アラキ ラボ
彷徨える国と人々
Home > 彷徨える国と人々1  2  3  4  >> 
  前ページ次ページ
  (4)ロッキード事件とは?

●ニクソン・田中のハワイ会談(昭和47(1972)年9月1日)
 ロッキード事件は、昭和47(1972)年9月1日の田中、ニクソンのハワイ会談により幕が開いた。既に前年の後半から日米間の貿易不均衡がアメリカ側から強く指摘されており、この年の1月のサンクレメンテにおける佐藤・ニクソンの日米首脳会談の際に、通商産業大臣として参加していた田中は、スタンズ国務長官から、対米貿易収支の巨額な黒字減らしのための通商交渉の開始を求められていた
 そこで30億ドルを越える対米貿易黒字の削減策の目玉は、大型ジェット機を含む民間航空機の緊急輸入であり、日本政府は47年度契約概算として大型ジェット旅客機10機等、3億7700万ドルの緊急輸入の方針を定めていた

 さらに、7月28日から箱根で行なわれた日米通商会議29日の田中・エバリー会談において、対米貿易の不均衡是正の具体策を迫られていた。そこで航空局は日航、全日空からの機材購入計画を詳細に検討して、47、48年度契約概算3億2千万ドルと決定した。
 これがハワイ会談において田中からニクソンに提案されたと考えられる。このハワイ会談において、アメリカ大統領ニクソンは、日本が民間航空機を購入するにあたり、自分の選挙基盤であるカリフォルニア州に本社があるロッキード社を指定して、日本に購入を要請したと見られる。

 しかもその事を予測してロッキード社の社長コーチャンは、日本の代理店である商社・丸紅の檜山社長を通じて、8月に田中総理大臣に会い、同社のL-1011を選定してもらうように働きかけた。これに対して丸紅の檜山社長が、田中総理大臣に5億円を贈ることを提案したとされている。

 昭和47年10月30日、全日空はロッキード社のL-1011の購入を決定した。そこで田中首相に贈与を約束した5億円を支払うことになったが、それは何故かなかなか支払われなかった。翌年、48年6月頃になり、丸紅の伊藤宏専務が田中の秘書官・榎本敏夫から電話で催促され、コーチャン側に電話したが、コーチャンは支払いを資金事情が苦しい事を理由に渋っていたという。

 しかし最終的にロッキード社は、昭和48年7月16,18日、8月7日の3回に分けて、ロサンゼルスのデューク社を通じて日本に金を運び、ダンボール箱に梱包して丸紅の職員に渡した。
 この日本に到着した5億円は、一度に支払われず、1億円程度に分割して榎本氏を介して田中首相に贈与されたという。
 その詳細は、裁判の冒頭陳述書に微に入り細に入り書かかれている。このロッキード事件なるものの経過を簡単にまとめてみると、図表-1のようになる。

図表-1 ロッキード事件の経過
邦暦 月日 事項
1972 昭和47 8月31日 田中首相、小佐野の所有するハワイのサーフ・ライダー・ホテルに宿泊
9月1日 ハワイで田中・ニクソンの首脳会談が開催
10月9日 PXL国産化の白紙還元(防衛庁、久保卓也事務次官会見)。ロッキード社のP3Cを次期対潜哨戒機として導入決定。児玉に21億円支払い?
10月14日 丸紅・檜山社長、田中首相を訪問。コーチャン・小佐野会談
10月16日 小佐野、田中首相と若狭社長に会う
10月18日 若狭社長、月内に機種決定と発表
10月30日 全日空、エアバスの機種をトライスターに決定
11月7日 ニクソン大統領、再選決定。
1973 昭和48 12月19日 トライスター一番機、全日空へ引き渡し
1974 昭和49 3月10日 トライスター、東京−沖縄線に就航
1975 昭和50 2月4日 米上院外交委員会(チャーチ委員会)でロ社の対日工作が明るみに出る。


 この経過をみると、全日空の大庭社長のときに、ダグラス社のエアバス・DC10に決まっていた全日空の導入機種が、田中・ニクソンの首脳会談以降、ロ社のエアバス・トライスターに代わっていった過程が非常に良く分かる。
 これがロッキード事件の骨格であり、裁判でもこれが中心になるが、逆にこの事件において暗黒のまま残されている部分も見えてくる。

 つまり全日空−丸紅ルートの5億円の授受は大きく取り上げられたが、ロ社はP3Cの導入決定で児玉に21億円を支払ったといわれている。また昭和33年のグラマン・ロッキード商戦のときには、グラマン社から岸首相の選挙資金に20億円が渡ったと見られている。
 これに比べると、総理大臣の受託収賄罪の金額として、5億円という額はいかにも小額である。つまりこの裁判は、丸紅ルートに比重をかけすぎたため、対照的に児玉、小佐野という暗闇の部分は殆んど不明のまま残された。
 では一体、この裁判では何が裁かれたのか? また何が裁かれなかったのか? 次に考えてみよう。               
   
●ロッキード裁判で何が裁かれたのか?
 昭和58(1983)年10月12日、ロッキード裁判に対する東京地裁の判決が下りた。その内容は下表のようになる。これから逆に裁判の経過を見ると、分かりやすいであろう。

図表-2 ロッキード事件に対する東京地裁判決
刑事種別 名前 職業 罪名 判決
田中・丸紅ルート 田中角栄 首相 受託収賄、外為法違反 懲役4年(追徴金5億円)
榎本敏夫 秘書 外為法違反 懲役1年(執行猶予3年)
檜山広 丸紅社長 贈賄、外為法違反、偽証 懲役2年6ヶ月
伊藤宏 丸紅常務、社長室長 贈賄、外為法違反、偽証 懲役2年
大久保利春 丸紅常務、機械第一本部長 贈賄、外為法違反、偽証 懲役2年(執行猶予4年)
全日空ルート 橋本登美三郎 運輸大臣、自民党幹事長 受託収賄 懲役2年6ヶ月(執行猶予3年、追徴金5百万円)
佐藤孝行 運輸政務次官 受託収賄 懲役2年(執行猶予3年、追徴金2百万円)
若狭得治 全日空社長 外為法違反、偽証 懲役3年(執行猶予5年)
渡辺尚次 全日空副社長 偽証 懲役1年2ヶ月(執行猶予3年)
沢雄次 全日空専務 外為法違反 懲役10ヶ月(執行猶予2年)
藤原亨一 全日空取締役経営管理室長 外為法違反 懲役10ヶ月(執行猶予2年)
植木忠夫 全日空調達施設部長 外為法違反 懲役6ヶ月(執行猶予2年)
青木久頼 全日空経理部長 外為法違反 懲役6ヶ月(執行猶予2年)
児玉ルート 児玉誉士夫 ロ社秘密代理人 脱税、外為法違反 死亡のため公訴棄却(1984.1.25)
太刀川恒夫 児玉の秘書 外為法違反、強要 懲役4ヶ月(執行猶予2年)
小佐野賢治 国際興業社主 偽証 懲役1年

 
 立花隆「ロッキード裁判傍聴記」は、「バックグラウンド・クロニクル」を裁判に進行に合わせて記載しており、裁判の段階ごとに社会的状況の推移が良く分かり非常に参考になる。

 その1982年12月〜1983年1月の項を見ると、裁判の最後の年における、年初めの状況が書かれている。そこでは「サンケイ新聞」の世論調査は、有罪57.5%、無罪24.3%であり、大方の見方は田中有罪を想定していた。
 しかしその年の1月1日には、例年よりは来客が少ないものの、田中邸の200人収容のホールには、入りきれない400人もの代議士、高級官僚、官僚OBで溢れた。

 1月には社会党をはじめとして、田中への議員辞職勧告案の提出を予定していたし、田中の出身地である新潟県刈羽郡西山町の住民の会までが、田中の辞職を訴えるという動きが出ていた。
 しかしその一方で、法務大臣は田中派の最右翼である元警視総監の秦野章がつとめており、1月26日の論告求刑の前には、『指揮権発動』や『検察への政治介入』について発言して物議をかもしていた。
 そのなかで田中には懲役5年の求刑が行なわれ、その求刑公判中のテレビ朝日の「こんにちは2時」では、出演していた評論家が『検事をぶっ殺してやりたい』と叫び出す椿事件まで登場していた。

 そのような社会的状況の中で行なわれた10月12日の地裁判決では、図表-2のように確定した。すでにこの裁判批判については、いろいろな角度からなされているので、ここでは少し異なる角度からこの裁判と田中支配を考えてみよう。

 ▲ロッキード事件とは、何であったのか? 
 この事件には、一寸素人が考えてもフシギに思うことがある。それは全日空の大庭社長がエアバスの導入を考えていた時、同社の選定委員会は、ボーイング社(代理店:日商岩井)、ダグラス社(代理店:三井物産)、ロッキード社(代理店:丸紅)の3社のプロポーザルを提供させて、選定作業を進めていたことである。
 とすれば、この3社はすべて全日空に対して必死の売り込み競争をしていたはずである。特に、ダグラス社は本命と見られており、そのために三井物産はDC10を10機も購入しているほどである。この競争が突然消滅して、ロ社の営業活動だけが出てくるのはまことにフシギなことである。
 もしロ社に決まっていれば、高額のリベートは不要であるし、そうでなければロ社がリベートを出している段階で、他社もそれに負けないようにリベートを出しているはずである。
 その事件の出発点が、そこでは意識的に不明確にされている。
 
 田中・ニクソン会談において話し合われた民間航空機の購入額は3億2千万ドルであり、それは1千億円近い高額の商談である。これに対して田中に支払われて事件になったのは、僅か5億円に過ぎない。それは1桁単位が違うのではないかというほど少ない額である。
 しかもその5億円も、ロッキード側がなかなか支払わないので催促した話がでてくる。これはどう考えても理解に苦しむフシギなはなしである。

 つまりこの事件の第1の問題点は、ボーイング、ダグラス、ロッキードの3社が、1千億円のセールス競争に対して投入したリベート競争の実体が、明らかにされていないことにある
 1千億円の商談であれば、兎に角、自社の売り込み競争に10億円、売り込みに成功すれば成功報酬として10〜20億円加算したものが支払われてもおかしくない。

 田中、丸紅ルートの裁判では、5億円の支払いが微に入り細に入り語られる。ロ事件の中心になったのは5億円の田中、丸紅ルートであり、それは詳細に明らかにされた。
 児玉の場合、1973年1月3日に自宅で4億円の小切手が盗まれるというフシギな事件が起こっている。そしてロ社がこれを補填して、児玉に4億4千万円を支払うというこれまた不可解な処置が取られている。この4億円のドル資金は、前年の11月のニクソン大統領の再選の資金として還流したというのが、弁護側の主張である。

 児玉ルートでは、児玉自身と通訳として重要な役割を果たした福田太郎が、殆んど重要なことを話さずに死んだ。この闇ルートが白日の下にさらされると、日本とアメリカの国際政治の表舞台に、致命的なダメージを与える恐れがあったと思われる。
 そのためさしさわりのない田中・丸紅ルートに焦点があてられ、真の暗闇の部分は完全に封印されたと考えられる。

 1976年のチャーチ委員会の調査によると、数年前から75年末までに708万5千ドル、21億円が児玉に贈られたとされる。とすればロッキード社の販売リベートは児玉誉士夫に渡っているわけであり、田中への5億円はニクソンへの口利き料であった可能性が強い。であれば成功報酬として児玉に渡す金額とは別の上乗せになり、ロ社としては田中への5億円の支払いを渋る意味が分かってくる。

 つまりロッキード裁判では、児玉誉士夫と福田太郎が途中で亡くなったため、児玉ルートが殆んど解明されず終わっている。それは田中、丸紅ルートのみ微に入り細に入り行なわれたのと、まさに対照的である。
 しかも実際のリベートを出したのはロ社であるにも拘らず、そのロ社を免責にして、嘱託尋問という形にして代理店の丸紅のみが裁判の対象になった。さらに、ロ社以外のボーイング、ダグラス社による代理人へのリベートなどは、すべて闇の中に沈んでいる。
 つまり7年もかけたロ裁判が、田中、丸紅の5億円の授受に矮小化されてしまったことが、この種の裁判の奇怪さを物語っているともいえるであろう

 1978年12月14日、アメリカの連邦証券取引委員会(SEC)は、ダグラス社にも1500万ドルに及ぶ海外売り込み活動の不正、不明支払があったことを暴露して、日本に改めて衝撃を与えた。
 それによると、1970年、結局不成功に終わった日本への商業用航空機の売り込みに関連して、ダグラス社の秘密代理人に対して、5万ドルのコンサルタント料と1万5千ドルの工作資金が渡され、この工作資金は複数の政府高官に渡されたという。
 秘密代理人は、その後、さらに5万ドルの支払いを受けたという。このダグラス社の秘密代理人は、日本の高名な財界人であるといわれる。
 つまり上で私が述べたことは、ロッキード事件が終わった後で少しずつ現れてきた。

 このように見てくると、ロッキード事件から外されていた巨大な国際的な航空機の裏取引の一部が、はからずもその片鱗をみせたのがSECの事件である。
 日本国民は、ロッキード事件を巨額な汚職事件と考えていたが、実は、それよりはるかに巨大な部分が、暗闇の中に隠されていることを我々は知る必要がある。

 また国民は、田中政権の金権体質によって大きな被害を受けた。しかもその元首相は収賄事件というハレンチ罪により有罪となった。
 それにも拘らず、その元首相を上に戴く田中派を中心にした『田中支配』は最近まで続いてきたし、元首相に対する国民的人気もいまなお続いていることも事実である。

 そのことは、明らかになったロ事件の裏に、さらなる巨悪が闇に眠っている事を、日本国民が暗に感じているからではなかろうか?と私には思われる。






 
Home > 彷徨える国と人々1  2  3  4  >> 
  前ページ次ページ