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どこへ行く、日本
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1. 日本経済の行方
2. 失われた90年代―日本の「シンス・イエスタデー」
3. 江戸時代のカタストロフとしての明治維新
4. 明治・大正のカタストロフとしての昭和恐慌

5. 昭和時代のカタストロフ −第一部 満州国建国まで
(1)「昭和」とは、どんな眺めぞ!
(2)日本の金解禁と世界大恐慌
(3)金本位制の崩壊と第二次世界大戦への道
(4)第二次世界大戦への道 ―「円ブロック」の形成

6. 昭和時代のカタストロフ −第二部 日本敗戦への道
7. 平和日本のカタストロフ −第一部 日本国憲法の興亡
8. 平和日本のカタストロフ −第二部 戦後の日米関係(その1)
9. 平和日本のカタストロフ −第二部 戦後の日米関係(その2)
10. 平和日本のカタストロフ −第三部 "花見酒"経済の終焉
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  5. 昭和時代のカタストロフ −第一部 満州国建国まで

(1)「昭和」とは、どんな眺めぞ!

 早坂暁さんのTVドラマの名作「花へんろ」に、「昭和とは、どんな眺めぞ、花へんろ」という句があった。四国の松山を舞台に、市井に平和な生活を送る一族が、満州事変、中日戦争、太平洋戦争と、息次ぐ暇もない戦争に巻き込まれていく昭和の歴史を鮮やかに描き出していた。
 この句は、早坂さんと同じ昭和を生きた人間にとって、万感、胸に迫るものがある。

 「昭和」という元号は、孔子が編纂したとされる中国の古典「書経」の冒頭の言葉、「百姓明、協萬邦」(百姓昭明にして、萬邦を協和す)、から採られたといわれる。しかし「人々はすべて聡明で、様々な国が仲良く助け合う」というその言葉とは裏腹に、昭和史の前半は満州事変、中日戦争、太平洋戦争と、息次ぐ暇もない戦争に明け暮れる悲惨な時代であった。 

 昭和の時代は、明治以来、先送りされてきたいろいろな社会的矛盾が一斉に噴出してきた「昭和金融恐慌」で明けた。それは最近我々が経験した「平成金融恐慌」を、更に上回る激しさで日本全土に広がった。
 しかし高橋是清・大蔵大臣の努力により、昭和2(1927)年7月までに一応の終焉を迎えたものの、それによって日本の経済危機に片がついたわけではなく、日本経済が国際社会に認められるためには、今ひとつ大きな問題が残っていた。
 それが日本経済が先進国経済への仲間入りをするために必要な国際通貨制度である金本位制への復帰、つまり「金解禁」の問題であった。

 当時、日本の「金解禁」は、他の先進諸国に比べて既にそのタイミングを失っており、しかもその後の経過を見ると、この金解禁をめぐる経済政策の失敗がその後の軍事官僚の進出を生み出し、更には敗戦に到る大きな国内的な原因になったと考えられるのである。
 そこで簡単に、「金解禁」の意味と経過から述べることにする。

(2)日本の金解禁と世界大恐慌
●金本位制とは
 日本の金解禁の問題を理解するために、「金本位制」について簡単に解説する。

 現在では国際商取引を行う場合の通貨として、一般的にはUSドルが使われている。そして各国の通貨の価値は、為替市場を通じてドルとの交換レートで表現されるのが普通である。これを「ドル本位制」といい、第二次世界大戦後に、唯一、アメリカ・ドルが、金本位制をとっていた時代の名残をとどめるものである。

 19世紀から20世紀の始めまでは、世界経済の中心はイギリスにあった。そのため、その頃には世界共通の通貨として、金の価値の裏付けを持つイギリスの貨幣であるポンドが利用されていた。
 
 このように国際通貨が、金の価値の裏づけを持って行われる制度を「金本位制」という。しかし第二次世界大戦が終わった時、世界中の金準備の7割が戦勝国アメリカに集中してしまったために、唯一、金の価値の裏づけを持ったアメリカ・ドルが国際通貨として利用されるようになったわけである。

 この金価値の裏づけを持った唯一の貨幣であった「ドル」も、ベトナム戦争によりアメリカ自身の金準備が殆どなくなってしまった。そのため1971年8月15日に、アメリカの大統領ニクソンは、金・ドルの交換停止を発表し、世界中の金融市場に大衝撃を与えた。いわゆる「ニクソン・ショック」である。
 この時から世界中の通貨は、「金」という共通尺度を失い、市場価値に依存する変動果てしない時代に入ったが、その後も金の裏づけをなくしたアメリカ・ドルが国際通貨として利用されていることに危険を感じたヨーロッパは、1999年1月1日からEUの新しい共通通貨として「ユーロ」を発足させた。

 19世紀以降、「金本位制」は戦争で中断されることはあったものの、世界の資本主義諸国における国際取引の決済は、金の価値で裏付けられた通貨により行われてきた。それが「金本位制」である。
 この制度のもとでは、各国の貨幣価値は、国家レベルで金価格が決められており、その価格により貨幣と金の交換が出来るという制度であり、そのことにより、貨幣の価値が商品価値を抽象化した「金」を通じて、「ものの価値」から遊離しないようにした制度である。
 そのため金本位制度のもとでは、原則的に為替相場は安定し、物価の変動も少なくなり経済秩序は安定し、大規模な戦争もない好い状態が保たれていた

●第一次世界大戦による金本位制の変貌
 大正3(1914)年7月の第一次世界大戦の勃発により、各国はまず金輸出を禁止し、自国から金が流出しないようにした。アメリカも遅れて大正6(1917)年に参戦すると同時に金輸出を禁止し、日本もアメリカにならって同じ年の9月12日に、明治30(1897)年以来とってきた金本位制を中断して金輸出を禁止した。

 しかしこの世界大戦(1914-1918)中に、国際取引の決済のため在外正貨や信用取引による大量な金がヨーロッパからアメリカと日本に流入し、戦後にはヨーロッパ諸国が金本位制へ復帰するための前提条件はすっかり変貌していた。

 大戦が終わった翌1919年、アメリカは早々と金輸出の解禁に踏み切ったが、主要32カ国中、1910年代末までに金本位制に復帰できたのはアメリカ1国に過ぎない状態であった。しかし1920年代に入ると、多くの国々が金本位制に復帰し始めたが、金の保有量がアメリカに大きく偏在してしまったため、金本位制の内容は戦前の制度とはかなり変わった様相を呈していた。

 たとえば1925年にイギリスは金地金本位制を採用して復帰した。1924年にドイツは金為替本位制を採用して復帰、また1924-1928年にかけてベルギー、イタリア、ポルトガル、オーストリア・ハンガリーの後継諸国、ソ連、コロンビア、ラトビアなど、多くの国は金為替本位制を取って復帰した。
 この時代に、金本位制に復帰することは、国際経済社会に一人前として通用するようになったことを内外に示すことを意味していたが、その中で日本の金本位制への復帰は、先進各国に対して非常に遅れをとっていた

●出遅れた日本の金解禁とその経過
 日本の金本位制への復帰は、ただ時期が遅れているだけではなく、昭和のはじめには、既に復帰へのチャンスを失っていたといえる。日本が金本位制へ復帰するとすれば、アメリカと同様に大正8(1919)年頃に行うべきであった。

 その頃には輸入超過に転じたとしても、まだ国内、国外の正貨の保有量は潤沢であったが、大正8-9(1919-1920)年の輸入量の増加、大正12年(1923)の「関東大震災」、昭和2(1927)年の「昭和金融恐慌」を通じて巨額の貿易赤字が続き、大正8-9年頃には20億円を超えていた正貨保有量は、昭和初年には半分の10億円程度まで減少しており、日本は1920年代末において、金本位への復帰時期をもはや完全に逸していた

 そのため日本の対米為替レートは大正8年頃には、百円あたり51-49ドルであったのが、大正11(1922)年頃には戦後不況と入超により48-47ドルにまで下落していた。ところが不思議なことに、この頃から金解禁の論議が起こり始めるのである。金解禁の論議は、次の3段階で進行する。(有吉新吾「金解禁」、西田書店、1987)

 第1期は大正11-12(1922-1923)年である。この時期、為替レートは解禁前の平価を維持できなくなり、48-47円に割り込んでいた。この時期の論議は、大勢として金解禁の必要性は認めながらも、もう少し様子を見ようというものであった。
 この段階で、金解禁の即時実施を唱えたのは鐘紡社長の武藤山治である。
 その主張は、金解禁を行えば通貨が収縮して物価が下落するため、一時的には不況になっても、能率の増進、消費の節約などにより、むしろ戦後経済の立て直しが可能になるとするものであった。

 武藤の立場は、後の大蔵大臣・井上準之助とほぼ同じであり、ある意味で当時の経済学教科書を代表する見解であった。しかしこの考え方は、金解禁によって生じるデフレの影響を楽観視しており、それに対して鈴木商店の金子直吉などは徹底した反対論を唱えていた。この金子直吉の立場は、後に井上蔵相による金解禁失敗の後始末を行った高橋是清・大蔵大臣の政策に近いものであった。

 第2期は関東大震災後の大正13-14(1924-1925)年である。この時期、円相場は40ドル台を割り、37-38ドルにまで下落していた。この段階で金解禁の論議が起こった。そのときの議論は、為替の暴落を国民経済の一大損失と考え、ドイツのマルク暴落のようになることを心配したものであり、為替相場を回復するために金解禁をしようというものである。

 この観点から為替相場の回復策として、愛国的立場から旧平価による金解禁が主張された。しかしもしこのような旧平価による金解禁が行われたら、輸出に依存する国内産業に大打撃を与えることは明らかであり、当然、それと反対の立場から新平価による解禁論が出てきた。
 この新平価解禁論の立場をとったのは、東洋経済新報の石橋湛山、高橋亀吉、中外商業新報の小汀利得、時事新報の山崎清純など、金融の実戦に詳しいジャーナリストたちであるが、この現実的な反対論は驚いたことに殆ど無視された

 第3期は大正15(1926)-昭和初期にかけてである。この時期、日本の金解禁が近いと見た海外の投機筋の円投機により円為替は大幅に変動し始めた。そのために関係業界は先行計画も立たない状態になった。
 この段階において、この為替相場を安定させるための論議として金解禁が出てきた。しかし解禁にあたり、旧平価と新平価のいずれをとるかが問題となり、結果としては浜口内閣の大蔵大臣・井上準之助は旧平価による金解禁を選択した
   
●なんと「世界大恐慌」の真っ只中で、日本は金解禁に踏み切った!
  昭和4(1929)年11月21日、日本政府はその翌年の年1月11日付けで、旧平価(=49ドル84.5セント)をもって金輸出の解禁に踏み切ることを発表した。

 昭和4年に為替レートの安値は、既に43円をつけていた。これより高い円レートで解禁すれば、当然、日本は円高により輸出が困難になり、逆に輸入はしやくなり、正貨は流出しやすくなる。
 逆に、新平価により金輸出を解禁すると、円安により輸出がしやすくなり、輸入はし難くなる。当然、正貨の流出はし難くなる。
 
 常識的に考えれば新平価による解禁の方が良いことは明らかである。ところが、この新平価解禁の立場をとった石橋湛山や高橋亀吉など、実務家たちの意見は不思議なことに殆ど無視された。
 更に、不思議なことに、この1ヶ月も前にアメリカを大恐慌の波が襲っていたのである。日本の政府関係者は、この事態を一体どのように考えていたのであろう?
 このようにアメリカで大恐慌が発生した段階で、しかも旧平価による金解禁に踏み切ることは、全く理解に苦しむ。経済失政以外のなにものでもない。

 時の総理大臣・浜口雄幸の日記が残されているので、見てみよう。
 昭和4年11月13日(木)、ニューヨーク市場大暴落から3週間後の日記には、「金解禁ノ実行ヲ目前ニ控ヘテ、心痛ニ堪エズ」(ドキュメント昭和―6.潰え去ったシナリオ、NHK)と書かれており、一応、大暴落の心配はしているものの、来年の1月の金解禁の実施に向けての政策を変えようとする考えは全く見られない

 丁度その日の「ニューヨーク・タイムズ」によると、50の主力株の平均価格は、11月13日の安値が、9月の高値の半分にまで落ち込み、クーリッジ=フーバーの繁栄の時代は殆ど死に瀕していた(F.L.アレン「オンリー・イエスターデー」)
 このアメリカ経済の惨状が、浜口首相には分からなかったのであろうか?

 翌昭和5(1930)年1月11日(土)、金解禁実施日の浜口日記には、「金解禁―愈々、金解禁ノ当日ナリ。万事平穏順調、些ノ動揺ナシ。安心。市場平穏、株式シッカリ。」とある。浜口は、「万事平穏順調」と言っているが、日本にとっては、この時、大危機の1930年代が始まろうとしていた

 この金解禁とともに、予想どおり日本の正貨はものすごい勢いで流出を始めた。
 昭和4年に13億円を超えていた正貨は、翌5年には10億円を割り込み、更に6年には5.5億円にまで減少した。更に大恐慌の影響で、昭和4年には22億円あった輸出は、5年には15億円、6年には11億円に落ち込み、この2年間で半分になった。更に輸入も落ち込んだものの、貿易赤字は依然として持続した。
  
●金解禁と世界大恐慌下の日本
 日本の金解禁によるデフレ政策は世界大恐慌と連動したため、株価・物価は暴落、工業・農業生産は減少し、輸出・輸入は不振となり、国際収支の悪化は更に進んだ。 
 そしてその状況は、昭和6(1931)年に最悪の状態を迎えた

 昭和4-6(1929-1931)年を比較してみると、まず東京・大阪株式取引所の有力株140社の株価は平均50.4%下落した。その間の時価総額の損失は25億3500万円にのぼる。その損失の規模は、昭和5年の一般会計の歳入が15億円程度であるから、国家予算の1.7年分が消えたことになる。
 しかもこの株価の下落は、昭和恐慌により既に大きく暴落したものに、更に追い討ちをかけたものであり、その深刻さが分かるといえよう。

 物価の下落についても同様である。卸売・小売物価指数は、昭和3(1928)年以降、じりじりと低下を続けており、昭和6(1931)年の最低点まで一度も上がることはなかった。その結果、昭和3-6(1928-1931)年の下落率は38.6%に達した。

 輸出の状況を見ると、当時は生糸が輸出品総額の4割を占めており、その9割以上がアメリカへ輸出されていた。それが金解禁による円為替の高騰、大恐慌の影響に加えてレーヨンの発達により、生糸の対米輸出は激減し、更に中国・インド向けの綿糸布の輸出も減少し、昭和5-8(1930-1933)年にかけて国際収支の赤字も巨額なものになった

 昭和5(1930)年4月の第58特別議会において、野党の政友会きっての財政通であった三土忠造(みつちちゅうぞう)は、浜口内閣の金解禁政策を厳しく批判している。
 三土は、不景気の原因として、第一には浜口内閣の緊縮政策、特に消費節約の奨励による消費需要と生産の減退、第二に無理・無準備の金解禁による硬貨価値の騰貴と外国品の値下がりに圧倒された経済界の不振、第三に世界的な不況の影響による輸出の減退、などを揚げて政府を激しく攻撃した。

 これに対する井上準之助・大蔵大臣の答弁は野次と怒号により聴取不能になった。

 政府の金解禁によるデフレ政策に対して、国民は苛立っていた。この年、11月14日、浜口首相は東京駅で狙撃された。翌昭和6年4月14日、第二次若槻内閣が成立したが、井上大蔵大臣は1億円を目標にした行政改革と公務員給与の引下げによる更なる緊縮財政の実現を目指した
 この中、昭和6(1931)年9月21日、イギリスが金本位制からの離脱を表明し、それをきっかけに各国が次々に金本位制からの離脱を表明し、日本の金本位制からの離脱も時間の問題と見られるようになった

 日本が金本位制から離脱すれば、無理に高い価格水準で平価を設定していただけに、円の為替レートは大幅な下落が予想される。つまり円レートが高いうちに円でドルを買い、円が暴落したらドルを売って円を買えば、多額の利益を揚げることができる。そこで猛烈な円売り・ドル買いが始まった。

 井上大蔵大臣は、横浜正金銀行に命じてドル売り・円買を行い、更に公定歩合を引き上げて、金融を引き締め資金面からの圧迫を行ったが、ドル買いはやまなかった。1930年7月から1931年12月12日までに、横浜正金銀行が売却したドルの総額は7.6億円にのぼった。
 このことで三井はドル買いの張本人のように思われて非難を浴びたが、横浜正金銀行が売却した7億6千万円のドルのうち、最もドルを多く買ったのはアメリカのナシオナル・シチー銀行であり、その額は2億7300万円である。第2位が住友銀行の6400万円、第3位が三井銀行で5600万円であった。

 井上準之助・大蔵大臣の金解禁政策は失敗に終わり、日本の金本位制からの離脱は時間の問題となっていた。日本のGNPは1930年から一挙に落ち始めた。
 1929年を100としたGNPは、30年が89.1、31年は80.6、つまり2年間で20%も落ち込んで、失業者の数は昭和6(1931)年には250万人を越え、労働争議も1931年には戦前最高の2456件に達した。
 日本は、イギリスと同じ時に、金本位制からの離脱を行うべきであった。つまり日本の経済政策は、いつも西欧に比べて大幅に遅れており、そのことによる被害を受けたのは国民であった。




 
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