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1. 日本経済の行方
2. 失われた90年代―日本の「シンス・イエスタデー」
3. 江戸時代のカタストロフとしての明治維新
4. 明治・大正のカタストロフとしての昭和恐慌
5. 昭和時代のカタストロフ −第一部 満州国建国まで
6. 昭和時代のカタストロフ −第二部 日本敗戦への道
7. 平和日本のカタストロフ −第一部 日本国憲法の興亡
8. 平和日本のカタストロフ −第二部 戦後の日米関係(その1)
9. 平和日本のカタストロフ −第二部 戦後の日米関係(その2)

10. 平和日本のカタストロフ −第三部 "花見酒"経済の終焉
          −"楽しうて、やがて悲しき宴かな!"

(1)転形期を迎えた日本経済 ―平成大不況の行方
(2)日本の地価と政策―日本経済は"花見酒"で亡びた!(その1)
(2)日本の地価と政策―日本経済は"花見酒"で亡びた!(その2)

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  10. 平和日本のカタストロフ −第三部 "花見酒"経済の終焉
          −"楽しうて、やがて悲しき宴かな!"

(1)転形期を迎えた日本経済―平成大不況の行方

 元号が昭和から平成に変わったのは、1989(昭和64)年1月7日のことであった。この年の12月13日に日経平均株価は、史上最高の38,062円をつけた。証券業界は、翌90年の日経平均株価は50,000円台を目指すという強気の見解を示していたが、その予想に反して年が変わるとともに、円,株,債券のトリプル安が始まった。それから16年、日本経済は、平成元年を頂点として長い大不況の坂道を下り続けてきた。

 私は「日本の行方」の冒頭で戦前・戦後における日本経済の景気循環から、2005年に日本は21世紀における最初の大不況を経験するであろうと述べた。
 その年がいよいよやってきた。もちろん、2005年が好況になるか不況になるかは、終わって見なければ分からない。
 心情的にはもう誰しもこの長い不況にはうんざりしており、今年あたりから好況になってほしい。しかし2005年が近づくにつれて、私の懸念は不幸にして現実性を帯びてきており、日本のみか世界大不況が起こる可能性すら強くなってきている。

 そこで2005年の最初のテーマとして、平成大不況下の日本経済を長期的な観点から観察し、21世紀を展望してみたいと考えた。

●日本経済の景気循環
 そこでまず、私が指摘した日本経済の120年間にわたる景気循環における10年ごとの「ジュグラーの波」を整理して図表-1に揚げる。

図表-1 日本経済におけるジュグラーの波
西暦 邦暦 好況/不況 景気の状況
1885 明18 好況 税負担軽減、翌19年好況
1890 明23 不況 1889年に日本最初の経済恐慌、1890年に米騒動
1895 明28 好況 日清戦争勝利、景気高揚
1900 明33 不況 翌年にかけ日本最初の金融恐慌、全国的に銀行界の混乱
1905 明38 好況 旅順開城、景気高揚
1910 明43 不況 経済不況でストライキ続発。大逆事件
1915 大4 好況 欧州大戦の軍需増大、経済界活況
1920 大9 不況 第一次世界大戦の戦後恐慌はじまる
1925 大14 好況 米国経済好況の影響を受けて好況
1930 昭5 不況 昭和恐慌が始まる。(1930-32年)
1935 昭10 好況 外国貿易の大出超により大活況
1940 昭15   戦時体制のため不況は検出されず
1945 昭20   太平洋戦争による敗戦。日本経済は機能停止
1950 昭25 好況 特需景気
1955 昭30 不況 戦後初の循環的不況(1954-1955年)
1960 昭35 好況 岩戸景気(1958-1961年)
1965 昭40 不況 戦後最大の不況(山一證券の日銀特融による救済)
1970 昭45 好況 イザナギ景気(1965-1970年)
1975 昭50 不況 石油危機(74年)、初のマイナス成長。初めて赤字国債の発行
1980 昭55 好況 好況(1977-1981年)
1985 昭60 不況 「プラザ合意」による「円高不況」
1990 平2 好況 バブル景気(1986-1992年)
1995 平7 不況 金融・財政危機の深刻化、公定歩合0.5%の超低金利政策
2000 平12 好況? 政府は「平成不況」の下げとまりとプラス成長への転換を声明

   
 上表を見ると、戦前・戦後の日本経済を通じて好況―不況−好況という10年ごとのジュグラーの波は、120年にわたって見事に繰り返されている。
 しかしこの経済循環を繰り返しながらも、日本経済は一貫した経済成長を遂げてきたことを見逃すことはできない。
 そこでまず日本経済の一貫性した成長性を、経済諸指標の面から見てみよう。

●戦後の日本経済の成長と其の終焉
 まず戦後における日本経済の成長の出発点を1955(昭和30)年において、4つの経済指標の推移を、図表-2に表してみた。

 図表-2を見ると、日本経済では1955-1990年において、すべての経済指標が伸びてきている。しかし1990年を境に、国民所得はかろうじて上昇を続けているものの、その他の価格指標が一斉に低落し始めてきており、その低落傾向は、既に16年の長期におよんでいる。
 これが「平成大不況」である。この大不況は単純な景気循環とは全く違なり、この中で日本経済が従来とは全く異なるゾーンに入ってきたことが分かる。  

図表-2 戦後日本の経済成長の概観(1955年の数値=100)


 つまり平成大不況の本質は、1980年代から日本経済が青年期から熟年期に入ったことを背景にしており、既に80年代には日本経済にとって青年期の成長路線は明らかに無理な段階にあった。
 それを無視して無理な経済政策をとったことが、バブルとその崩壊という大失政になり、其の上にバブル崩壊からの脱出過程において更なる経済失政を重ねた。これが平成大不況の原因であることが明らかになってきている。

●平成大不況を作り出した3つの失政
 平成大不況を作り出した大失政には、大きく3つの段階があった。
 その第一段階は、1980年代後半期の中曽根内閣による「民活」政策による大バブルの創出であった。
 第二段階は、このバブルを急速に収束させる過程での日銀による金融政策の失政であり、これが平成不況を更に深刻化させた
 第三段階は、平成不況の全過程を通じて、この大不況の本質を全く理解せず、適切な経済政策を打ち出せなかった90年代以降の政府による無策政治である
 平成不況における最初の5年間に日本の政治を担当した政権は、バブル崩壊後の日本経済の深刻な状況を殆ど理解できず放置してきた。
 
 90年代前半期における政権をあげてみると、竹下、宇野、海部、宮沢、細川、羽田、村山などと数だけは驚くほど多い。その間に、90年代初期の貴重な5年間が空費され、その底辺で平成不況は深刻化の度を深めていった
 90年代後半期の橋本内閣は、驚くべきことに平成不況は既に終わり、日本経済は回復基調に乗ったと錯覚していた。平成不況の底辺にある深刻な不良債権問題を全く理解せず、深刻な日本の金融危機の認識が完全に欠如したまま「6大構造改革」に乗り出した。

 その結果は、アジア通貨危機に直撃され、北拓、山一の倒産といった金融恐慌の寸前までいった。更に、その後を受けた小渕内閣は、在来型の景気対策の大盤振る舞いを行ない、目先の金融危機を切り抜けるための形振り構わぬ政策によって、日本の「財政危機」を殆ど再建不能な状態まで悪化させてしまった。 
      
 このように第3段階の政府による失政が、平成不況の深刻化を決定的なものにした。平成不況の特徴は、バブルの崩壊が1000兆円を超える天文学的な損失を日本経済に与えていたことを90年代の日本の政権が全く理解しなかったことにある。

 この巨大な経済損失は、形式的には回収不能な借金が先送りにされ、「不良債権」の形をとって十数年かけて手のつけられないほど肥大化していったことによる。
 それは、第一次大戦後の不良債権が震災手形として残り、昭和恐慌を深刻化させ、更には太平洋戦争を引き起こした戦前の大失政に極めて似ている。    

 90年代には、日本経済は既に青年期を終わり、熟年期に入っていた。もはや体力が失われている段階で、常識はずれのバブル景気を演出し、それを崩壊させた。しかもその修復をせずに10年間放置し、その最後に形振りかまわぬ大散財を行なって、財政状態を修復不能なほど悪化させたというのがこの16年の中身である。

 2000年代に入り、日本経済は熟年期から老年期を迎えようとしている。
 この段階の日本経済について、政権を担当している小泉内閣が正しく理解して、適切な政策を行なっているとは全く思われない。
 日本は、不幸にして現在の危機的状況のままで、いま世界一の高齢化社会を迎えようとしている。

 小泉首相が政策の旗印とする道路公団、郵政公社などの民営化は、21世紀を日本経済が生き延びるために必要・不可欠であることはいうまでもない。 
 しかしそれらの政策は、日本経済の復活・再生のためには、殆ど枝葉末節といえるほど小さな問題である。

 その大きな問題を放置したまま、現在の小泉政権はイラク戦争への自衛隊派遣、靖国問題、特殊法人の民営化問題など長期的には殆どマイナスの政策を続けてきているのが現状である。これは21世紀に入っても続く第4の失政であり、ことここに到るとこのような無能政権を支持する日本国民に責任があると考えざるをえない。

●高齢化と人口の減少
 21世紀の日本経済における最大の問題は、高齢化と人口減少への対処である。そこでまず、日本の人口の長期的な推移と厚生労働省による将来人口の推移予想を図表-3に揚げる。

図表-3 日本の人口推移(厚生労働省推計)

 図表-3を見ると、戦後に8千万人であった日本の人口は90年代には1億2千万人にまで増加しており、1955-1990年の日本の経済成長を支えた背景には、かなり安定した人口の増加があったことを示している。
 しかも人口に占める65歳以上の高齢者比率(=「高齢化率」)は、この期間を通じて10%未満である。その段階では、日本国民の殆どの人々が日本の経済成長の担い手になっていた。

 この経済成長を支えてきた日本の人口と年齢構成が、21世紀に入り一変する。2000年の高齢化率は、17.3%であるが、2010年代にはそれは20%台にのり、更に2020年代以降は30%台に乗ることが予想される。
 21世紀の日本が迎える高齢化の急速な進行は、世界でも類例のないスピードといわれ、その段階では生産に従事する労働人口は減少し、逆に医療や介護が必要な人口が増える。その結果として国民所得は減少し、経済は衰退していくことになる。

 2000年に1億2千万人あった日本の人口は、21世紀の中ごろには、1億人に減少するばかりか、その人口の4割近い人が65歳以上という効率の悪い高齢化社会に突入することが予想されており、65歳未満の人口は6千万人台に落ち込む。(厚生労働省推計)

 しかも厚生労働省の人口推計は、現在では、80歳近い高齢にある日本人の平均寿命を前提にして計算している。明治、大正期の日本人の平均寿命は40歳代であり、それが60歳台になったのはごく最近のことである。つまり現在の人口推計の根拠となる80歳近い平均寿命は、長い歴史の中では異常に高い数値であるといえる。
 この平均寿命が短縮されれば、日本の人口は予想より早い時点から急減期に入る。

 図表-3では、2050年の日本の人口を約1億人と推計しているが、私はそのときの非高齢者数6千万人に高齢者を1千万人として、21世紀の中ごろにおける日本の人口は8千万人程度まで落ち込むと考えている
 その段階で、現在の国民所得の水準を維持することは非常に困難である。従って21世紀の日本の実質国民総生産は現在の500兆円をピークにして今後は下落の道を辿ることが予想される。

●人口低減下での日本経済
 21世紀前半の高齢化率20-30%という段階の日本経済の運営は非常に難しい。老人たちは老後の生活や医療費の負担から消費を節約するのみでなく、社会的な消費構造も大きく変化する。しかも高齢化社会における経済運営は市場原理に乗りにくい部分も多く、政府の財政支出に依存しなければならないことが少なくない。

 その重要な時期の日本の国家財政が、21世紀初頭の現在において、完全に破産状態にある。更に破綻した国家財政の借金の債権者は、日本では殆どが日本国民である。2004年段階で日本国民の個人の金融資産は1400兆円といわれるが、特殊法人までいれた国家債務は既にそれと同じ1400兆円に達しているのである。

 1980年代の中ごろ、国際的な交通、情報、金融などの面から、日本は21世紀には、世界経済のセンターになると思われた時期があった。
 しかし現在時点では、その国際的ネットワークの拠点は、中国、韓国、シンガポールなどに奪われて、国際的な金融産業は次々に日本から撤退している。そして日本は、高物価、高賃金、高地価に加えて、規制緩和が大幅に遅れた魅力のない国になりつつあるのが現状である。それに高齢化と人口減少が加わったらどうなるであろうか?

 更に、現在の危機的財政状態は、近い将来、大幅な増税に迫られることを予想させる。そして現在でも高い水準にある日本の税金がこれ以上あがるとすれば、もはや日本の企業や高額所得者は、ビジネスの本拠をアメリカなどへ移し始めるであろう。そしてその兆候は、最近、明確に現われ始めている。そのあとに残るものは、資源の出ない国土と高齢者と失業者が、巨額の負債と医療費にあえぐ地獄図絵である。
 一体、21世紀の日本はどこへ行くのであろうか?




 
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