 この事前の準備をベースにして、69年11月17日に佐藤首相は渡米して、ニクソンとの首脳会談に臨んだ

 沖縄問題は、19日第1回会談で決着し、21日に日米共同声明が出された。この会談により日本政府のいう「核抜き・本土なみ」で沖縄を本土に復帰させることが決まり、他方で日本は極東の軍事上の事態に対処するために「事前協議制」の運用に積極的に取り組むことを約束させられた。

 この時のニクソン、佐藤の秘密文書の英文草案が、密使を勤めた若泉敬の「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」文芸春秋、1994、に、写真版で掲載されている。
 そこには次のような事が書かれている。

 アメリカ大統領:アメリカは、日本に施政権が返還されるまでに沖縄からすべての核兵器を移動すること、・・しかし極東諸国の防衛のために、重大な緊急事態が生じたときには、日本政府との事前協議の上で、核兵器の再持込み(re-entry)および沖縄通過する権利(transit right)を必要とする。・・
 日本首相:日本政府は、大統領が緊急事態と認めた場合、アメリカ政府の要請(requirements)に応じて、事前協議が行われた場合には、遅滞なくそれらの要請を満たす事。

 このような文書の存在を日本政府は認めていないが、アメリカ側は多くの人が認めており、この文書が交換されたことはまず間違いない。それどころかニクソンは、沖縄返還の代償として日本の繊維の輸出規制をその会談で持ち出していていた。
 この問題は、共同宣言には盛り込まれず、佐藤首相自身も、その重要性を殆ど評価していなかった。しかしそのことで、後に中国国交回復、金・ドルの交換停止措置などの「ニクソン・ショック」によって手痛いしっぺ返しを受ける事になる

 佐藤首相は、帰国後、「72年の沖縄返還後も非核3原則は堅持する。極東における有事の際に核兵器持ち込みの事前協議があってもその原則は守る」と述べた。
 社会党や共産党は、沖縄返還を通じて日米安保条約における「極東」の範囲は拡大され、この協定は「沖縄の本土化」ではなく、「本土の沖縄化」であると攻撃した。この中で、佐藤首相は、「沖縄・核抜き返還」の「勢い」を借りて69年12月2日に衆議院を解散した。

 12月27日の選挙では、自民党は288議席という地すべり的に圧勝し、更に無所属からの合流12名を加えて300議席を獲得した。一方、社会党は前回の議席140を一挙に50議席失い、党の存立を問われる深刻な事態となり、60年に比べて様変わりした状態で70年安保見直しの年を迎えた。

▲肩すかしをくった70年安保
 70年1月14日,第3次佐藤内閣が成立した。中曽根防衛庁長官は、57年以降の「国防の基本方針」における「外部侵略には、日米安保体制を基調として対処する」という観点を、「自主防衛」中心にする事を明らかにした
 この自主防衛を基調にした国防計画は、70年に原案が完成し、72年から実施する4次防の柱になった。

 3次防では5年間に2兆3千億円であった予算規模は、4次防では一挙に倍増して5兆5千億円になった。従来は、陸上兵力を中心にしていたものから、海上自衛隊の強化が重点とされ、ついで航空自衛隊の強化に重点を移していくとされた。
 
 70年は、日米安保の見直しの年である。6月22日、佐藤内閣は日米安保条約の「自動延長」を決めた。60年安保の時の首相・岸信介は、佐藤栄作の実兄である。10年前の安保の自然成立の日、佐藤は孤独な兄に寄り添っていたと記録されている。
 佐藤首相は、70年安保の改定の日にふたたび反安保の騒動になることを非常に恐れていたと思われる。しかし状況はこの10年で大きく変わった。

 69年末の選挙において、社会党、共産党、新左翼は安保条約延長反対、廃棄を主張しており、安保問題、沖縄問題がこの選挙の重要な争点であった。
 しかし69年に沖縄問題が一応の解決をし、70年安保は自動延長となり、「1970年安保」を政治決戦と考えてきた社会党、共産党、新左翼系は完全に「肩すかし」をくった。
 社会党は、69年末の選挙で惨敗し,江田委員長のもとで党の再建に迫られていた。
 共産党も東京、京都で自民党を大きく引き離し、解散時の議席の3.5倍である14議席になったものの、国政レベルでは対決の場を失った。
 そして京都府知事選挙や東京都知事選挙など、地方政治に舞台が移っていた




 
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