(7)沖縄返還とニクソン・ショック(その2)
●ニクソン・ショック
佐藤政権は、安保と沖縄問題ではアメリカ大統領ニクソンとの交渉においてある程度の成功を収めた。しかし、ニクソンが、沖縄返還の代償として持ち出してきた繊維交渉(=毛・化合繊の対米輸出を規制する国際協定の交渉)について、非常に軽く見ていたふしがある。
その繊維交渉を大平、宮沢の2代の通産大臣に任せたままにして、殆ど進展を見せていなかった。このことによってニクソンから、その後に、激しいしっぺ返しを受ける事になった。
繊維製品の対米輸出規制の問題については、ニクソンが大統領選挙に際して、南部の繊維業者に約束していたものであるが、その内容は、国際経済の常識に著しく反したものであった事は確かである。
しかしニクソンにとっては、それは沖縄と交換するほどの、重要な問題であった。
そのため70年6月に日米繊維交渉が決裂すると、アメリカ側は対日貿易を制限する動きを見せて日本を牽制し、70年10月の佐藤・ニクソンの首脳会談で再び繊維問題を取り上げるところまできた。
70年1月、佐藤首相は、繊維問題の解決のために通産大臣を大平から宮沢に代えていた。しかし宮沢とアメリカ側との交渉は、6月には決裂という事態を迎えていた。ニクソンはそのことで、繊維問題に対する最後ののぞみを、10月の佐藤・ニクソン首脳会談に託したと思われる。
しかし首脳会談の結果は、日本側の最終的な決着の見通しもなく「合意を目的とした政府間交渉」の再開を約束という問題の先送りで終わった。
これに対するニクソンの怒りが、「ニクソン・ショック」として佐藤に降りかかってきた。結局、繊維問題の処理は、ニクソン・ショックに衝撃を受けた佐藤首相が、宮沢を田中角栄・通産大臣に代えて、解決してもらうことになった。
その「ニクソン・ショック」の第1は、1971年7月15日に発表されたニクソンの訪中計画である。この衝撃的なニュースについて日本政府が通告を受けたのは、発表のわずか2時間前であった、と「佐藤日記」は書いている。
第2は、1971年8月15日に発表されたドルと金の交換停止である。
これについても大統領による発表の演説中に、ロジャース長官が大統領の代理として電話をかけてきた、と佐藤日記に書かれている。
「太平洋新時代」とか「日米同盟」といっても、その実態はこの程度の頼りないものであったことがよく分かる。
▲ニクソン訪中
アメリカは、1950年に朝鮮半島で中国軍と本格的な交戦を交えてから、「中国封じ込め政策」が極東戦略の大きな要になっていた。
そして、このアメリカの極東戦略を忠実に信奉する日本政府は、かつて鳩山、石橋内閣が「自主外交」の名の下に中国との国交回復を進めたことはあるものの、岸内閣以降、中国との国交は政府としては推進するどころか、台湾政府を「中国」を代表する政府と考え、中華人民共和国に対しては仮想敵国として見る関係にあった。
沖縄返還の成功により、70年代に対して快調なすべりだしを見せていた佐藤政権にとって、「ニクソン訪中」は夢にも考えられない一大衝撃であった。
当時、アメリカはベトナムへの軍事介入の失敗を認め、「名誉ある撤退」を模索せざるをえなくなっていた。そして中国をベトナム和平の実現に向けての仲介役として利用しようということが、中国への接近の大きな動機になった。
またニクソンの、アメリカ外交の歴史的転換を果たした大統領として名をとどめたいという野心がこれに加わった。一方の中国も60年代後半、国内的には文化大革命の拡大とともにその弊害がいたるところで現れ始めていた。その上、国際的にも平和協調路線でソ連との間に大きな亀裂ができたのみか、69年には中ソ国境で武力衝突を起こす事態になっていた。
このような状況の下で、中国では1970年夏の盧山会議において現実主義の周恩来とその支持者たちが、対米強硬派であった国防相・林彪の一派に対して勝利を収めることに成功した。
ちなみに林彪は70年に毛沢東の反対により国家主席の就任に失敗し、翌71年9月にクーデター未遂事件を起こし、ソ連へ逃亡を図る途中、飛行機事故でなぞの死をとげた。
ニクソン大統領は、70年10月、パキスタンのヤヒア・カーン大統領が訪米した際、中国との交渉開始を要請するメッセージをカーン大統領に託したといわれる。
パキスタンの大統領は、ワシントン訪問の後、北京を訪問する予定になっていた。ニクソン訪中の交渉はここから始まった。(ジェームス・マン「米中奔流」共同通信社、45頁)
ニクソンの訪中計画は、キッシンジャーを特使にして隠密裏に進められた。数ヶ月のうちにその成果は、アメリカの外交政策にいくつかの大きな変化を齎した。
71年10月、中国は国連への加盟を認められ、蒋介石の国民党政権は国連の議席を失った。アメリカは,公式には二重代表制を目指したが、結果は中国に譲った。
中国との新しい関係を考慮して、ニクソン政権はインド・パキスタン戦争でパキスタンを支持することまで表明した。
ニクソン政権においては、訪中の実現に誰もが熱中していたといわれる。
1972年2月21日から1週間にわたるニクソンの歴史的訪中は世界史の流れを変えた。当時、日本では、2月19日に連合赤軍の浅間山荘事件がおこり、60年安保につづく反対運動の最後を象徴する事件が起こっている時期であった。
ニクソン訪中における米中共同声明では、台湾海峡の両側が一つの中国であると述べていた。そして台湾問題の平和的解決を念頭にして、米国政府は台湾の米国軍事力と軍事施設を逐次減少させることを表明した。
佐藤首相は、ニクソン訪中の米中共同声明を鎌倉の別荘のテレビで見ていた。ニクソン政権の米中接触において、日本は完全につんぼ桟敷に於かれていた。佐藤がこの秘密交渉の経過を若泉敬に命じて調査させたのは、後述する第2のニクソン・ショックの後のことである。
ニクソンが,日本に対して米中交渉をこれほどまでに極秘にした理由は、日本の官僚制度では秘密が守れないと考えたから、ともいわれる。(山田栄三「正伝 佐藤栄作」下、新潮社、304頁)
佐藤政権は、台湾の国民党政権を中国を代表する政府として考えてきた。
岸、佐藤政権は、従来、中国大陸に対しては敵視政策をとってきていた。そのため、佐藤内閣としては新しい日中の国交回復は、最早処置なしであった。そして日中国交正常化は、次の田中政権の成立を待つしかなかった。
▲第2のニクソン・ショック−金・ドルの交換停止
最初のニクソン・ショックからわずか1ヵ月の後、第2のニクソン・ショックが佐藤政権を直撃した。
第2次世界大戦後、世界の金準備は殆どアメリカに集中してしまい、戦後の国際通貨における金本位制は、唯一、ドルによって維持されてきた。
その国際通貨としてのドルが、ベトナム戦争による放漫財政のため、もはや金との交換性を維持できなくなった。そして、ニクソン大統領は71年8月15日、金とドルの交換を一時的に中止する事を発表し、再び、世界中に大衝撃を与えた。
今回も突然のことであった。8月16日の朝10時すぎ(ワシントン時間、8月15日午後8時)、佐藤首相はニクソン大統領の代理としてロジャース国務次官から電話を受けた。丁度、その時、ニクソンは全米に向けてのテレビ放送を始めていた。
その内容は、「ドルと金の交換を一時停止する。暫定的に10%の輸入課徴金を課する。90日間、すべての賃金、物価を凍結する」というものであった。
この発表は、日本の場合、戦後続いてきた1ドル=360円という固定為替レートが崩れて、為替相場は日々の市場が決定する変動相場に移行することを意味していた。目先、ドルは円に対して暴落が予想されるので、ドル資金を大量にもっている日本の銀行、商社、メーカーは大損害を受ける恐れがあった。
そこでヨーロッパ各国は、直ちに外国為替市場を閉鎖した。ところが日本だけは世界中で唯一、外国為替市場を16日から27日まで開き続けた。しかも親切なことに、この間、1ドル360円で交換を続けて、日本の銀行、商社などを巨大な損失を蒙る事から救ったのである。この間、当然、外資系の企業も日本で換金したと思われる。その額は総額46億ドルにのぼり、そのことによる為替差損は、すべて日本国民に転化された。
このニクソン・ショックについては、「日本の行方」で既になんども取り上げているので、これ以上、詳しくは述べないが、事件の詳細は、塩田潮「霞ヶ関の震えた日」サイマル出版、に詳述されている。
同書によれば、ニクソン声明の内容、意味、重要性などは、当時の日本政府の首脳であった佐藤首相、竹下登・官房長官にほとんど理解できなかった、といわれる。
竹下の述懐によると、「この瞬間は勿論のこと、ニクソン声明の中身が伝わってからも、失礼ながら佐藤総理はその意味についてあまりおわかりにならなかった。・・・総理だけではなく、私なんかもよくわからなかった。」塩田「前掲書」17頁)このとき知事会議が開かれていて、琉球政府首席・屋良朝苗は、水田大蔵大臣からニクソン声明を伝えられた。
沖縄では返還後は、1年後あたりまで、円・ドルの双方が通貨として使えた。そのため「これはただならぬ事態となった」と感じた屋良が佐藤に語りかけると、佐藤は、「沖縄はアメリカの施政下にあるのだから心配はいらんだろう」といった。これは屋良知事の方が息を呑む言葉であったと思われる。(塩田「前期書」)
私の記憶では、屋良知事の予感があたり、沖縄県民は本土復帰にあたり、1ドル360円ではなく、切り上げられた交換レートにより手持ちのドルを円に換えさせられた。そのことにより、多額の個人資産の目減り(=損失?)が出た。
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