(3)日本は自立できるか?
1950年10月13日、政府はGHQの承認を得て、追放解除を訴願中の19,000人の追放解除を発表した。 既に、48年12月末にはA級戦犯であった重光葵、岸信介なども巣鴨拘置所から釈放されており、彼等も4年後の52年春に追放解除となった。このとき以降、日本の戦前からの政治勢力の復活の動きが始まった。
●鳩山内閣と日ソ交渉
1954年12月、7年の長きに亘った吉田政権がようやく終わり、吉田茂に代わって鳩山一郎が政権の座についた。
鳩山一郎は戦前からの政党政治家である。1946年4月10日に行われた戦後初の総選挙に出馬して、その選挙で第1党となった自由党の総裁となり、幣原首相の次の首相になることが予定されていた。
ところがその直前に、鳩山は突然公職を追放され、代わって幣原内閣の外務大臣であった吉田茂が自由党総裁・総理大臣の座についた経緯がある。
鳩山は、不運な政治家であった。講和会議の年、追放中ではあるものの、2ヵ月後の解除を目前に、その後の進路を協議していた。その最中に私邸で脳溢血により倒れた。その後、鳩山は、不自由な体で政界に復帰し、三木武吉、河野一郎などの協力を得て72歳でようやく政権を取る事が出来た。
ちなみに吉田茂の退陣の歳が76歳、吉田が鳩山に代わりに政権の座について10年の歳月が流れていた。
外務官僚の出身で国民を無視した態度から「ワンマン」とよばれ、国民に不人気であった吉田政権にくらべて、党人派の鳩山政権は「鳩山ブーム」と呼ばれるほど人気が高かった。
鳩山首相は、54年12月の組閣後、外交面では、アメリカ寄りの吉田外交とは一線を画す「自主的国民外交」の政策を掲げた。そして、ソ連、中国との交流、平和共存、国交回復を目指すという社会党寄りといえる態度を示した。
一方、内政面では、マッカーサー憲法を排し、自主憲法を制定するための憲法改正をとなえた。この動きに危機感をもった社会党は、改憲阻止をめざして保守より前に合同に踏み切り、護憲に必要な3分の1を超える議席を確保した。そのため、憲法改正の発議は困難になっていた。
この社会党の合同が、その後の保守合同の直接の動機となり、今なお続く「55年体制」は、この過程で形成された。
▲ソ連との国交正常化交渉
サンフランシスコ平和条約の調印後、ソ連、中国との国交正常化が日本外交の大きな課題になって残された。平和条約の発効後、日本は国連加盟を申請したがソ連の拒否権により否決され、ソ連との国交回復は日本の国連加盟のためにも必要・不可欠になっていた。
ソ連側も日本との国交正常化には関心を持っていた。1954年5月12日、ソ連外相モロトフは、日本の新聞の質問に対して対日国交正常化の用意があると回答していた。12月10日に鳩山内閣が成立すると、モロトフは再び国交正常化の用意があることを表明し、更に12月22日にはソ連政府の機関紙「イズベスチア」は、「サンフランシスコ平和条約は、日ソ国交正常化の交渉の障害にはならない」と論じていた。
鳩山の「自主的国民外交」には中国も反応した。12月30日、「人民日報」は社説で、「日本はアメリカとの関係を断絶しなくても、ソ中と国交正常化は出来る」と述べた。
鳩山内閣の重光外相は、ソ中との国交回復には消極的であったが、鳩山首相は日ソ国交正常化を強く指向しており、ソ中との外交正常化の実現は、吉田の「対米従属路線」を批判して登場した彼の重要な政治課題になった。
1955年1月7日、日本占領期のソ連代表部主席代理・ドムニツキーが鳩山の私邸を訪問し、日ソの折衝は東京で開始された。鳩山は、戦争終結宣言と両国の交換公文により日ソの国交を回復し、懸案の交渉は後で行うという解決策を考えた。
しかし重光外相は国交を回復すれば、ソ連は懸案の交渉には応じないと反対し、首相と外相の対立は、マスコミから「2元外交」と批判された。
2月4日の閣議で対ソ交渉の開始が決定し、第2次鳩山内閣の成立後、日ソ交渉全権に松本俊一が任命された。松本は1951年以来のイギリス駐在大使であり,吉田の「対米従属」外交を批判して吉田退陣後に民主党に入党し、1955年2月に当選したところであった。
交渉場所はロンドンに決まり、ソ連側全権はイギリス駐在大使のマリクが当たり、6月3日に交渉が開始された。
日ソ交渉は、国交回復後の漁業・通商両協定の締結、主権の尊重と内政不干渉、賠償請求権の相互的放棄、日本の国連加盟の実現などでは双方の原則的一致を見た。
しかし、在ソ抑留日本人の送還、領土、海峡航行権、安全保障の諸問題で双方は対立した。
日本は、ソ連抑留未帰還者は生存確認1452人、不明11,190人という数字を示し、即時送還を要求した。ソ連は、現在の在ソ日本人は戦争犯罪人として服役中としていたが、会談の途中で戦犯の一部を釈放し、抑留者名簿を手交するなどの対応を示した。
海峡航行権については、ソ連は根室、宗谷、津軽、対馬の各海峡は各国商船の自由航行を認め、軍艦は日本海沿岸諸国のみを認めよと主張した。また安全保障問題では、日本が対日戦争に参加したいかなる国とも、連合または軍事同盟を締結しないように要求した。
領土問題については、日本は南樺太、千島、ハボマイ、シコタンの返還を要求したが、ソ連は日本がその全部の権利を放棄して、ソ連の主権を承認することを要求した。しかし8月上旬に、マリクは非公式の席で、条件によってハボマイ、シコタンの2島返還の用意があることを洩らし、松本全権は南樺太、千島を放棄し、ハボマイ、シコタンの2島返還で交渉を妥結させたいと考えた。
しかし重光外相は、「南千島(クナシリ、エトロフ)は、サンフランシスコ条約の「千島」には含まれず、歴史的に日本の領土であるとして4島返還を要求する強硬提案を訓令した。ソ連側は日本の突然の強硬発言に態度を硬化させ、交渉は決裂し、9月13日に交渉は中断した。
55年9月で中断した日ソ交渉は、第3次鳩山内閣の1956年1月17日にロンドンの松本全権とマリク全権の間で再開された。しかし重光外相が早期妥結に反対している上に、自民党の中でも旧自由党系に反対論が多く、「4島の無条件返還」、「南樺太、北千島の帰属は旧連合国の決定に従う」、とする前回と同じ主張を繰り返した。マリク代表も,前回と同じ提案を繰り返したため、3月20日以降、無期限休会状態となった。
翌3月21日、ソ連がモスクワ放送を通じて、北洋のサケ・マス漁業の制限措置を一方的に発表したことから、再び、日ソ国交回復の交渉を再開せざるをえなくなり、鳩山首相は河野一郎・農相をモスクワへ派遣して、5月14日に日ソ漁業条約と海難救助協定に調印した。この条約と協定は日ソ国交回復と同時に発効することが約束された。
再開された日ソ国交回復交渉は、重光外相が全権委員として松本全権と共にモスクワでソ連外相シェピーロフとの間で7月31日から再開されたが、領土問題で両者は平行線を辿った。重光は、「ハボマイ、シコタンは平和条約発効時にソ連から日本へ譲渡、クナシリ、エトロフの返還要求を撤回して、平和条約には帰属を明示せず、実質的にソ連領とする」という譲歩案を示したが、それでも交渉は成立せず、重光全権はソ連案の受諾を鳩山内閣に要請した。しかし臨時閣議はソ連案の受諾反対を決め、交渉は中断された。
1956年10月7日、鳩山と河野は日ソ交渉全権としてモスクワへ向かい、ブルガーニン首相やフルシチョフ第一書記と会談を行った。フルシチョフは、即時返還には応じなかったが、平和条約締結後にハボマイ、シコタンを日本側に引き渡すことに同意し、10月19日の日ソ共同宣言にも盛り込まれた。
更に、共同宣言と同時に貿易の発展と最恵国待遇の許与を約束する通商航海議定書の調印も行われた。しかしその後、21世紀に到るまで平和条約の交渉の目途がたたず、ハボマイ、シコタンをはじめとする北方領土の返還の目途は立っていない。
鳩山内閣は、日ソ復交と国連加盟という懸案を処理したが、領土問題が残された。更に、日中国交回復、日韓・日朝関係の正常化、沖縄・小笠原返還など一連の課題も後に残された。
アメリカ政府からみた見た鳩山政権は、アメリカにとって日本の重要性を盾にとって、独自路線を採りそうな危険な政権と映った。
在日アメリカ大使館のシーボルト国務次官補代理の秘密報告書では、鳩山が中国との折衝をかなり進めようとしていること、米軍への支援を軽減すると思われること、鳩山が防衛力強化に賛成するのは米軍の早期撤退を促すためである事、独自色を強めて、アメリカに対して非協力的な態度をとるようになると思われる事など、吉田の後を受けて、かなり警戒されていたふしがある。(加瀬みき「大統領宛・日本国首相の秘密ファイル」朝日新聞社、64頁)
●戦後最大の政治の季節を演出した岸内閣―60年安保改定
岸信介は、太平洋戦争開戦時の東條内閣の商工大臣である。そのために戦後はA級戦犯の容疑者となって巣鴨拘置所に抑留された。
その人物が戦後に再び総理大臣の地位にまでのぼりつめた。このようなケースは、世界史的にも他に類例を見ないものであろう。
その意味から、岸はその特異な風貌もあいまって、「昭和の妖怪」と呼ばれた。
▲戦前の岸信介
岸信介は、明治以来、政治家の主流をなしてきた長州(=山口県)の名家の出身である。第一高等学校、東京帝国大学・法学部を首席で卒業し、1920(大正9)年、当時の官僚の主流は内務省か大蔵省であったが、あえて農商務省を選択して入省。
第1次世界大戦で勃興した日本の産業行政に関心をもったと思われる。
同省が1925(大正14)年に商工省と農林省に分離した後に、商工省文書課に移り、後に満州重工業副総裁となる吉野信次の下でコンビを組んだ。
商工省の中では、当時、商務局と工務局の系統が鋭く対立していたが、吉野閥は工務局系であり、次官となった吉野と共に、産業合理化政策を取り入れ、重要産業統制法を敷いて統制経済への道を開き、軍部にもその名を知られるようになった。
工務局長時代に、国産自動車工業を確立させ、セメント、肥料、製鉄、人絹など、様々な統制上の問題を解決したことから岸の名声は更に高くなった。
1936(昭和11)年の2.26事件が起こる頃には、陸軍統制派と組んだ新しい官僚群である「革新官僚」の商工省における頭目になった。
1936(昭和11)年10月、商工省・工務局長から満州国実業部次長となり渡満した。当時、満州国は日本の大植民地として、その経済は大きく日本経済に取り入れられようとしていた。
岸が渡満した年の2月に、参謀本部の方針に従い、石原莞爾・幕下の宮崎機関=日満財政経済研究会は、日本7、満州3の割合で軍需産業を急速に拡大する経済・財政計画を作成していた。
この計画は11月に、「帝国軍需産業拡充計画」として精密化され、満州の軍需産業は昭和12年度から「満州産業開発5ヵ年計画」として実施されることになった。
岸はまさにこの時期に渡満し、たちまち「2キ3スケ」(憲兵隊長=参謀長・東條英機、総務庁長官・星野直樹、満鉄総裁・松岡洋右、満州重工業総裁・鮎川義介、岸信介)の1人として満州国の最高実力者になった。
岸の渡満の翌年、日支事変が始まり、東京では戦時体制に備えて企画院が創設され、満州の産業5カ年計画は日本全体の戦時物資動員計画へと性格を変えていった。
満州の関東軍は、5ヵ年計画の策定と合わせて、満鉄と1業1社による開発方式を改め、鮎川義介(日産)、野口遵(日本窒素肥料)などの大型企業の満州進出を図ろうと考え、陸軍省と参謀本部は軍備増強の柱として、自動車・飛行機の緊急増産の一部を満州で行う構想を持っていた。
岸は、鮎川義介の引き出し工作を行い、1937(昭和12)年10月、日産と満州国政府の対等出資による国策会社である満州重工業の設立に成功した。これは財界の2.26事件と呼ばれるほどの衝撃を各界に与えた。
満州重工業は、その後、満州国の運命に似た苦渋の運命を辿った。
しかし、一方の岸は1939年10月に帰国し,商工次官をへて、1941年、東條内閣の商工大臣となった。
満州時代の岸は、田尻育三「昭和の妖怪 岸信介」によると、「まさしく独善のにおいが充満していた。・・多くの満州為政者たちの中でも、とりわけ岸は徹底して東京向きの姿勢を崩さず、「日本のための満州国」を貫いた」(学陽書房、84-85頁)とされている。なお満州時代の岸の関係資料、記録類は、殆ど残されていない。
▲戦後の岸信介の復活
GHQは1945年9月11日、東條内閣の閣僚など39名に戦犯容疑で逮捕状を出した。郷里・山口で猩紅熱を患い保養中であった岸は9月15日に逮捕されて、巣鴨プリズンに入所した。
上京に際して、「名にかへて、このみいくさの正しさを、来世までも語り伝へん」と歌を残したという。(岩川隆「巨魁 岸信介研究」ダイヤモンド,64頁)
また別の歌もある。「顧みて、やましきことのなかりせば、千よろづ人も我は畏れじ」(同上書)。
岸の戦争に対する正しさの信念は、東京裁判を通じて変わらなかったようである。それにしては、満州時代の資料が全くないのは不可思議である。
満州では、膨大なアヘン取引により巨額な資金が作られたり、人体実験により生物・化学兵器が開発されていた事実も、岸の場合には、「正義の戦争」として許容されるものなのであろうか?
1948年12月24日、クリスマス・イブに岸は巣鴨プリズンを出所した。そして1952年に文化団体「日本再建同盟」を結成、追放解除とともに同連盟の会長となった。10月の総選挙で日本再建連盟は10数名の候補者を立てたが、当選者1人という惨敗を喫した。
翌53年3月、岸は自由党に入党し、4月の総選挙で当選。12月には、自由党憲法調査会会長となる。
54年11月に、鳩山と共に日本民主党を結成して、鳩山が総裁、岸が幹事長となった。翌1955年11月に自由民主党が結成され、第3次鳩山内閣が発足し、岸は幹事長となった。
1956年12月、自民党総裁選に出馬したが、石橋湛山に敗れて石橋内閣に外相として入閣した。ところが石橋は、病気のため僅か2ヶ月で首相の座を降りたので、1957年2月、第一次岸内閣が成立した。
岸は、巣鴨プリズンを出獄してからわずか8年で総理大臣として復活した。この裏には、戦前の商工省、満州国で作られた財界との人間関係とその強力な支援があったといわれる。
▲岸内閣発足―アジア外交と日米新時代
1957年2月25日、わずか63日と短命であった石橋内閣の閣僚を殆どそのまま継承して岸内閣が発足。岸は首相と外相を兼任した。
石橋湛山から岸信介への政権交代は、日本の外交の基調を一変させた。そこでは同じ「自主国民外交」を唱えていても、その内容が大きく変わった。
石橋は鳩山が残した日中関係の改善に関心を持ち、積極的に行動していた。しかし岸の場合には、彼の思想も経歴も日中関係の改善には大きな障害となった。
1950年代の戦後処理の一つは東南アジア諸国に対する賠償支払いの協定であり、これがその後、日本の国際経済への復帰の大きな契機になった。サンフランシスコ平和条約では、日本の在外資産請求権の放棄や戦後の占領費の日本による負担を実質的な賠償とみなし、原則として賠償の取立てを行わない事を決めた。
しかし連合国の中で、特に賠償の支払いを希望する国があれば、個別に交渉するとした。これに対してビルマ、フィリピン、インドネシア、ベトナム共和国(南ベトナム)の4カ国が賠償支払いを申し出たため、1955年から1959年にかけてその交渉が行われた。
この賠償支払交渉により、総額3643億4880万円が支払われ、借款は2547億円行われることが決まり、更に、この外に50年代から60年代にかけて、ラオス、カンボジア、タイ、ビルマに対して無償の技術・経済協力などが約束された。
これらの賠償や借款が、一方では、戦後の日本産業の東南アジア進出の大きな契機となった。
賠償協定は、すでに吉田・鳩山内閣の時代にビルマ・フィリピンとの間では協定が成立しており、岸内閣の時代にインドネシア、南ベトナムとの間で調印された。
この賠償協定をもとに、岸は戦前の「大東亜共栄圏」の後始末をつけ、戦後の新しい条件の下で、日本と東南アジアの経済関係の発展の手がかりを得ようと考えた。
つまり日本を中心にした反共のための新しい「大東亜共栄圏」を作ろうと考えたといえる。
岸は、1957年5月20日から6月4日にかけて東南アジア6カ国(ビルマ、インド、パキスタン、セイロン、タイ、台湾を歴訪した。
岸は、このアジア歴訪によりその後のアメリカ訪問に際して、日本がアジアを代表する姿勢を示し、そのことにより日本の自主的立場を強化しようと考えた。
岸は東南アジア訪問に際して、欧米諸国と日本を含むアジア諸国の協力による東南アジア開発基金や技術センターの設置構想を示したが実現できなかった。
最後に訪問した台湾では、蒋介石と会談し、日華協力委員会をつくった。しかし台湾との連携を強めることは、中国大陸との関係を絶つことであり、石橋時代の日中関係の改善は後退を通り越して、極度に悪化することになった。
1957年6月に名古屋と福岡で予定されていた中国商品展は無期延期になり、1957年9月21日に北京で開始された貿易交渉も難航した。
1957年6月16日、岸は官房長官・石田博英、政調会長・福田赳夫、元日ソ交渉全権・松本俊一と共に訪米して、アイゼンハワー大統領、国務長官・ダレスらと会談した。岸は、この会談において日米安全保障条約の改定、沖縄の施政権返還、小笠原島民の帰島、核兵器の禁止など、非常に重要な問題を要望したといわれる。
安保条約の改定については、ダレスから拒否された。ちなみに、日本の首相が政権の座につくと訪米してアメリカ大統領と会談する慣習は、岸から始まったといわれる。
6月21日に「日米共同コミュニケ」が発表され、1951年の安保条約は、暫定的なものであり、永久に存続する意図はない事が付記され、安保条約に関する政府間の検討委員会を設置することになった。
アメリカ側は、日本の防衛力整備計画を歓迎し、在日米軍について陸上部隊の全面的撤退を含む大幅削減を実施することを約束した。
この頃、在日米軍と日本国民の間では、いろいろな問題が起こり始めていた。まず1957年1月30日,群馬県相馬が原射撃場で、薬莢を拾い集めていた日本人農婦をアメリカ兵ジラードが、故意に射殺する「ジラード事件」が起こった。
7月にアメリカの最高裁は、アメリカの軍事裁判にかけるべきとする連邦地裁の判決を棄却した。ジラードは前橋地裁で、障害致死で懲役3年(執行猶予4年)という犯罪の重大さに比して、あまりに軽い判決を受けたのみか、地検は控訴せず、ジラードは12月に帰国してしまった。
同じ年の8月2日、茨城県下において超低空で飛行中の米軍機が通行中の日本人母子を殺傷する事件が起こった。アメリカ側は、「公務中の過失」を主張し、更に、日本側が裁判権を放棄して不起訴処分にする、という理不尽な事件に発展した。
一方で、東京都立川では米軍基地の拡張に反対して、砂川町住民・支援団体と強制測量を実施しようとする調達庁側が激突して1000人に達する負傷者が出る事件が起こっていた。
日米共同コミュニケは、アメリカは沖縄・小笠原への日本の潜在主権は認めたものの、極東に脅威と緊張が存在する限り現状を維持することを明記していた。
米軍が日本に駐留する限り、日本人との間で同種のトラブルが拡大する事は明白であった。
1958年6月12日,第2次岸内閣が発足し、岸は外交3原則(国連中心主義、自由陣営との協調、アジアの一員としての立場の堅持)を掲げて、7月から藤山愛一郎外相は、駐日アメリカ大使マッカーサーと安全保障条約の根本的改定の準備交渉に着手した。
日本の戦後史を揺り動かした60年安保闘争と岸内閣の対決が近づいていた。
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