6. 昭和時代のカタストロフ −第二部 日本敗戦への道
(1)それは満州事変から始まった!
●「兵久しゅうして国に利ある者、未だ之有らざるなり」(孫子)
「戦争を長く続けて、国に良いことなど全くない」という孫子の言葉である。日本は、満州事変から敗戦に到るまで続く果てしない戦争に突入した。この長い戦争により3百万人を超える戦死者とそれを超える民間人が亡くなり、多くの人々が彼らの財産を失った。その上に近隣諸国の人々に甚大なる人的・物的被害を与えて、誰にとっても、この戦争により良いことなど全くなかった。
日露戦争における最大の激戦であった奉天総攻撃は、戦闘参加人員が双方合わせて57万人という世界戦史に残る大会戦であった。この半月に及ぶ戦争における日本軍の死傷者は7万人、ロシア軍の死傷者は9万人という大激戦であったが、この奉天会戦においてわが国は勝利をおさめて一挙に世界的に評価を高めた。
このとき相手の超軍事大国ロシアは、奉天会戦を極東の単なる局地的敗戦に過ぎず本当の決戦はこれからと考えていたが、一方の日本の戦力は既に限界に来ていた。
そのことを当時の日本の軍人や政治家は熟知していた。それが明治の戦争と昭和の戦争の最も大きく違う点であった。戦争は始めるより、終わる方が遥かに難しいことを明治の政治家や軍人はよく知っていた。
日露戦争の参謀長・児玉源太郎大将は、奉天大作戦が終了するやいなや、直ちに日本に帰国し、大本営陸軍部会議において早急に終戦工作を進めることを提言した。そして大本営も直ちに終戦工作に着手することを了承した。
このとき日本の戦力の限界を知らない国内の世論は勝利に沸いていた。そこで終戦工作を言い出すことは大変な勇気と英断を要したと考えられるが、それを日露戦争の当事者たちは見事に実行した。
つまり日露戦争では、初めからその退け時を考えていた。それが明治と昭和の戦争の最も大きく異なる点である。日露戦争において、よもや日本が勝利するとは西欧諸国の人々は誰も思わなかった。しかしその中でただ一人、ドイツの世界的戦略戦術家メッケル将軍は日本に児玉将軍がいる限り絶対に日本が勝つと言い切ったと伝えられている。
昭和の日本にも児玉大将に匹敵する名将がいなかったわけでないが、「不敗の皇軍」という宗教的ともいえる信念の前に、冷静な判断はすべて遠ざけられた。
そして軍も政府も国民も明確な見通し持たないままに太平洋全域に戦線を拡大して、その動きはもはや天皇にも止められなくなっていった。
そしてドイツもイタリアも降伏して、日本は国体の維持すら困難になった最終段階において、ようやく天皇の「御聖断」により戦争が終わった。
その日本の国家政策の最初は、昭和初年における昭和恐慌と世界大恐慌から脱出をはかるための満州進出から始まった。
その基本的な方向を決めたのは、第1部で述べたように昭和2年6-7月に東京で開催された「東方会議」であった。東方会議で構想された満州と中国の分離政策は、昭和6年の満州事変により軍事的な形で実現に向かって動き始めた。
満州事変を構想し推進したのは、関東軍の作戦参謀・石原莞爾であったが、石原自身は、満州建国が終わればその資源を利用して生産力を拡充し、中国とは「東亜連盟」による経済的協力関係を結成することにより、対米の最終戦争に備える体制をとることを考えていた。
しかしその後の日本の軍や政治家の主流は、東方会議や石原構想とは全く異なる無制限の拡大方向をとり始めた。そして満州を中国から分離するどころか逆に戦火は、華北、蒙彊から上海に飛び火して、更に日中間の泥沼の全面戦争に広がっていった。
これらの戦争でが、日本の戦争開始を決定する「天皇大権」さえ無視して、「戦争」はすべて「事変」の形で引起こされ、そのまま全面戦争に展開していった。
このことが、「明治の戦争」とは決定的に異なる「昭和の戦争」の特徴である。しかも軍部を含めて、国政の担当者たちの大部分は「シナ事変」の早期解決を考えながら、実際には拡大の一途を辿ったのも大きな特徴である。
その結果、昭和14年には、蒙古の国境のノモンハンではソ連軍と戦い、更に日独伊三国同盟との関係から昭和15年には「援蒋ルート」を絶つと称して「南方戦線」にまで戦域が拡大していった。
その挙句は、誰もが最終的には勝てるとは思わない「太平洋戦争」にまでその拡大を止めることが出来なくなった。
その発端は満州事変であり、そこから話しを始める。
●「満州国」建国 ―王道楽土、五族共和のまやかし
山本七平氏によると、沖縄32軍の高級参謀・八原博通大佐が、大本営における講演で「経済力が戦力に転化する」と言ったとき、全員が失笑したといわれる(「参謀学―「孫子」の読み方」)。 その「笑い」とは一体何であったのか?
純粋培養の幼年学校卒とは違い、普通の中学卒で陸大・恩賜組になった八原博通は、「日本陸軍最大の異端者」(渡辺昇一「参謀の条件」)といわれる人物である。彼は「攻撃」一本やりの日本の参謀たちの中で、唯一、「持久戦略」を唱えた。
その戦略思想は、時を超えて現代の21世紀型・近代戦に通用するものであったが、残念ながら、当時の日本軍の首脳部にそれを理解出来る人は全くいなかった。
日本の大本営における高級軍事官僚たちは、驚くべきことに戦争に勝利した後の占領地経営における経済力の成功こそが、次の戦力を生み出すという、いわば軍事戦略の「イロハ」が殆ど理解できなかった上に、短期・攻撃型ではない長期・広域型の持久戦が理解できなかったようである。
彼らの思考能力は、残念ながら日露戦争の奉天大会戦に勝利した段階で思考停止してしまい、そのために第一次大戦以降に大変貌をとげた近代戦争への対応能力を全く失っていた。ちなみに日露戦争には、陸軍士官学校第16期生(相沢中佐刺殺事件の永田鉄山が16期、東条英機が17期)が少尉で参加しており、彼らが昭和の戦争では、将官クラスの軍のトップにいた。
この日露戦争に下級将校で参加して勝利したおごりが、昭和期の日本のすべての戦争が泥沼化していった原因の背景にあるように思われる。しかも更に悪いことには、世界の軍事技術を一変させた第一次世界大戦の直接戦闘を日本の軍人は殆ど経験しなかったので、軍事技術は日露戦争のレベルで思考が停止してしまっていた。
上記の「経済・経営的思考欠如」ともいうべき傾向は、当時の軍人たちに留まらず、現在にいたるまで日本の政治家や高級官僚の殆ど全てに共通して見られる。
そのため戦争は、日本の国力を遥かに超えて発展し、満州事変、中日戦争から太平洋戦争を経て、ついに敗戦に到るまで停止することはなかった。
驚くべきことにはその性癖は、その拠り所を軍事戦争から経済戦争に変えただけで、「軍事大国」が「経済大国」といわれるようになる戦後史にまで継続している。
そのために戦後のバブル的経済膨張は、最近の道路公団の民営化問題に見られるように、日本のバブルの終焉から10年以上たっても、国家によるバブルを止めることは出来ない状態にある。
このような「経済・経営的思考欠如」による失政・失敗は、日本に限らず最近のアメリカも非常によく似ている。イラク戦争の現状を見ると、まさに満州事変よりも更に数等劣るケースのように見える。
イラク戦争における軍事作戦も、満州事変と同様に米軍とイラク軍の兵器のレベルが格段に違うため軍事戦争の勝利は短時間で収められたものの、戦後経営は全く無為・無策のために、ベトナム戦争と全く同様の最悪の泥沼に陥ってしまった。
▲王道楽土
満州事変の戦後経営において、新生満州国の国家理想として「王道楽土」、「五族協和」という格調の高いスローガンが掲げられた。
この素晴らしいスローガンに載って、わずか1万8千の兵力の関東軍は、20万の張学良軍が守る満州全土を5ヶ月という短期間で制覇し、昭和7(1932)年3月1日、「満州国」の樹立を宣言した。
その戦争の手際の良さは、まさに見事であったが、満州国の建国の過程においては、不手際としか言いようのない問題が噴出してきた。
まず満州国建国の理想とした「王道楽土」とは、「儒教における仁徳をもった君主の治世が生み出す理想の国土」を意味する美しい言葉である。
先に滅びた清朝は「満州族」が作った王朝であった。その清朝の廃帝・溥儀を招聘することにより中国東北部の満州の地に五族の「王道楽土」を作るという思想は、儒教民族にとっては、その言葉だけで「満州国」が尭・舜帝の理想国家を連想させてくれる甘美なスローガンであったといえる。
ところがその実態は全く違っていた。1月27日に参謀長・三宅少将が作戦参謀・石原中佐に示した「満蒙問題善後処理要綱」には、「新国家ハ復辟ノ色彩ヲ避ケ、溥儀ヲ首脳トスル表面立憲共和的国家トスルモ、内面ハ我帝国ノ政治的威力ヲ嵌入セル中央独裁国家トシ・・」、「原則ニ於テ日本及日本人ノ利益ヲ図ルヲ第一義トス」という驚くべき独善的な思想が述べられていた。(児島襄「満州帝国」第2巻、107頁)
この内容は、石原中佐が描いた満州国とは全く無縁の「満州傀儡国家」の方針である。そして、それ以降、石原の理想とは全く違った方向に向かって現実の満州建国は展開していった。儒教において「王道」と「覇道」(徳治主義による王道に対して、武力・権謀をもって行なう支配・統治)は、厳しく区別されている。日本は「王道」といいながら、その実「覇道」であることを暴露してしまった。
そのために利用された廃帝・溥儀は、すでに新国家の元首に擁立されることは確定事実として報道されていたにも拘わらず、その地位は「帝位」に復帰する「復辟」(ふくへき)ではなく、共和制の頭首としての「執政」とされた。
そのため溥儀は「祖宗の霊に顔向けできるか!」と激怒したといわれる。
昭和7(1932)年3月1日、満州国は、国首を執政、政体を民本主義による民主共和制、国旗を新五色旗、年号を大同として建国宣言を行った。しかし、その後、執政・溥儀の要求を受けて、建国2周年をへた昭和9年3月1日に帝政が実施されることになり、建国から2年をへて、ようやく溥儀は晴れて満州国皇帝になった。
しかし今度は皇帝の即位に当たって、中国皇帝の即位の衣装である「龍袍」(りゅうほう)を着用させず、大総統服で行うことを日本側が勝手に決めて皇帝・溥儀を激怒させた。満州国建国にあたってのこれらのトラブルをみると、建国構想をつくり、実行した日本の軍事官僚たちは、国家間の外交や国家儀式のプロトコールなどの初歩的な知識のみか、国家戦略的な感覚が驚くほど欠如していることが分かる。
実際には、満州事変後、直ぐに参謀本部に転出させられた石原莞爾を含めて、満州国建国に「大アジアの連帯」の夢を託そうとした日本人たちは多数いたと思われるが、これらの人々の思想や善意などは、無能・無知な軍人や「新官僚」たちによる島国的政策の実施により吹き飛んでしまったのが満州国の建国の現実であった。
▲五族共和
満州国の建国に当たっての今ひとつの「スローガン」である「五族共和」について見よう。ここでの「五族」とは、中国の辛亥革命における漢、満州、蒙古、西蔵(チベット)、回V(ウイグル)の五民族のことではなく、日本、朝鮮、満州、蒙古、漢の5民族のことをいう。
「五族共和」とは、この5民族が仲良く力をあわせて、理想の満州国をつくろうというスローガンであったはずである。満州事変を作戦参謀として指導した石原中佐は、満州国がたんなる日本の植民地になることを心配し、事変後に兵器本廠付の大佐となって転出する際にも、民族協和のための全国組織である「東亜連盟」を発足させていた。
しかし実際の5族共和の実情はそのような理想とは大きく違っていた。当時の満蒙の人口は3千万人といわれるが、そのうちの大半を占める満、漢、蒙古の3民族を最下層とし、その上に朝鮮、最上層に日本人を置いた縦構造の格付けが行われた。
このような考え方で「五族共和」が実現できると本当に考えたとしたら、よほどのお人好しである。
そこでの差別意識は徹底していた。日本人でも完全に満州国の職務についた者、たとえば満州国軍に就職した場合は満人として扱われた。国際連盟はこの満州国の植民地的実体を調査するために、その建国の前後に「リットン調査団」による日本、中国、満州の現地調査を行い、10月20日にその報告書が発表された。
その報告書は、「満州は中国の領土であり、日本はこの中国領土を占領したとする考えと認めざるを得ず」と判定した。
松岡洋右・外務大臣は、昭和7(1932)年12月8日に国際連盟総会の席上で「十字架上の日本」という1時間20分に及ぶ大演説を行い、満州国を建国した日本が列国から白眼視される状況を、十字架に架けられた受難のキリストになぞらえた。
しかし翌昭和8年2月24日、国際連盟はリットン報告書の採決の結果、満州国を日本の植民地と認定した報告書を42対1の満場一致で可決した。これを受けて、日本は国際連盟を脱退し、その後、国際的に孤立化の道をたどることになる。
特に当時の軍人たちは、日露戦争の頃の日本人とは全く違う国民のような非国際的、独善的な方向に凝り固まっていった。
●華北自治・「蒙彊」独立 −反日・抗日運動の激化
「満州国」を建設して満州を国民政府の支配から切り離すことに成功した関東軍は、次に華北5省(河北、山東、山西、察哈爾、綏遠)の自治と蒙彊の独立工作に着手した。これらの地域は満州の衛星地帯であり、満州に住む漢族の多くはこれらの地域に親戚を持ち、満州の商業資本、土着資本の大部分は青島華僑の勢力下にあって、満州の労働源である山東苦力は、まさに山東半島から供給されていた。
これらの華北の地は、鉄、石炭、塩、綿花などの資源の宝庫でもあり、また反満、抗日勢力の温床にもなっていたため、満州国の発展のためにはどうしても華北の安定が必要であった。この地域を国民政府と満州国の緩衝地帯とする華北分離工作と今ひとつは華北の経済開発がねらいであった。
関東軍は昭和8(1933)年3月から5月にかけて、熱河作戦、長城作戦、関内作戦などの軍事作戦を華北・蒙彊地帯に展開した。この間、満鉄は華北経済開発の名の下に興中公司を設立して、華北経済の大々的調査を行うとともに、一方では特務機関の工作が展開された。密輸が大々的に行われ、それによる膨大な資金が自治政府の財政や特務機関の工作資金に当てられた。
この関東軍による華北分離、蒙彊独立工作は、反日・抗日運動を激化させたのみか、満州・華北・蒙彊を、中国から分離しようとする日本の意図とは逆に、中国全土を敵に回す中日戦争へ日本を引きずり込んでいった。この間、「事変」の当事者である陸軍の首脳部は「事変」の不拡大を天皇にも奏上しながら、結果的には武力紛争=戦争は拡大の一途を辿っていった。
戦争の開始・終結は、本来、天皇の大権に属する最も重要な事項であるはずである。そして満州から華北、蒙彊に戦線を拡大すれば、当然、中国、ソ連そしてイギリス、アメリカとの全面戦争になることを覚悟しなければならないことは明らかであった。
ところがその国家意思の確認も戦略も不明確のまま、出先の軍の中堅幹部たちの暴走に任せて、中国の戦線は拡大の一途を辿っていったのが実態といえる。特に関東軍をかかえる陸軍の暴走はひどかったが、一方で満州、華北、蒙彊の戦線を、昭和7(1932)年1月、上海事変により華中に拡大した責任は海軍にあるし、日独伊三国同盟をめぐる松岡洋右・外務大臣で代表される政治家や官僚たちの行動も、軍部を超えるほどのひどさであった。
つまり敗戦に到るまで、日本には統一された明確な国家戦略や国家方針は不明確のまま、軍部・官僚・政治家たちに先導されて、日本国民は太平洋戦争・敗戦への道を辿らされていった。
|