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彷徨える国と人々
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1.ロッキード事件 −「田中支配」とは何であったのか?
2.三島事件とは何であったのか?
3.安保条約の改定反対と新左翼
4.よど号事件とその後
5.連合赤軍の事件
6.日本赤軍の事件

7.金大中事件と朴政権
(1)「金大中事件」とは何であったのか?(その1)
(1)「金大中事件」とは何であったのか?(その2)
(2)金大中拉致事件の政治決着 −北朝鮮による拉致事件決着の原型?
(3)金大中氏のその後 −死刑判決から大統領まで

8.北朝鮮による拉致事件とは何であったのか?
9.佐藤政権の沖縄返還と日米軍事同盟の変貌
10.北方領土問題とは何なのか?(第1部)
11.北方領土問題とは何なのか?(第2部)
 
  7.金大中事件と朴政権

(1)「金大中事件」とは何であったのか?(その1)
 71年春の韓国大統領選挙において540万票を集め、現職の朴大統領を僅か94万票の得票差にまで追い詰めた韓国野党の第1人者の金大中氏が、1973年8月8日の白昼、東京九段のグランド・パレス・ホテルから数人の男に拉致されるという衝撃的な事件が起こった。
 この事件の性格から、当初は金大中氏の生存を悲観視する見方が多かった。しかし、意外なことに若干の傷を負いつつも、5日後の8月13日夜、本人が無事にソウルの自宅に現れ、その予想外の幕切れに人々は再び驚いた。

 この有名な国際的テロ事件を統括した首謀者は、KCIA(韓国中央情報部)部長・李厚洛といわれている。そして、この拉致事件の背後には、金大中と政権の座を争った朴大統領の関与の有無が問題となった。
 さらに事件の目的は金大中氏の殺害にあったのか? それとも、もともと拉致にあったのか? はたまた、状況にあわせて双方を選択するものであったのか?
 現在においても、なおその真相は日米韓の政治の闇の中にある。

 一体、李厚洛KCIA部長は、何故このような事件に踏み切ったのか?
 日本、韓国、アメリカの政治が絡む国際テロ活動の観点から考えてみても、この事件は余りにも舞台装置の裏が見えすぎており、しかも拙劣で杜撰である。
 そのため、李厚洛をはじめとする関係者は、事件後に、すべて処分されて一件落着している。要するに、裏があまりに見えすぎる事が逆にフシギな事件なのである
 
 2007年1月、当時の毎日新聞ソウル特派員であった古野貴政氏による「金大中事件の政治決着」(東方出版)という著書が出た。それによると事件のあった1973年に、朴大統領の政敵である金大中のみならず、大統領のすぐ下を支えていた四天王ともいうべき有力者が、すべて粛清されている。
 つまり、朴大統領は、彼を滅ぼそうとした政敵・金大中のみでなく、自分の最有力な腹心を同時に滅ぼしている。それは一体、何故であろうか?

 一見、粗雑で単純な「金大中事件」の裏側に見え隠れしている1960-70年代の朝鮮半島・政治史は、かなり複雑、怪奇であり、そのことをここで考えて見たい。

●金大中事件の総指揮者・李厚洛とは?
 1970年代の初頭、朴政権を支える4人の重要人物がいた。そしてその中から朴政権の後継者が出てくると思われていた。その有力な1人が当時のKCIAのチーフであり、金大中事件の総指揮をとったとされる李厚洛である。
 そこでまず、その李厚洛の出自を簡単に述べる。

 李厚洛は、革命後の1963年に朴大統領が青瓦台に入城して以来、終始、朴大統領を支える主要人物の1人であった。
 李厚洛は、学徒動員による旧日本軍の陸軍少尉として終戦を迎え、戦後、米軍が開設した軍事英語学校を卒業、李承晩政権下では大邱陸軍本部の情報局の次長をつとめ、米国へ留学した。
 その後、教育総本部参謀長、駐米大使館付き武官、さらに韓国における最初の情報部である国防部直轄の「79部隊」の機関長を歴任して、61年に少将で予備役編入、張勉政権下では中央情報委員会研究室長となった。いわば、韓国情報機関の生え抜きのプロフェッショナルである

 それが朴軍事政権の5.16クーデターでは、最初は反革命分子として逮捕された。
 しかし、初代KCIA部長の金鐘泌により釈放され、最高会議公報室長として朴正熙将軍の配下に入った。

 朴政権下では、後述する警備室長の朴鐘圭と対立するが、知力・業務処理能力などの力量において、李厚洛は朴鐘圭をはるかに越える大物であり、それを知る朴大統領はこの2人を牽制・競争させて利用したようである。つまり朴政権下のすさまじい権力闘争を生き抜いてきた人物である。

 朴政権下での李厚洛は、次のような役職を務めた。
  1961年5月− 最高会議公報室長
  1963年12月− 秘書室長
  1970年12月− KCIA部長
  1973年12月 金大中事件によりKCIA部長を解任

 ▲優れた手腕が裏目に出た? ―李厚洛の苦悩
 李厚洛が大きく歴史の檜舞台に登場するのは、1972年5月2日にピョンヤンを極秘に訪問して北朝鮮の首相である金日成と実弟の金英柱と会談を行い、7月4日に自主的な民族統一をうたった南北平和統一に関する共同声明の発表まで持ち込んだことである
 このとき北朝鮮においてまず対応した人物は、ナンバー・スリーの地位にあった金英柱であり、それと対応した李厚洛もまさに韓国のナンバー・スリーであった。

 このとき北朝鮮の金日成首相は、決死の覚悟で単身ピョンヤンに乗り込んだ李厚洛の態度に驚き、「わがほうにこのような勇者はいない」と羨ましがったという話が伝えられている。(「朝日新聞」72年12月12日)
 それは、まさに米中国交回復の秘密交渉をまとめたニクソン政権におけるキッシンジャーの、韓国版ともいえるほどの大きな業績であった。

 70年代のはじめまでソ連圏とアメリカ圏に分断されてきた冷戦構造は、そのとき、大きな転機にさしかかっていた。ベトナム戦争では、北ベトナム主導による75年の社会主義的統一ヘ動き始めており、ヨーロッパでは、72年に東西ドイツが基本条約により平和共存する態勢が生まれていた。
 またアメリカと中国との関係は、72年2月のニクソン訪中により歴史的転換点を迎えていた。

 残る東西分断国家である朝鮮半島の平和共存への転換に対しては、アメリカが朴政権に対してかなり強い圧力をかけ始めていた。そのため朴政権も、このアメリカの勧告・圧力に対して、何らかの対応に迫られることになっていた。
 その第1は、68年8月15日における「国土統一院」の設置であり、70年8月15日の「8.15平和統一宣言」になった。

 その当時の朴大統領に、平和統一への積極的な意思があったとは考えにくい。しかし、北朝鮮は、一定の条件下でUNにおける韓国問題に参加することを認めており、南北間の人為的な障壁を段階的に除去する事を認めていた。
 この段階でKCIA部長という、本来国民から嫌われる地位の李厚洛の勇気ある行動は、72年後半の韓国において国民的スターの地位を獲得し、次代の大統領候補と目されるまでになっていた。

 しかし李厚洛の南北統一への行動は、朴大統領の当時の危機意識とは根本的に食い違っており、そこに李厚洛の不幸があった。つまり朴大統領は、表面的にはアメリカの意向を受けて平和統一へのジェスチャーを見せつつも、本心ではこの時期に南北統一が行なわれると、韓国は北朝鮮に飲み込まれるという危機感を持っていたと思われるのである。
 その理由は、今ではその実感に乏しいが、70年代初頭の朝鮮半島の経済状況を見ると、圧倒的に北朝鮮のほうが韓国より優位にあったことにある。

 それは戦前の日本の植民地政策が、北朝鮮に高度な重化学工業を誘致し、南朝鮮を農業地帯とした経済政策の結果からきている。
 図表-1にあげるように、1人当たりのGNPにおいて韓国が北朝鮮を越えたのは1975年以降であり、70年代までに南北統一が行なわれると、韓国は北朝鮮に経済的に吸収される怖れが十分にあった。それは図表-1からも分かる。

図表-1 韓国と北朝鮮の1人当たりGNP比較(単位:米ドル)

  (出典、韓国国土統一院統計資料から作図)

 李厚洛は北朝鮮との交渉を成功させ、72年7月4日の南北平和統一に関する共同声明の発表を行い、8月30日には南北赤十字会談まで行なわれた。
 この業績は、70年代初頭の韓国において朴大統領に次ぐナンバー2と見られていた尹必繽ォ軍に高く評価され、尹必繧ニ李厚洛という朴政権の後継者の連携ができあがった。これが朴大統領の逆鱗にふれ、2人とも粛清されることになった。
 そこで李厚洛の粛清の手段として利用されたのが、「金大中事件」であると私には思われるのである。

 朴大統領が南北平和統一の共同声明後に実際に取った行動は、それとは全く逆のものであった。南北統一どころか、10月17日には北朝鮮の侵略の危険性に対して全国に戒厳令を宣布し、10月27日には非常国防会議を開き、憲法改正案を議決した(「維新改憲」)。
 11月23日には維新憲法による初の統一主体国民会議を開催し、第8代朴大統領を終身制として正式に決定するという、全く時の流れに逆行するものとなった。

 11月30日には南北調節委員会が正式に発足したものの、朴政権の独裁体制が確立したもとでは、南北関係は統一どころか、むしろ最悪の状態に突入していた。
 この逆行的な朴政権の行き方に対してアメリカは、金大中に対する支持を明確にした。そして金大中は、韓国を離れ、アメリカと日本の間を往復し、朴政権に対する反対運動を強化した。このことが「金大中事件」の伏線になる。

●維新革命で消された四天王 ―尹必縺A李厚洛、朴鐘圭、金鐘泌
 尹必繽ォ軍は、61年5月の朴正熙の軍事革命に中領として参加した陸士8期組の1人であり、朴政権のナンバー2に位置する将軍として、朴長期独裁の基盤をつくった実力者でもある。
 70年以降は首都警備司令官をつとめており、72年10月の「維新革命」では、ソウル地区の戒厳司令官になった。この尹必繽ォ軍が、73年4月、突然、反逆罪で逮捕されて軍事裁判にかけられるという事件が起こり、韓国国民を驚愕させた。

 将軍の経歴を見ると、次のようになる。
  61年5月− 国家再建会議議長、秘書室長
  66年− 防諜隊隊長
  68年− 猛虎部隊隊長としてベトナムへ。
  70年− 首都警備司令官、少将
  72年− 「十月維新」でソウル地区戒厳司令官
  73年3月 「青瓦台の外にいる大統領」と呼ばれる。
  73年4月 クーデター未遂?事件で軍法会議
  75年2月 刑の執行停止
  80年春 全、慮政権下で復権、道路公社社長、たばこ人参公社理事長。

 4月28日の普通軍法会議は、首都警備司令官・尹必繧はじめとする高級将校11名に、横領・収賄・職権乱用・軍務離脱罪を適用して、懲役15年から2年の刑を宣告した。それに付随して、尹必繽ォ軍配下の31名が退役させられて、尹将軍の権力は軍から一掃された。
 その原因は定かではない。しかし「維新体制」による朴政権の専制的な歩みをすすめるために、尹必繧ニ李厚洛という2人の有力者の連携は、朴大統領にとって最初に取り除くべき障害になったと見られている

 特命捜査にあたった姜昌成保安司令官によると、宮井洞の食堂において李厚洛と尹必繽ォ軍が夕食を共にした際、尹将軍が李厚洛に「朴大統領が老衰する前に、我々が後継者を推薦する必要がある」といったとされる。
 そのとき李厚洛が、その後継者として誰が相応しいか?と聞くと、尹将軍は、「それは南北の平和統一のためにピョンヤンまで行った貴方だ!」と応えた。
 李厚洛は、ニヤ! と笑って、尹将軍は、万年、首都警備司令官ではなく、総理になるといい、といった、とするまことしやかな話がある。(金○「ドキュメント朴正熙時代」亜紀書房、9頁)  [○:王へんに進]

 この話はいろいろな本に見られるものである。そのことから、多分、この程度の話により尹必緕膜盾ェデッチ上げられ、尹将軍は権力の座から追われた可能性が高い。その証拠には、朴政権が終わった途端に、尹必繧ヘ復権している。

 そして李厚洛の追い落としのために、次に利用されたのが金大中事件であったと私には思える。つまり金大中事件は、朴政権にとって1石3鳥の事件になった
 それはまず第1に、政敵・金大中を拉致して韓国内に封じ込めることに成功した。第2には、殺害より難しい拉致という方法により、金大中の殺害を嫌ったアメリカの顔をたてた。
 そして第3に拉致による国家犯罪の責任をKCIAの組織の不手際に転嫁し、李厚洛とその一派を政権から抹殺する事に成功した。

 つまり金大中事件における不手際の数々は、実は、朴政権が意識的に作り出したものと考えると、非常に分かりやすくなる
 その証拠には、尹将軍、李厚洛に続いて、朴政権を支える四天王ともいうべき警備室長の朴鐘圭も、74年8月の文世光事件の責任をとって抹殺されたことにある。
 そして75年12月には、初代KCIA部長で首相の大物政治家・金鐘泌が解任されて、朴大統領の維新体制を脅かす人物は75年までにすべて抹殺された






 
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