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彷徨える国と人々
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  (3)1960−70年代における政治的運動の変貌

●政治から経済への大転換と新左翼・新右翼の台頭
 日本の1960年代は、戦前、戦後を通じて、日本の社会において政治的運動の最も激しく高揚した時代であった。
 それは安全保障条約の改定を阻止するための国民運動から始まった。1960年6月15日に安保阻止国民会議が主催したデモは、全国で550万人が参加して、史上最高の高揚を見せた。その夜、全学連主流派のデモ隊が国会へ突入し、東大生の樺美智子さんが死亡するという事件に発展した。

 この頃、政府のなかでは自衛隊に対する出動の要請論が出ており、アイゼンハワー大統領の訪日を実現させるために、自衛隊を出動させるよう川島幹事長は防衛庁を訪れた。
 6月14日か15日、南平台の岸総理の私邸において、赤城防衛庁長官は遂に総理からじきじきに自衛隊出動の要請を受けた。赤城防衛庁長官は、このような事態においてアイク訪日に自衛隊を出動させるべきではないことを、総理に直言した。

 自衛隊が治安出動すれば、それは内乱の鎮圧であり、国民に銃を向ける事は、主権在民の現行憲法下では、自衛隊の存立を左右するする重大な結果を招くおそれがあった。赤城長官が総理の要請を拒否したのは、大変な決断であったと思われる。
 その結果、最後に岸総理があきらめて、アイク訪日は中止になり、岸退陣への流れが決定するという歴史的な事件となった。

 しかしこのような国民運動の類例を見ない高揚にも拘わらず、新安保条約は6月20日に参議院において、自民党の単独裁決により成立した。この歴史的経過は、保守、革新の双方に深い傷を負わせる事になった。
 そして60年代はじめの安保闘争の中から、その後の政府主流の政策と、右翼、左翼の政治運動の方向に、大きく3つの流れが生じることになった。

 まず自民党では、12月7日に極度に政治性が強かった岸内閣に代わり、所得倍増論を軸に据え、経済政策に路線の重点を移した池田内閣が成立した。
 この池田内閣による経済中心の国家政策の登場に対して、政治的にはその左右の両側から、従来とは大きく異なる政治運動が60年代に登場してきた。

 また左翼運動では、1950年代まで政治的には「極左」に位置していた日本共産党のさらに左側に『新左翼』というグループが登場して、武装闘争まで呼びかけるようになった。この運動については、次回に詳述する。
 また右翼運動では、明治以来の壮士・浪人風の古典的右翼に対して、学生運動を拠点にした「新右翼」の民族運動が出現した。この『新右翼』の運動が、三島由紀夫の「祖国防衛隊」構想と結びつき、その後に『楯の会』に発展した。
 さらに、三島の『祖国防衛隊』は、自衛隊との関連で考えられるものになっていった。その行き掛かりから見ることにする。

●三島由紀夫と自衛隊 ―祖国防衛隊の構想
 三島由紀夫が自衛隊に対してなんらかの接触をもち始めたのは、昭和41(1966)年、ないしはそれ以前と思われる。三島は藤原第1師団長を通じて陸上自衛隊との交流を深めており、昭和41(1966)年秋には、『祖国防衛隊』の基本構想を固めていた(山本舜勝『三島由紀夫 憂悶の祖国防衛賦』51頁)といわれる。
 しかしそれらの自衛隊関連の記録は、三島の資料から注意深く消されており、三島の行動を全生涯にわたって詳細に追った安藤武「三島由紀夫『日録』」にも、昭和41年における自衛隊関連の記録は記載されていない。

 安藤の『日録』によると、三島は、昭和42年1月に毎日新聞社の防衛庁詰め記者の紹介により、防衛庁広報課長・伊藤圭一人事課長に半年くらいの自衛隊への体験入隊を申し入れた、と記されている。
 しかしそのときは、外国武官以外にそのような長期の体験入隊は認められないとして、その申し入れは断られた。
 その後、毎日新聞の狩野常務の橋渡しにより、防衛・三輪良雄事務次官から杉田元陸幕長、藤原岩市元第1師団長の口利きが行なわれ、長期間の連続入隊は難しいものの、1,2週ごとに出直す条件で、45日間の体験入隊が認められた。
 そして4月12日から5月27日まで、第1回の自衛隊体験入隊が行なわれた。
 
 このように三島による自衛隊や民兵組織への公式の活動は、昭和42(1967)年から始まっている。この年の春、三島と一緒に自決した森田必勝が早大に入学しており、早大には『国防部』が誕生していた。
 また4月には、前年の11月に発足した都内2大学の学生で作られた『日学同』(日本学生同盟)の主導権を民族派がにぎるようになり、早大『国防部』にその協力が要請された。
 
 今から考えると、日本をめぐる 「国防」に関する国際環境については、1960-70年代にかけて、日本と朝鮮半島においてかなり危険な状況が進行していた。
 そのことは下掲の簡単な年表を見ても分かる。

1960年4月27日 韓国で李承晩・政権崩壊
1961年5月16日 韓国に軍事クーデター発生、朴正煕・政権成立
1961年11月 日本の自衛隊においてクーデター未遂事件が発生(三無事件)、この事件では朴政権が日本のクーデター派に大量の武器を援助しようとした。
1968年1月21日 北朝鮮ゲリラ31人がソウル侵入、西瓦台に肉薄したが壊滅。
1968年11月 北朝鮮ゲリラ、韓国に侵入
1970年3月31日 日本赤軍9人が全日空機をハイジャックして平壌へ向う「よど号」事件。

 現在、国際的に問題になっている北朝鮮による「拉致」事件も、60-70年代にかけて日本と韓国の全土で多数発生している。そのことは北朝鮮の特殊工作員が、当時、韓国と日本において間接侵略の活動を活発に展開していたことを物語っている。
 そしてそのことについて、当時の日本人は殆んど気がついていなかった。

 ▲祖国防衛隊とは?
 自衛隊の将官(陸将補)であった山本舜勝氏の「憂悶の祖国防衛賦」によると、三島は昭和42(1967)年4月、単独で陸上自衛隊に入隊して訓練を受けた。そしてそれを基礎にして、夏から秋にかけて自衛隊と話し合い、法規の許す範囲内で三島が構想する『祖国防衛隊』の中核要員に対する訓練計画を完成させていた。そして将来、それを拡充して国の制度として組織に発展させようとしたといわれる。(同書52頁)

 この『祖国防衛隊』については、三島自身が「祖国防衛隊はなぜ必要か?」というパンフレットを書いているが、その内容は、山本氏の著書から見ると次のようなものである。
 まず新安保条約における自衛隊の自主防衛領域は、次の2つである。
  1.間接侵略に対する治安出動
  2.非核兵器による局地的直接侵略に対する防衛
 このうちの後者は、日米安保条約に基づく全面戦争との時間的境界があいまいであることから、自衛隊による真の防衛は前者の間接侵略への対処となる。

 この間接侵略とは、現代の局地戦争が代理戦争と呼ばれているように、大国間のイデオロギー対立が局地的戦争に誘引されるものであり、局地を支配している政権は、その背後にある大国が間接支配しているものと考えられる。
 しかしこの間接侵略の形態は一様ではないため、平和な生活の中でも間接侵略の準備がなされていると考えられるものもあり、自衛隊の武力のみで対応できるものではない。
 そのための最後のよりどころは、外敵の思想的影響、侵略を受け入れぬ強固な国民精神であると、三島は考える。

 この観点から三島は、『祖国防衛隊』という民兵組織の必要性を論じた。そこでの唯一、最大の問題点は、「いかに志操堅固なものたちにのみ武器を携行させることができるか」という問題に到達した。 しかし三島は『民兵』という言葉を嫌い、『祖国防衛隊』という言葉を使うことにした。
  三島の『祖国防衛隊草案』の基本原案は次のものである。
 (1) 祖国防衛隊は民兵をもって組織し、有事の際の動員に備え年1回以上の訓練教育を受ける
   義務を負う。
 (2) 民兵は志願制で、成年以上の男子、年齢を問わず、体格検査、体力検定に合格した者で、前科
   なきもの。
 (3) 隊員の雇用主は、隊員訓練期間の有給休暇を与える義務を負う。隊員には原則として俸給を
   支給しない。
 (4) 隊員は幹部と兵にわけ、幹部教育には年1ヶ月、兵には年1週間の特殊短期訓練を行なう。
   隊員には制服を支給する。

 この段階において、自衛隊が防衛すべき「間接侵略」とは何か? その間接侵略を防ぐために自衛隊と「祖国防衛隊」は、それぞれどのような役割を分担するのか?
 それについて自衛隊側と三島側がどのように考えていたのか? 具体的には明らかではない。
 おそらく自衛隊と三島の双方は、互いに漠然とした思惑や期待がありながら、何となく祖国防衛隊への構想が発足し、その後にたがいの見解の違いが明確になってきた。そのため、その間の亀裂は段々に大きくなり、遂に最後に破局を迎えたのが三島事件の経過であろう。

 まず三島の草案を受けた自衛隊側の見解を、山本氏の前掲書から見てみる。
 自衛隊が広報活動の一環として一般人の体験入隊を奨励するようになったのは、昭和35(1960)年以降のことであり、訓練入隊の経験者は当時、既に10万人を越えていた。
 しかしこの体験入隊では軍事的教育訓練を行なうことが禁じられているため、これらの入隊経験者を戦力として組織することはできない状態にあった。
 それが三島の「祖国防衛隊」という組織により自衛隊への体験入隊者の組織化ができれば、現代の戦争では最も重要でありながら、現行の自衛隊の教育では手の打ちようのない「ゲリラ戦」に対する民兵組織の養成につながると、自衛隊側は考えたように思う。

 このような状況の中で、社会的に影響力の大きい作家の三島由紀夫が、国防問題を民間の立場から提起し、しかも民兵の組織化を提案したことは、ある将官の言葉を借りれば「カモが、ネギをしょってきた!」ほどの魅力的なものであった。
 昭和43(1968)年1月1日、三島の祖国防衛隊の小冊子を研究課長の平原一佐から見せられていた山本舜勝・元陸相補と藤原岩市・陸将、それに研究課長の平原一佐の3人は、そろって三島邸を訪問して歓談した。

 このとき山本は、「三島が、これほど間接侵略の本質、様相を理解して、それに対処することの重要性を認識しながら、演習場での訓練だけで満足しているのは何故か」と疑問に思った、と記している。
 この年の1月21日、北ゲリラ部隊31人がソウルに侵入し、青瓦台に肉薄して壊滅させられ、11月にも、北朝鮮ゲリラが韓国に侵入した
 この当時の三島の軍事知識において、ゲリラ戦による間接侵略に関するものがどの程度あったかは非常に疑問である上に、ゲリラ戦の思想そのものを三島が受け入れることができたかどうかにも疑問が残る。

 三島は、後述する「正規軍と不正規軍」という論文を書いているものの、三島が育成しようとしている祖国防衛隊の人々は、正規軍の中でも最精鋭部隊ともいうべきエリートの軍隊を、三島は頭の中でイメージしていたように思われるのである。
 つまり三島の「不正規軍」とは、「正規軍」が模範とすべき最優秀の精鋭部隊であり、「将校集団」なのである。
 しかも、そこで三島が構想している戦争は、近代的ゲリラ戦とは全く異質のものであり、そこでは剣をもって一対一で敵と切り結ぶという、日本の伝統的武士道精神に支えられるサムライの軍隊なのである。それは43年春に登場した「楯の会」に発展していく。

 ▲祖国防衛隊が、外敵・内敵から守るべきものは何か?
 昭和43(1968)年1月1日、三島は「J・N・G仮案」(Japan National Guard)というタイプ印刷の論文を作成した。その内容は、最初の祖国防衛隊草案とはかなり異なるものであり、そこでの「軍隊」は次のように規定されている。(安藤「前掲書」345頁)
 (1) われらは日本の文化と伝統を、剣を以って死守せんとする軍隊である。
 (2) われらは平和な日本人の生活を自らの手で外敵・内敵から護らんとする軍隊である。
 (3) われらは日本をして文武両道の真の国柄に復せしめんとする市民の軍隊である。
 (4) われらは市民による、市民のための、市民の軍隊である。平和な日本人の生活を、
    自らの手で外敵・内敵から防衛し、依って以て日本の文化と伝統を、剣を以て
    死守せんとする有志市民の戦士共同体である。

 この前年の12月9日、国会の防衛論争において「自主防衛」の具体策を執拗に問われた佐藤首相は、「自主防衛とは、すなわち三次防を行なうことだ」と答えている。その答弁は、三島の言葉を借りれば、「この瞬間に、論争はその論理的発展を失って単なる政争の場面へ転落し、国民の自主防衛意識は精神的支柱を失って政治的プラグマチズムへ直結」(「文化防衛論」44頁)するものになった。

 昭和43(1968)年8月、三島は「文化防衛論」を中央公論に発表した。この論文において三島は、日本民族が護るべきものは日本文化(=天皇制)であり、それは「文化概念としての天皇の復活を促すものでなくてはならぬ。文化の全体性を代表するこのような天皇のみが究極の価値自体だからであり、天皇が否定され、あるいは全体主義の政治概念に包括されるときこそ、日本の又、日本文化の危機だからである」(=同論文の結びの言葉)と書いている。

 つまり三島はこの論文により、日本政府や自衛隊が戦後、最大のタブーとしてきた天皇制復活の領域にふれたわけである。国民主権を明確に規定している現在の憲法のもとで、自衛隊が天皇制の護持を掲げて、外敵・内敵と戦うことができるのか?
 上記の祖国防衛隊草案の第1項にいう「日本の文化と伝統を、剣を以って死守せんとする軍隊」とは、そのことを提起していたわけである

 この年の7月5日、自衛隊の陸相補の山本舜勝氏は、三島から日本文化会議への出席を勧誘された。7月16日の文化会議の当日、三島は自衛隊の将官と文化会議のメンバーをその席上で結び付け、「祖国防衛隊」を公然と世に出して認知させようと真面目に考えていたようである。(前掲書120頁)
 ところが当日、いろいろな行き違いからそれがうまくいかず、三島は非常に機嫌が悪かった、と山本氏は書いている。

 しかし日頃は勇ましいことを口にしている文化会議のメンバーでも、現役の自衛隊の将官との間で自衛隊のクーデターに繋がりかねない真剣な話に乗ってくるとは到底考えられない。
 そして又、自衛隊の側も現行憲法を否定して、自衛隊の存立につながる重大な問題を、市井の評論家たちを相手にして軽々しく論じることは考えられない。
 この事件のころから、三島と山本氏との間に大きな亀裂が生まれ始めたように見える。その結果は、三島による「楯の会」の創設に繋がったと思われる。

 ▲「楯の会」の創設
 昭和43(1968)年3月1日から1ヶ月間、『民間防衛隊』の中核要員25名が、訓練のため富士学校に属する滝の原の連隊に体験入隊することになった。そのうちの11人が、2月26日夕刻、銀座の「論争ジャーナル」の事務所において三島を中心にして、「我々ハ皇国ノ礎ニナランコトヲココニ誓ウ」と筆で書いた巻紙に全員が血で署名し、血判を押すという血盟のイベントを行なった。
 この11名を含んで、富士学校滝の原駐屯地での第1回体験入隊に参加した25名が、「楯の会」の第1期生となった。
 
 三島と「論争ジャーナル」グループの関係は、昭和41年暮れにさかのぼる。41年12月19日の午後、林房雄の紹介で、雑誌「論争ジャーナル」(42年1月創刊)の編集部の万代という青年が三島を訪ねた。
 三島はこの初対面の青年の話に感動して、無償で原稿を書くことを約束する。この雑誌は「日本人の目で見て、日本人の心情で日本を考える」ことを主張し、定価百円、発行部数1万部で出発して、間もなく、2万部を突破するまでになった。

 この「論争ジャーナル」の編集部に、日学同をはじめとする民族派学生が集まり、その「論争ジャーナル」グループが「楯の会」の中枢メンバーとなっていった。その中心人物に、日学同の情宣担当をしていた中央委員の持丸博がいた。
 持丸は、昭和18年水戸生まれの早大生で、三島から全幅の信頼を得ており、後に「楯の会」の初代学生長になった。同時に彼は「論争ジャーナル」の副編集長もつとめており、かつ三島の片腕として民兵組織の創設構想の一翼を担うようになった。

 昭和43年7月25日から8月23日まで、33人の入隊者による富士学校滝の原駐屯地における第2回体験入隊が行なわれた。このあと「論争ジャーナル」グループと体験入隊者の学生たちからなる「三島小隊」が自然に形作られた。この「三島小隊」に「楯の会」という名称が決まり、10月5日に虎ノ門・教育会館で40数名の会員を集めて、結成式が行なわれた。

 最初の結成式に招待者はなく、西武デパート特製による派手な制服を着用して三島の演説を聞き、会の規約が発表された。
 その楯の会の3原則は、1.軍人精神の涵養、2.軍事知識の練磨、3.軍事技術の体得であり、楯の会の規約は次の8か条であった。
 (1) 楯の会は、自衛隊に1ヶ月以上の体験入隊をした者によって構成され、
    同志的結合を旨とする。   
 (2) 体験入隊は、個人の資格で参加するものとする。
 (3) 1ヶ月の体験入隊を終えた者は、錬度維持のため、毎年1週間以上の再入隊の
    権利を有する。
 (4) 1ヶ月の体験入隊を終了した者には制服を支給する。
 (5) 会員は、正しく制服等を着用し、服装及び容儀を端正にし、規律と品位を
    保つようにつとめる。
 (6) 定例会合は毎月1回とする。会合は制服着用を原則とする。
 (7) 会則の変更其の他は定例会合の討議に付する。
 (8) 本会の品位を著しく傷つける言動があった場合は、定例会合において除名に
    処することがある。

 この「楯の会」の名称は、幕末・長州藩の志士・久坂玄瑞の「御楯組」からきたとされるが、同じ長州藩の高杉晋作が作った「奇兵隊」に比べると、その性格は現代戦のゲリラ部隊とは全く異なる「正規軍のエリート部隊」そのものである。
 それが「楯の会」が「世界で一等小さな軍隊」と呼ばれる所以であるが、武器を持たず日本刀に異常な執着をもったフシギな軍隊といえる。

 高杉晋作の「奇兵隊」は武士集団の「正兵」に対して、農・商民を主体とする「奇兵」という新しい有志の軍事組織をつくりだした。これが馬関戦争をはじめとする幕末の新しい戦争で大活躍して、近代的ゲリラ戦の先駆者となった。
 その高杉晋作の奇兵隊の歴史から見ると、三島の作った軍事組織はむしろ南北朝時代の楠木正成などに見られる古典的な軍隊である
 その意味では、この「楯の会」創設の頃には、三島の「祖国防衛隊」は、当初、自衛隊が三島に期待したものとは全く異なる軍事集団?に変質していたと考えられる

 ▲「楯の会」の分裂
 昭和45(1970)年は新安保条約の改定の年であり、60年安保の時と同じような政治的混乱の発生が危惧されていた。既にその混乱を予想させる衝突は、その前年の年明け早々から全国の大学における紛争の激化として現れていた。
 その冒頭が、1月18日の東大全共闘による安田講堂の攻防戦によって幕を開けていた。3月には三里塚の軍事空港粉砕闘争、4月には沖縄闘争において銀座をはじめ東京都心部で学生と機動隊が衝突、6月15日の統一行動では東京において362団体が主催する反戦、反安保、沖縄闘争の大デモが行なわれ、60年代のそれを超える混乱の可能性が予想されていた。

 このような状況の中で、楯の会では昭和44(1969)年3月1日から第3回目の自衛隊・富士学校における体験入隊を行なった。この第3期生の体験入隊が終了した段階で、楯の会の隊員数は70人の規模になっていた。
 この年の初頭に三島はガリ版による小冊子の中で、楯の会の「会員が9月には100名になる予定」であり、「時代の嵐の呼び声が段々近くなっており」、間もなく「自衛隊の羨望の的なるこの典雅な軍服を血に染めて戦う日が来るかもしれない。期して待つべし」と書いていた。(山平重樹「果てしなき夢」ドキュメント新右翼、128頁)

 ところがこの重要な段階(8月)において、「論争ジャーナル」の中辻和彦、万代洌嗣をはじめ、学生長の持丸博などの有力メンバーまでが、楯の会を離れるという大変な事態を迎えることになった。
 その原因は、「論争ジャーナル」の支援者が右翼の大物の田中清玄であることが分かったこと、さらに田中との関係を自衛隊側も懸念していたことにある。特に、学生長の持丸は、水戸学の素養を持ち、平泉学派の流れをくむ徹底した理知の人である。
 持丸が楯の会を離れたことは、三島にとって大きな打撃になったと思われる。

 この持丸に代わって楯の会の学生長になったのが、行動派の森田必勝である。この段階で、楯の会から祖国防衛隊の構想は完全に払拭されて、自衛隊を正規軍、祖国防衛隊を不正規軍とする防衛上の機能分担もなくなり、70年の「三島事件」への流れが決まったといえる。

 昭和44(1969)年10月21日の「国際反戦デー」は、都内の各所でゲリラ活動が展開された。自衛隊や楯の会もその防衛のために待機していたが、圧倒的な警察力によりデモ隊は完全に封じ込められた。
 山本舜勝氏の晩年の著書である「自衛隊『影の部隊』」によると、この日、三島はクーデター計画をたてていたといわれる。
 その計画とは、新宿でデモ隊が騒乱状態になり自衛隊の治安出動が必要になった時、三島と楯の会会員が身を挺してデモ隊を排除し、それに自衛隊の東部方面の特別班も呼応する。
 そこで自衛隊主力が出動し、戒厳令下の首都の治安を回復する。万一、デモ隊が皇居に侵入した時は、山本が待機させたヘリで「楯の会」会員を移動させ、断固それを阻止する。そこで三島はデモ隊殺傷の責任を取り、切腹自害する。
 クーデターを成功させた自衛隊は、憲法改正により国軍としての認知を獲得して閉幕する、といったものであったといわれる。(山本舜勝「自衛隊「陰の部隊」」197頁)

 しかし10月21日の当日、自衛隊にも楯の会にもその出番はなく、圧倒的な警察権力は東京だけでも1121名(全国1508名)のデモ側を逮捕し、かれらのゲリラ闘争は封じ込められた。三島は、これにより自衛隊の国軍としての認知も憲法改正への道も閉ざされたと考えて、非常に落胆したといわれる。

 11月3日、国立劇場の屋上において「楯の会」1周年のパレードが華々しく挙行された。そこで軍服を着た三島は、平服の陸上自衛隊の碇井順三陸将と共に会員を閲兵した。当日、三島は陸将に中折れ帽による出席を依頼したといわれ、そこに自衛隊に対する三島の精一杯の皮肉が込められていた。
 そして当日、参加者に配られたパンフには「経済的繁栄と共に日本人の大半は商人になり、武士は衰え死んだ」と書かれていた。その日、川端康成は欠席し、それが三島をさらに落胆させた。






 
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