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どこへ行く、日本
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1. 日本経済の行方
2. 失われた90年代―日本の「シンス・イエスタデー」
3. 江戸時代のカタストロフとしての明治維新
4. 明治・大正のカタストロフとしての昭和恐慌
5. 昭和時代のカタストロフ −第一部 満州国建国まで
6. 昭和時代のカタストロフ −第二部 日本敗戦への道

7. 平和日本のカタストロフ −第一部 日本国憲法の興亡
(1)日本国憲法の誕生
(2)日本国憲法の問題点
(3)日本国憲法改正をめぐる攻防(その1)
(4)日本国憲法改正をめぐる攻防(その2)

8. 平和日本のカタストロフ −第二部 戦後の日米関係(その1)
9. 平和日本のカタストロフ −第二部 戦後の日米関係(その2)
10. 平和日本のカタストロフ −第三部 "花見酒"経済の終焉
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  7. 平和日本のカタストロフ −第一部 日本国憲法の興亡  
    このあいだの戦争でいちばん重大な問題は
知識階級が戦争について考えることを放棄
したことだ。  羽仁五郎「自伝的戦後史」

 
   日本では、昭和20(1945)年8月15日の敗戦から50年以上にわたり戦争が全くない平和な時代が続いてきた。それは明治以降の歴史の中で日本国民がはじめて経験する稀有の時代であった。しかし、この間、世界が平和であったわけで決してない。米ソの厳しい冷戦のなかで、日本の周辺でも朝鮮戦争、ベトナム戦争など、激しい戦争が起こり、更に中東では何度も戦争を経験して今なおその渦中にある。
 
 その渦中でアメリカの極東戦略の最前線基地に位置する日本が、50年にわたって平和な期間を過ごしてきたことは、ほとんど奇跡といえるほどの幸運であった。その長い平和の時代に、日本人は再び戦争について考えることを放棄した。
 その幸運は、日本が「平和憲法」をもっていたことと無関係ではない。このアメリカから与えられた世界的にも稀有の理想主義的憲法は、その誕生直後から、実は日本とアメリカの双方の政府から邪険な取扱いを受けてきた。
 
 日本が動乱の20世紀のなかで、日本国憲法=「平和憲法」とともに過ごしてきた平和な時代は、21世紀を迎えた今、完全に終わりを告げようとしている。
 それはいわば「平和日本のカタストロフ」とでも言うべきものであろう。
 この平和日本のカタストロフを、政治、外交、経済の3側面から考える。

第一部 日本国憲法の興亡
第二部 戦後の日米関係
第三部 戦後の日本経済

(1)日本国憲法の誕生

●大日本帝国憲法の改正−明治日本の崩壊
 太平洋戦争の終結にあたって、日本政府が最も固執したことは、天皇を中心とした「国体の護持」の確保にあった。
 1945年7月26日に出されたポツダム宣言を見ると、そこには「日本国国民を欺瞞しこれをして世界征服の挙に出ずる過誤を犯さしめたる者の権力と勢力を永久に除去すること、また俘虜の虐待者を含む一切の戦争犯罪人を処罰すること、民主主義的傾向の復活・強化に対する一切の障害を除去すること、言論、宗教、思想の自由と基本的人権の確立すること」など、いわば明治以降の日本の政治の本質を根底から変革することが要求されていた

 その冒頭にある「日本国民に世界征服の挙に出る過誤を犯した権力と勢力を除去する」という事項に、日本の天皇制が該当するかどうかが、日本政府にとって最も重要な問題であった
 そのため「無条件降伏」とはいいながら、天皇制=国体の護持を唯一の条件として日本はポツダム宣言の受諾に踏み切ったのである。しかし日本側の条件に対して連合国側は確たる保証を与えていなかった。そのために、天皇制の取り扱いが新しい憲法を考えるに当たって最大の問題であった。

 ポツダム宣言は、更に加えて、日本国民の自由意思に従い、新しい平和的政府が樹立されるまでの間、連合国占領軍が日本に駐留することを規定していた。
 敗戦後の日本政府は、連合国による日本占領に当たり、これらの条件がどの程度まで占領下において実行されるのか、を図りかねていた。
 この日本政府の思惑と連合軍の意思が、日本占領後に最初に激突した最大の問題が、大日本帝国憲法の改正であった。

 昭和20年8月28日に連合国最高司令官マッカーサーが厚木に到着して、9月2日には東京湾上の戦艦ミズーリで降伏文書に調印が行われた。
 マッカーサーは、当初、横浜に司令部を置いていたが、9月15日から東京日比谷の第一生命相互ビルに総司令部を移し連合国の占領業務が本格的に開始された。

 これを受けて日本国側も、9月27日に天皇がマッカーサーを訪問し、10月9日には東久邇宮終戦内閣に代わって幣原喜重郎・内閣が発足して、ようやく日本の戦後政治の第1歩を踏み出した。
 日本の戦後政治を最初に担当した幣原内閣の最大の仕事は、大日本帝国憲法(=明治憲法)の改正であった。

 マッカーサーは、10月11日に新任の挨拶にきた幣原首相に対して、憲法の自由主義化、人権確保などに関する5大改革(婦人開放、労働組合の結成奨励、学校教育の民主化、秘密審問司法制度の撤廃、経済機構の民主化)を口頭で要求した。
 これをふまえて政府は10月13日に国務大臣・松本烝治を主任として、憲法改正に関する研究を開始し、10月25日に松本を委員長とする憲法問題調査委員会を設置して憲法改正の検討を始めた。

 首相・幣原喜重郎は、戦前の加藤・若槻・浜口の各内閣において外務大臣をつとめ、外交官から政治家になった人物である。
  戦前の外交においては一貫して親英米政策を採り、そのことから軍部・右翼から軟弱外交と非難されてきた。明治5(1872)年の生まれであるから、このときには既に73歳の高齢であった。英語の達人として知られ、総理大臣を引き受けるに当たって、ウエブスターの辞書とシェイクスピア全集を首相官邸に備えるという妙な要求をした話は有名である。

 しかし肝心の日本国憲法の改正について、幣原首相自身は、明治憲法は民主的な憲法であり、その運用方法にのみ問題があったと考えており殆ど改正の必要を感じていなかった。  
 幣原内閣の憲法改正を担当した国務大臣・松本蒸冶も、首相と同様に明治憲法に対する本質的な改正の必要性をほとんど感じていないまま、明治憲法の改正案を作成した。
 その結果は、後述するように、殆どマッカーサーの憲法草案をそのまま日本国憲法の草案として採用させられる羽目になったわけである。

 敗戦から幣原内閣による「憲法改正要綱」の作成(昭和21年1月26日配布)に到るまでの経過を簡単に振り返ってみよう。 戦後最初に憲法形成の必要性に着目したのは、内閣法制局の入江敏郎であり、終戦直後の昭和20年9月18日に「終戦と憲法」という文書を法制局長官に提出し、軍制度の廃止や統帥大権の削除などいくつかの基本的な問題点を指摘していた。

 10月14日に東久邇宮内閣の副総理であった近衛公がマッカーサーと会見した折に、憲法改正の必要を示唆されたことから、近衛公は京都の佐々木惣一博士に改正案の作成を依頼し、内大臣府による改正案の作成が始まった一方では10月25日から幣原内閣による憲法改正の委員会が始まり、両者が並立することになった。

 困惑したマッカーサー司令部は、近衛公に対する指示の取り消しを行なったが、近衛公の憲法改正は既に天皇の命令を受けており、佐々木博士による改正案の作成はそのまま続行された。その結果は、「帝国憲法改正の必要」と題された憲法改正の提言となり、11月22日に天皇に奉答された

 この近衛・佐々木改正案は、マッカーサー司令部の要求事項をいろいろ考慮しつつも、国民主権、軍備廃止の構想などは全く考えていなかった「天皇大権」に対しても「万民の翼賛による」という修辞を加えた程度であり、基本的には明治憲法の一部改正の域に留まるものでしかなかった。

 一方、幣原内閣の「憲法問題調査委員会」の委員長は、国務大臣・松本蒸冶があたり、冒頭にあげた清水澄、美濃部達吉、野村淳治の3人を顧問に、宮沢俊義、清宮四郎、河村又介ほか数名を委員として発足した。
 この委員会は、必要最小限度の小改正を行う松本案を内容とした「甲案」と小委員会による「乙案」の2種類の改正案を作成し、昭和21年2月8日に「甲案」を、説明書を添付して「憲法改正要綱」として総司令部に提出した

 この憲法改正要綱の「甲案」の内容も、近衛・佐々木改正案と同様にほとんど明治憲法の本質部分を温存しており、従来の憲法における運用上の問題点を修正した程度の改正に留まっていた。 たとえば、次のようなものである。

明治憲法の第3条の「天皇は神聖にして侵すべからず」「神聖」「至尊」に修正する。第1条から第4条までの天皇の大権の基本的部分はすべてそのままとする。(以下、括弧内の原文はカタカナ)  
議会の権限を拡大してその結果として大権事項を制限する。  
国務大臣の責任を国務全体に及ぶものとし、同時に国会に対して責任をもつものとする。  
人民の権利義務の保障を強化して、その侵害に対する救済を完全にする、というもので、明治憲法の本質を温存し、運用上の問題点を改正しようというものであった。  
明治憲法の第11条以下の「陸海軍」の規定については、「陸海軍」をただの「軍」として、従来、統帥権天皇にあるとしていたものを、「内閣及び国務大臣の輔弼をもってのみ行われる」とした。  

 甲案を作成した松本蒸冶は、商法・会社法が専門の法律学者・政治家であり、オールド・リベラリストといわれた。 戦前の選挙では、「極左の一歩右寄り」の左翼候補者に投票していたといわれるが、当時の上流階級者に特有の保守的な考え方の持ち主であった。
 「法律技術者」ともいえる性格であり、「国粋主義者の側からの激しい抵抗」を懸念して、憲法の天皇条項には手をふれぬ姿勢をとった」といわれる。(児島襄「史録・日本国憲法」pp.84-85)

 敗戦の翌年の春には、日本の政治家・学者・官僚のほとんど全ては、日本敗戦という大変動期を迎えても、明治憲法下の日本国家の呪縛から自力では抜け出せない状態にあった。
 そのような昭和21年2月1日、突然、毎日新聞がマッカーサー司令部にまだ提出されていなかった調査委員会による憲法改正案を、スクープして一面トップに掲載するという大事件がおこった
 
 更に具合が悪いことには、スクープされたのは、総司令部に提出する予定の甲案ではなく、それよりも大幅な改正を行っている乙案の方であった。
 つまり委員会では大幅改正の案を一方で作りながら、総司令部には、ほとんど明治憲法を踏襲した改正案を提出したことを国の内外に暴露してしまったのである
 怒ったマッカーサー司令部は、未提出の憲法改正案の即時提示を求めるとともに、マッカーサー司令部自身が独力で日本国憲法の改正草案を作成して日本側に提示するという事態に発展した。

●マッカーサー憲法の成立
 日本占領初期におけるアメリカ側の日本国憲法への取り組みの経過を追ってみよう。当時、国務省から派遣されていたマッカーサーの政治顧問ジョージ・アチソンは、総司令部(=GHQ)が憲法改正について日本人を十分に指導していないことを心配していた。
 そこで昭和20(1945)年10月4日(=マッカーサーが近衛公に憲法改正の研究を示唆した日)にアチソンは、国務長官に電報を打って、憲法改正への助言を求めた。

 これに対して国務省が12月13日に送ってきたのが、SWNCC-228「日本統治体制の改革」とよばれる指令であり、これがアメリカの占領政策の基礎となる基本文書になった。
 その決定稿がマッカーサーに送られてきたのは昭和21(1946)年1月11日のことであったが、この日本の占領政策に関する重要な指令を、マッカーサーはアチソンの勧告を無視して日本人にはその内容を伝えなかった

 その指令の内容は、現状の天皇制をそのまま維持することは占領目的と一致せず、廃止または民主的方向への改革が必要であることを明確にしていた。
 更に指令は、その他の改正すべき点として、統帥権独立の廃止、国務大臣の文民制、議院内閣制、議会の予算統制権、地方自治の強化、基本的人権の拡充などを挙げており、明治憲法の全面的改正を具体的に要求したものであった。
 しかしこの指令についてアメリカ政府は一切の公表を禁じており、日本側には全くその内容は伝わって来なかった。

 そのような中で、昭和21年2月1日の毎日新聞の朝刊一面に、「天皇の統治権不変、内閣は議会に責任」と見出しをつけた憲法改正政府私案の詳細がスクープされ、掲載された。
 その政府私案は、日本政府の松本(甲)案より大幅な改定を取り入れた小委員会(乙)案であったが、それでもその余りにもひどい反動性に総司令部は驚いた。
 その内容は連合軍最高司令官が同意できるレベルから、大きくかけ離れていた。
 一方、昭和21年2月からは、日本の占領制度についてマッカーサー司令部の上位組織としての「極東委員会」が発足する予定になっており、マッカーサーとしても、どうしても2月一杯には、日本国の憲法改正を行う必要に迫られた

 そこでマッカーサー司令部(GHQ)では、民生局長(GS: Government Section)ホイットニー准将の下に日本国憲法改正のための運営委員会を作り、ケーディス陸軍大佐が中心となり、7つの小委員会を設けて、2月3日から僅か9日という短期間で日本国憲法の草案を作り上げた。
 これらの作業は、司令部の中でも極秘のうちに行われた。

 GHQによる最終的な憲法草案は、2月12日にマッカーサーの承認を得て、ホイットニー民生局長から翌13日に吉田外相、松本国務大臣に手渡され、22日までに回答するよう要請された。
 幣原首相は、明治憲法は民主主義的憲法であり、運用面に問題があったものの、それを修正すれば問題はないとして明治憲法の改正には消極的な考え方を持っていた。そのために、ある程度の改正が必要と考えていた昭和天皇の側からは首相の更迭論が出ているほどであった。

 その内閣が作った憲法改正案に比べて、GHQが作成した憲法草案衝撃的な内容であったと思われる。しかしソ連、中国、オーストラリア、ニュージーランドなど、更に厳しく日本の天皇制の廃止を要求している国も連合国の中には少なくなかった。そのため極東委員会がマッカーサー司令部の上部組織として活動を始めると、憲法に対して更に過激な要求が出てくることが予想された。

 そこで幣原内閣は、GHQ案における一院制の国会を2院制に修正した以外は、ほとんど字句の修正を加えた程度でGHQ案の受け入れを決定した。その後に若干の字句などの修正はあったものの基本的にはGHQ案に沿って憲法改正は進み、11月3日に新しい「日本国憲法」は公布され、翌昭和22年5月3日に施行された。

 GHQによる憲法草案の作成過程は、草案執筆者の一人であったラウエル中佐の残した文書が高柳賢三、大友一郎、田中秀夫の3博士により7年の歳月をかけて翻訳されて「日本国憲法制定の過程」(有斐閣)として刊行されている。
 またケーディス大佐を中心にした日本国憲法の草案作成過程は、鈴木昭典「日本国憲法を生んだ密室の9日間」(創元社)、また憲法の主要項目の内容に対するメンバーの取り組みの詳細は、キョウコ・イノウエ「マッカーサーの日本憲法」(桐原書店)に詳しく述べられている。

 連合軍総司令官・ダグラス・マッカーサーは、共和党系の保守主義的な軍人であった。彼が尊敬した父親のアーサー・マッカーサーは、フィリピンの初代軍事総督を務めた人物である。ダグラスは、その父がゲリラ活動に悩まされる中で、フィリピンの民衆のために「温情ある政治」を行い、教育の向上や基本的人権の尊重など、いろいろな改革に努力する姿を見て、それに大きな影響を受けて育った。
 父親アーサーのフィリピンにおける実践が、日本占領におけるダグラス・マッカーサーの改革者の役割となって現れてきたと思われる。
 
 当時のGHQは、この保守的な軍人であるマッカーサー元帥の下で、保守系のウイロビー少将をチーフとするG2(情報局)と革新系のホイットニー准将をチーフとするGS(民生局)が勢力を競っていた。
 日本国憲法の草案の作成は、この革新系の民生局が担当し、ホイットニー准将の下で、民主党系のニュー・ディラー左派に属するケーディス大佐を中心として、優秀なスタッフが、わずか9日間という驚異的な短時間で日本憲法草案を纏め上げた。
 日本国憲法の草案は、彼らによる歴史的傑作ともいえるものである。

 日本の戦後社会の50年は、まさに9日間で作られた日本国憲法を中心にして動いてきた。この日本国憲法において、主要な争点ともなったものを次に見てみよう。




 
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