(5)日米安全保障条約(その2)
●新安保条約に反対する国民運動化
▲新安保条約の反対闘争の始まり
1958年10月から始まった安保条約の改定交渉は、1年3ヶ月をかけて1960年1月6日に妥結し、1月19日にワシントンのホワイト・ハウスにおいて、日本側・岸首相以下5人、アメリカ側・ハーター国務長官以下3人の間で署名・調印された。
岸政権に対する反対運動は、既に58年秋に提出された警職法改正に対する反対運動から始まっていた。59年3月28日には、社会党・総評など13団体の呼びかけで、「安保条約改定阻止国民会議」(以下、国民会議という)が結成され、東京八重洲口の国労会館には、134団体(その後、138)の代表620人が集まった。
そこで「・・私達は、日本の安全保障はいかなる軍事ブロックにも加入せず自主独立の立場を堅持し、積極的な中立外交を貫くことによってこそ確保できると信じます。このことは平和憲法をゆがめずに厳守することによって実現は可能であるとおもいます。・・」という呼びかけ文書が配布され、国民の力で、「安保条約の廃止と改定の阻止」のために立ち上がる事が確認された。
1959年秋の臨時国会が開かれた頃には、新安保条約の内容は新聞報道などで明らかになっていたが、11月10日の衆議院本会議における藤山外相の安保改定の中間報告により、新条約の主要事項が国会の場で明らかになった。
この臨時国会は、「ベトナム賠償国会」といわれ、審議打ち切り、強行採決を行い、安保国会のリハーサルのような場になった。
国民会議が組織した安保反対の統一行動は、59年4月15日を皮切りに、11月27日のベトナム賠償国会のデモまで8次にわたって行われ、その後の大運動の地盤は既に作られていた。
11月9日には文学者などによる「安保批判の会」、12月5日には法学者などによる「安保改定阻止法律家会議」が発足し、この頃から、安保反対は国民的運動の性格を帯び始めた。
国民会議は、11月27日、12月10日に安保阻止の統一行動を展開することにした。特に11月27日は、全国各地の地域集会のエネルギーを結集して,国民会議発足以来、最大の統一行動として盛り上げようと考えた。
午後2時半、国会に通じる3方の道路を埋めて請願大会が開かれた。国民会議の発表では,参加者は8万人といわれた。3時過ぎ、一部は国会構内へ入り、座り込み警官隊と衝突した。この衝突による重軽傷者は、300人に上ったといわれる。
この日の統一行動は全国的に展開された。東京での国会デモのほかに、大阪では5コース、4万人のデモ、京都・丸山公園の集会に5千人、このほか関西地区の集会参加者は8万人、東海・北陸67箇所、8万6千人、中・四国地区で1万4千人、東北5万4千人が集会・デモを行った。
この日の統一行動としては、総評,中立労連傘下の組合で、炭労・合化労連の24時間ストを始め、200万人参加のスト、集会が開かれた。(塩田庄兵衛「実録・60年安保闘争」新日本出版社)
このような全国的で大規模な市民運動が、外交問題で展開されたことは、日本の近代史上、類例を見ないものである。その波紋も大きく、自民党は国会周辺のデモ規正法を画策したし、国民会議側も混乱した。
そして12月10日の国会デモは、労働者・学生の部隊は計画を中止し、安保批判の会の文化人・芸術家集団だけが、警官隊に守られて国会に静かにデモ行進した。
年が明けて、60年1月19日の新安保条約の調印に向けての反対運動も、新年早々から始まった。多くの地域でメーデーに匹敵する大動員が行われ、農民、漁民、文化人、キリスト教徒、家庭の主婦など、全国民的規模での反対運動が広がった。
1月16日、全権団の出発当日の羽田空港での抗議デモは、その是否をめぐり意見が対立し、結局、全学連主流派が前日から空港ビルに立てこもったが、警官隊に排除された。
▲安保国会と特別委員会
新安保条約について、1月27日付けでソ連のグロムイコ外相は門脇駐ソ大使に覚書を送り、この条約をソ連に脅威を与える軍事同盟であると非難した。
そして「外国軍隊が日本領土に駐留を続ける事に関連して、「ハボマイ、シコタン諸島を日本に譲り渡すというソ連政府の約束の実現を不可能とする新情勢が作り出された」と指摘し、その時以降、日ソの「北方領土問題」は凍結されたまま現在に到っている。
通常国会は60年1月30日に開かれ、政府は2月5日に新安保条約と新行政協定を提出した。藤山外相は、新安保条約を次の5点について説明した。
- 日米間の安全保障体制と国際連合との関係を明確にし、平和維持の任務を強化する事に努力する。
- 米国の日本防衛援助義務を明確に定める。
- 米軍の配置および装備の重要な変更、並びに戦闘作戦行動のための施設区域の使用については、事前に協議する。
- 従来、日米間に存在した安全保障体制を、広範な政治・経済上の協力関係の基礎の上に置く。
- 条約の有効期限を固定期間10年と明確に定める。
質疑で問題になったのは、「事前協議事項」、「極東の範囲」であり、特に「極東の範囲」は答弁が混乱した。「極東の範囲」を藤山外相は「フィリピン以北、日本の周辺」、岸首相は「中国大陸や沿海州は含まぬが、千島列島全体は含む」とした。
藤山外相は前年11月10日の中間報告で、アメリカとの共通意見として、中国沿岸、沿海州を含むとしていたことと食い違っていた。また金門・馬祖を含むかどうかも二転三転した。
ここでは2月19日から始まった安保特別委員会における審議の論点をあげる。(塩田庄兵衛「実録 60年安保闘争」より)
- ★条約の性格
- 野党側は、新安保条約は日米双方に軍事義務を負わせ、中ソを仮想敵国とする軍事同盟と批判、これに対して、政府側は防衛を目的とし、自衛隊の力が不足する分をアメリカから借りるものと説明した。
- ★改正目的と必要性
- 条約の対等性と日本の自主性の確立と政府は説明した。
- ★事前協議
- 事前協議の内容と効力の細かい議論が展開された。事実上の通告制度だとの批判があり、核兵器の持込の危険性が指摘されたが、政府の認識はおおらかであった。
- ★個別的・集団的自衛権
- 第5条(表記)について、アメリカは集団的自衛権を保有するが,日本は持たない。これを共同して行うと藤原外相は説明した。
- ★防衛力強化とヴァンデンバーグ決議
- 第3条(自助・相互援助)で、憲法上の規程に従う事が条件であり、この条文により新たな防衛力増強の義務を加重されないと、政府側は説明した。
- ★極東の範囲
- 政府の統一見解として、日本の平和と安全に対して日米が強い関心を持つ地域、従来、フィリピン以北及び日本の周辺というのはそのような意味と政府側は説明した。
- ★条約の期限
- 10年の固定期限の長短が論議された。
- ★国連との関係
- 国連憲章51条との関係が論議された。
- ★日米経済協力
- 軍事協力だけでなく経済協力が新条約にうたわれた(第3条)ことが論議された。
- ★その他
- 省略
▲5月19日の強硬採決と安保国民運動の拡大
5月19,20日に特別委員会の質疑を打ち切り、本会議において中間報告強行、そして1ヶ月会期を延長し、遅くとも6月26日には衆議院を通過させる、という日程が自民党首脳の間で固まってきていた。
その理由は、アメリカ上院の会期が7月4日であり、日本の国会での批准が終了しない限り、アメリカ上院は批准審議をしないことから考えると、その1週間前の6月26日迄にはどうしても新安保条約を成立させる必要があったからである。
そこで自民党執行部は、5月19日の本会議において会期延長と安保特別委員会の質疑打切りの同時採決を強行し、一挙に衆議院での安保の強行採決に持ち込む決意を固めた。そのため19日の早朝から自民党の院外団と思われる多数の傍聴人が国会に押しかけ、更に、多数の警官隊が国会構内に集結した。
自民党は秘密代議士会を開き、50日間の会期延長を決めた。10時40分、衆議院安保特別委員会が開かれ、10時45分、自民党は両院議長に50日間の会期延長を申し入れた。 正午から議院運営委員会理事会で会期延長の審議が始まり、見解が対立しているうちに、午後4時39分、理事会は突如委員会に切り替わり、会期延長を可決。議長は、本会議の強行を決めた。
午後8時、篠つく雨の中を院外のデモ隊の数は3万人に達していた。午後10時25分、混乱の中で小沢委員長は特別委での採決を宣言。10時35分、本会議が開催されたが議長が入場できず、11時7分、警官隊は社会党議員のゴボウ抜きを開始した。午後11時49分、自民党議員だけで50日間の会期延長を議決。午前0時5分、自民党議員だけの単独採決により新安保条約は衆議院を通過した。
この新安保条約の強行採決が、安保反対を国民運動に拡大した。安保反対の運動は、この頃から様相を一変し始めた。5月20日から始まった安保反対の運動は岸内閣を倒せという国民運動となり、国民会議の統一行動への参加者は全国で200万人と発表された。
翌21日、国民会議の地方代表500人を中心とする3万人のデモ隊は、渋谷南平台の首相公邸を取り囲んだ。そして岸の退陣要求は与党内からも出始めていた。
デモは、22,23,24日と連日続いた。5月26日は国民会議の統一行動の日であった。社会党には、議員総辞職論も出ていたが、時期尚早で踏み切れなかった。
この日、史上空前のデモ隊が国会を包囲した。炭労、合化労連、民間労組のスト、官公労などの職場大会、日教組の授業打ち切りなど、日本国民が国家権力の決定に対してこれほど明確な反対意思を示し始めたことは、史上、類例を見ないほどの状況になっていた。
そのため岸首相は、首相としての身の置き所もなくなり、国会の総理大臣室にこもりっきりになり、国会から脱出することさえ困難になっていた。
国民会議は、5月31日から6月10日までに、6月4日を山とした統一行動を計画していた。ここでは安保問題中小企業懇談会により、東京8000店、8都府県2万店の閉店ストを決定した。日本中小企業家同友会(全国80社)は、6.4参加組合の賃金カットを行わないことを決定した。ここでも過去に類例のない「政治スト」が日本の中小企業で起ころうとしていた。
6月4日、東京はストで鉄路の響きが全く聞こえない静かな朝を迎えた。午前7時にストは解除されたが、全国560万人が参加し、旅客列車1101本、貨物列車88本の運休を含む大規模なストが整然と実施され、バス、ハイヤー、タクシーの早朝ストがこれに加わった。
午後からは、ストがデモに変わり、国会周辺は13万人のデモ隊でうずまり、この頃から、財界、政界からアイゼンハワー大統領訪日の延期を要請する動きが出始めた。
6月7日には、東久邇、片山、石橋の3人の元首相が連名で岸首相の即時退陣、選挙管理内閣による解散、アイク訪日の延期を勧告するという事件がおこった。
アイク訪日の延期は、岸政権の崩壊を意味するものであり、7日の閣議において岸はアイク訪日の決意を改めて再確認し、アメリカも7日にそれを再確認していた。
安保の国内情勢は、アイクの訪日問題に焦点が絞られていった。アイク訪日に対しては、6月9日の首脳会議においてアイク歓迎で意思統一し、その歓迎のために14万人の動員計画が発足した。
このような状況の中で、岸首相は、6月15日の参議院単独採決を目指して、8日に参議院の安保特別委員会での単独採決を強行した。
一方、アメリカでは、アイク訪日により岸内閣のテコ入れをはかるため、7日に上院外交委員会で安保審議を開始し、1日で審議を終了して14日に採決した。
ここでは「極東の範囲」についてハーター国務長官は、「フィリピン以北という極東の範囲にはソ連が含まれる」と証言し、日米の食い違いを見せた。
6月6日、社会党は臨時党大会を開き、議員総辞職を決定し、辞表提出の時期を中央執行委員会に一任した。中央執行委員会は反岸で、自民党反主流派と連携工作を行うことまで考え始めた。
6月10日、アイゼンハワー大統領の新聞係秘書のハガチーが、アイク訪日の日程を最終的に決定するため来日した。午後3時32分、米空軍機により羽田に到着したハガチーは、マッカーサー大使とともに車でアメリカ大使館を目指した。しかし空港入口でデモ隊と遭遇して、2人はようやく米軍のヘリコプターで救出された。
ハガチーは翌日、立川基地から密かに帰国した。11日、東京都公安委員長は、警備責任者としてアイクの訪日の延期を要請したが、政府はそれを聴かず、財界も10日夕、アイク歓迎を再確認した。
ハガチー事件は、実は、日米双方に大きな衝撃を与えていた。アイゼンハワー大統領の訪日の当日、天皇が羽田まで出迎えに出て、一緒に都内まで行進する予定になっていた。この沿道において、日米共に自国の元首の安全が守れるかどうか、非常に懸念される事態になったのである。
6月11日は、統一行動の初日として全国各地からの代表を中心とした国民大行進の隊列が都心に向かい、23万人のデモは都心を埋め尽くした。
一方のアイゼンハワーは、6月12日午前8時48分、軍用機、軍艦、防弾自動車という、あたかも戦争に出発するものものしさでワシントンを出発した。6月12日から26日にかけて、マニラ、台北、沖縄、東京、ソウルなど極東防衛の第一線を歴訪する旅が予定されていた。
6月15日の統一行動、19日のアイク訪日を巡って反安保陣営の足並みは、実はガタガタに乱れていた。全学連主流派は15日の国会デモに一切をかけていたし、共産党は15日のストライキに、19日の羽田沿道デモの追い討ちをかけることを主張していた。また総評と社会党は、15日は「整然」たる行動、19日は沿道デモ中止という方針を出していた。
▲6月15日から岸内閣の崩壊まで
混沌とした状況の中で、反アンポの最大の山場になる6月15日を迎えた。この日は民間労組の24時間ストを中心に、580万人が参加する史上最大の政治ストが予定されていった。
午前10時頃から国会はデモ隊の波に包囲され始めた。衆参両院議長は7,000人の警官隊の国会派遣を要請し、警視庁は前日の警備会議において国会3,460人を含む10,000人の警官派遣を決めていた。
午後4時半、日比谷を出発して国会へ向かっていた都民や新劇人のデモ隊に右翼が襲いかかり、重傷者19名と50-60名の軽傷者を出し、そのうちの2名は失明・失聴の危険があった。
全学連主流派は、衆議院南通用門前に終結し、午後7時頃、国会構内に突入した。しかし20分後には学生たちは警官隊によって構外に押し出されたが、7時半頃、東大生の樺美智子さんが殺害されるという事件が発生した。
その後、8時過ぎに社会党議員と警察幹部の協定が成立して、5,000人の学生が集まり、国会構内で集会を開く異例の事態となった。
雨が降り始めていた。10時頃、機動隊は再び学生や新聞記者に襲い掛かり、流血の惨事がおき、学生たちは国会構内から再び排除された。16日の午前1時10分、催涙弾が使用され、警官隊は国会の周辺にいた人々に無差別に襲い掛かかった。
実況放送をしていたラジオ関東のFMカーのアナウンサーの「警官隊が追っています!だれかれの見境なく、突撃しています。・・今、首をつかまれました。今、放送中でありますが、警官隊が私の頭を殴りました。」という声が、深夜の茶の間に流れた。(藤井松一,大江志乃夫「戦後日本の歴史」下、118頁)
消防庁によると、当夜、救急車で病院に収容された負傷者数は555人、タクシー、その他で収容された人、負傷しながら帰宅した人を合わせると1000人に達したといわれる。 傷の箇所は頭、顔が60%、後頭部が38%を占めた。(塩田「前掲書」212頁)
6月15日の事件により衝撃を受けた都内の大学の殆どは翌日から休校状態になった。多くの大学で抗議集会が開かれ、全学連は「喪章デモ」の指令を出した。
午後から、雨の中を労組、学生のデモは再び国会周辺を包み始め、国会南通用門の前に急造の祭壇が作られて、樺美智子さんの位牌が昨夜からの雨にぬれて、お焼香の列が続いた。
アイゼンハワーの訪日が迫り、安保闘争は国民的広がりを見せている中で、岸は自衛隊の治安出動を考えた。自衛隊も治安出動に備えてその体制をとっていたが、赤城防衛庁長官の反対により寸前のところで回避されていた。
16日の午後4時からの臨時閣議で、政府はアイク訪日の延期を要請する事を決定し、岸首相自身が記者会見して発表した。
アイゼンハワーは、既に沖縄まで来ていたが、来日できなくなった。6月19日午前0時、安保条約は自然承認され、参議院自民党は、20日午前中に安保関係国内法を単独で抜き打ち可決した。
6月21日夜、持ち回り閣議で、新安保条約の批准が決定され、極秘裏に天皇の認証を受け、新安保条約の国内手続きはすべて完了した。
一方の、アメリカでは、22日、上院で新安保条約を可決承認(日本時間23日午前2時半)された。これにより国際手続きもすべて終了した。
6月23日午前10時10分、外相公邸で批准書の交換が行われ、新安保条約は6月23日に発効した。同時刻、院内大臣室で臨時閣議が開かれ、岸首相は辞意を表明した。
▲アメリカにおける新安保条約と国際的反響
新安保条約の批准をめぐって日本国内は騒然としていたが、それと対象的に相手方のアメリカは極めて静穏であった。
新安保条約と新行政協定などが上院に提出されたのは、60年3月10日であったが、外交委員会で実際に審議されたのは6月7日午前の聴聞会と、それに続く30分の秘密会であった。
6月14日、委員会は全会一致で承認を決定し、本会議に報告書が提出された。これを受けて上院本会議は7時間の討論を行った後、22日午後2時、賛成90、反対2、棄権1、欠席7で新日米安保条約を承認した。
このアメリカ上院の審議において、アメリカ側は旧条約における特権的地位を一方的に日本に譲歩したと考えていたようであり、外交委員長フルブライトの言葉によれば、アメリカの権利放棄は、「完全な主権を日本に返すこと」であった。
アメリカ側の日本防衛義務について、日本はアメリカが攻撃されても援助の義務はなく、在日米軍の出動も日本の同意がなければできないわけであり、新条約は「日本に有利な条約である」というのが、上院議員の一致した見方であった。
「新条約によると、日本は直接的利益を得るが、われわれは間接的利益を得るにすぎない」とする発言もあったといわれる。(塩田「前掲書」226頁)
「極東の範囲」について、ハーター国務長官は、日本の岸首相の答弁をそのまま紹介した。このように日本にとって有利な新安保に日本国民が反対することは、彼らの理解を超えていた。従って反対者は「日本社会党、共産党、総評および全学連」などの「左翼の人々」でしかありえないと考えたわけである。
一方、共産圏の国々やアジア諸国は、新安保条約が日米軍事同盟となる事を危惧していた。ソ連は既に記したように、バボマイ、シコタンの返還を無期限に延期することを発表した。中国の反対も強烈であり、60年5月9日、北京の天安門広場では日米軍事同盟に反対する100万人集会が開かれていた。更に、中国では、その日から連日、各地で数十万人規模の集会が開かれ、5月13日の上海集会には170万人の人が集まった。
そのほか、ベトナム、北朝鮮、イタリアでも安保ストの支持や連帯ストが行われ、世界労連も日本の安保反対闘争の支持を表明した。
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