2.三島事件とは何であったのか?
(1)はじめに
1970年11月25日、戦後の日本文学を代表する作家の三島由紀夫が、自衛隊の東京・市ヶ谷にある東部方面総監部において益田兼利・総監を人質にとり、自衛隊員に憲法改正を訴え、その後に割腹自殺を遂げるという衝撃的な事件が起こった。
その事件から40年近くたって、いまなおこの事件についての研究は後を絶たず、その社会的衝撃の大きさを物語っているが、事件のナゾは必ずしも解明されていない。その理由は、この事件が三島由紀夫という作家の思想上の問題に加えて、日本の政治・社会における隠れた問題が密接にからんでおり、表面化できない部分が多く含まれていることに起因すると考えられる。
そのため事件後に発表された膨大な論考の殆んど大部分も、作家・三島の文学上の思想と生き方にこの事件を位置づけている。
そこで、ここでは逆に、この事件を社会的事件の一つとして考え、その中に三島の思想と生き方を位置づけることを考えてみた。
(2)三島事件とは?
まず事件の経過を簡単に述べる。昭和45(1970)年11月25日(水)午前11時5分頃、予め総監に会見の約束をとっていた作家・三島由紀夫は、『楯の会』の森田必勝、小賀正義、小川正洋、古賀浩靖とともに、東京の自衛隊市ヶ谷駐屯地に、自衛隊東部方面総監部の益田総監を訪ねた。
その日は市ヶ谷会館において『楯の会』の例会が開かれることになっており、そこでその4人が表彰される予定であるため正装してきた、と総監に説明した。
総監室で三島は総監に向かいあって座り、4人は三島を囲んで小さい椅子に座った。三島は軍刀造りの名刀・関の孫六を総監に見せ、総監から返された刀を鞘に収めるのを合図に、4人は総監の両手を縛り椅子に拘束し、机やロッカーでバリケードを作った。
隣室の音に驚いて、中村薫生二佐を始め11名の幹部が中に入ろうとした。総監を救助するため部屋に入った原一佐ら5名に対して、三島たちは『外に出ないと総監を殺す』と脅迫し、室内に入った川辺二佐に背後から切りつけ、木刀で防ぐ原一佐に飛び掛るなどして、何人かに傷を負わせた。
午前11時30分頃、総監室の窓ごしに三島を説得しようとする吉松陸将補、功刀一佐、川久保一佐に、「要求書を飲めば、総監の命は助ける」といい、要求書を渡した。その要求書の内容は、次のようなものであった。
(1) 11時30分までに市ヶ谷駐屯地の全自衛官を本館前に集合させる。
(2) 自衛官に三島の演説をきかせる。
(3) 楯の会会員を市ヶ谷会館に召集させる。
(4) 自衛隊は、この間、午後1時10分まで攻撃を行なわない、など。
午前11時40分頃、自衛隊側はマイクで市ヶ谷駐屯地内の自衛官全員に本館前に集合するよう放送し、800人が前庭に集合した。11時50分頃、森田、小川は、要求項目を総監室前のバルコニーからたらし、「檄文」多数を散布した。
「七生報国」の鉢巻をし、関の孫六の抜き身を持った三島は、集合した自衛官を相手に演説を行なった。
三島は演説で、このような状況で自衛官に話すのは悲しいと言った。10月21日の国際反戦デーに行なわれたゲリラ闘争は、自衛隊による治安出動もなく、機動隊による圧倒的な警察力により鎮圧され、そのため自衛隊は憲法改正の機会を失った。日本を守るとは、天皇を中心とする歴史と文化を守ることだ・・・。俺は4年待った、自衛隊が立ち上がる日を、などと語った。
しかし三島のその演説は、自衛官たちによる野次や怒号、そしてヘリコプターの騒音で殆んど聞こえず、さらにしばしば中断された。三島は、最後に天皇陛下万歳を三唱して演説を終了した。
午後零時10分頃、三島は総監室へ戻り、「あれでは聞こえなかったな」と独り言をいった。森田に「君はやめろ」といって割腹した。森田が介錯に失敗したため、古賀が三島の介錯をした。続いて森田が割腹し、これも古賀が介錯した。小川、小賀、古賀の3人は三島、森田の遺体を仰向けにして制服を掛け、両名の首を並べて合掌した。
午前零時21分、総監のロープを解き、小川、小賀、古賀3人は総監室前に総監を連れ出し、日本刀を自衛官に渡し、警察官に逮捕された。午後5時15分、三島、森田の遺体は棺に入れられ、市ヶ谷駐屯地を出て、牛込署へ向った。
一方、市ヶ谷会館の楯の会員は、警視庁の任意同行の求めに応じ、全員が整列して「君が代」を唱和し、四谷署に向かった。深夜まで事情聴取が行なわれたが、具体的な行動計画がなかったことがわかり、全員釈放された。
(安藤武「三島由紀夫『日録』」412-421頁から要約)
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