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彷徨える国と人々
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1.ロッキード事件 −「田中支配」とは何であったのか?
2.三島事件とは何であったのか?
3.安保条約の改定反対と新左翼

4.よど号事件とその後

(1)赤軍派による日航機よど号ハイジャック事件
(2)よど号ハイジャック犯のその後

5.連合赤軍の事件
6.日本赤軍の事件
7.金大中事件と朴政権
8.北朝鮮による拉致事件とは何であったのか?
9.佐藤政権の沖縄返還と日米軍事同盟の変貌
10.北方領土問題とは何なのか?(第1部)
11.北方領土問題とは何なのか?(第2部)
 
  4.よど号事件とその後

(1)赤軍派による日航機よど号ハイジャック事件 
 大菩薩峠において赤軍派が大打撃を受けた1週間後の11月12日、塩見議長は赤軍国際部長の小俣昌道(京都大学全共闘議長)を、ひそかに国外の過激派との連携をつくるために羽田から出発させた。
 当時、アメリカでは、ウエザーマンとかブラック・パンサーといった新左翼系の超過激派が、銃や爆弾を使ってテロ路線を突っ走っていた。
 このようなアメリカの超過激派と国際的な連携を保ち、「あすの地球をまわす世界赤軍」を構築しようというのが塩見議長の夢であった。

 昭和45(1970)年に入り、赤軍派は新しい軍事蜂起をめざし、1月はじめに東京の赤坂東急ホテルで「中央委員会」を開いた。
 ここに重信房子を含む14人の赤軍派幹部が集まり、田宮が「フェニックス計画」(=よど号事件)と名付けた海外脱出計画を明らかにした。
 さらに1月16日には東京で560人、2月7日に大阪で1500人を集めて蜂起集会を開いた。この東京集会は、元東京都学連書紀長・前田祐一(中央大学)の率いる「長征軍」が北海道、東北、北陸、九州をまわって徴兵してきた若者を集めて、神田駿河台の全電通労働会館ホールで開いた武装決起集会である。
 
 この集会では「国際根拠地建設、70年前段階蜂起貫徹」の方針が提起され、ここで赤軍派は「世界赤軍」の名の下に、海外に救いをもとめる動きを見せ始めた。
 それは明治の自由民権運動において、国内の運動がすべて鎮圧されたとき、朝鮮半島に新しい活動の場を求めておこした「大阪事件」に似ていた。

 そこでは他にもいくつかの作戦が計画されたが、それらの殆どが例によって失敗した。それでも塩見らは海外脱出の「フェニックス計画」をあきらめず、赤軍派幹部を含む13人を「ハイジャック班」として決行することになった。
 ところがその決行の直前の3月15日に、最高指導者の塩見高也と前田祐一の2人が逮捕されてしまった。しかも小西隆裕と森清高が脱落したため、最終的には9人により日本で最初のハイジャックを実行することになった。
 その事件の概要は次のようなものである。

●よど号事件の概要
 昭和45(1970)年3月31日午前7時半すぎ、羽田を離陸して富士山上空を福岡に向かって飛行していた日本航空ボーイング727(よど号:乗員7人、乗客131人)が、乗客として乗っていた9人の赤軍派に日本刀、ピストル、爆弾で脅され、北朝鮮に行くように指示された。
 丁度、その航空空域が米軍の管制下にあったことから、この事件はただちに米軍にキャッチされた。そのためこの事件は日米韓北朝鮮の4国がからむ厄介な国際問題になり、ハイジャック事件としては解決までの時間の世界最長記録を作ることになった。

 米軍は直ちに同機に搭乗していたアメリカ人乗客を調べた。すると、聖職者とコーラ関係者の2名のアメリカ人が搭乗していることが分かった。
 このうちの聖職者マクドナルド氏が、アメリカが北朝鮮に行かれると困るCIA?にからむ人物であったふしがある。
 そのことがよど号の問題解決を、事件の裏でさらに複雑かつ困難にしたと思われる。
 その内容は、よど号事件の際に日本航空の対策本部事務局長をつとめた島田滋敏氏の著書「『よど号』事件 三十年の真実」草思社に詳しい。

 よど号は福岡空港において病人、女性、子供など23人をおろして給油し、6時間半後の午後2時前に福岡空港を離陸し北朝鮮に向った。
 この福岡においてアメリカ人をおろすことができなかったため、アメリカには、どうしてもよど号を韓国に着陸させて乗客を解放させる必要が出てきたようである。
 そのことがハイジャック事件の解決までの時間的最長記録を作る、厄介な国際問題に発展させた。

 福岡を飛び立った日航機は朝鮮半島の東の海上を北上し、朝鮮を南北に分断する休戦ラインに沿って西に転じ、板門店の北西部まできてピョンヤンに近づいた。
 そこで国籍不明の2機の戦闘機が現れ、よど号は空港に誘導された。
 機長、犯人ともに、最初はそこがピョンヤンの空港であると思ったようである。
 しかしそこは、実は偽装された韓国のソウル郊外の金浦空港であった。
 そのためハイジャック機は、そこで日米韓北鮮の軍事的、外交的、謀略的な駆け引きの真っ只中に巻き込まれた。そしてよど号は、帰国まで122時間という寿命が縮まるほどの恐ろしい経験をすることになった。
 
 ちなみに朝鮮半島において、「休戦ライン」と「38度線」とは実は全く別のものである。つまり休戦ラインは、朝鮮半島の東部においては38度線より北に入り込んでおり、西部の休戦ラインは38度線より南に入り込んでいる。このことがよど号のピョンヤンへの飛行経路に錯覚を与えたようである。
 朝鮮戦争の休戦協定により、この休戦ライン上を飛ぶ飛行機は、国籍・理由を問わず、撃墜してもよいことになっている。そのため、その上空は、民間機が絶対に飛んではならない危険な空域であった。

 当時、韓国は軍事クーデターにより政権をとった朴正煕大統領の政権下にあった。
 そのため、韓国の朴政権と北朝鮮の金日正政権とは、朝鮮戦争に続く軍事的に一触即発の戦争状態にあった。そこを日本の飛行機が、韓国の領空を犯して北朝鮮に向ったわけであり、無事に飛べたことは殆ど奇跡であった。
 韓国の上空を、ハイジャックされた日本の飛行機が北朝鮮に向かって飛ぶことは、韓国としては国家主権にかかわる重大事であり、絶対に許す事のできないことであった。そのため朴政権は、米軍の連絡を受けた段階から、ハイジャック機を韓国内で阻止し、確保することを考えたと思われる。

 韓国側は金浦空港において、北朝鮮兵の服装とニセのプラカードを持って、ハイジャック機を歓迎するように偽装して迎えた。ところが準備時間が短かかったため準備が間に合わず、空港にはノースウエスト機が停まっていたし、ラジオにはジャズが流れ、空港の近くをアメリカ車が走っていた。
 赤軍派は、ノースウエスト機には気がつかなかったが、ラジオ放送やアメリカ車に気がついて、そのウソはたちまち見破られてしまった。

 韓国側はあくまでも強行突入に拘ったが、日本側の強い意向により、4月1日に人質の身代わりになるため日本から着いた山村政務次官が赤軍派と交渉にあたり、4月3日に乗客全員はようやく開放された。
 そして山村政務次官1人が代わりに人質になり、4月3日午後6時4分、よど号はまだ日本と国交のない北朝鮮のピョンヤンに向って夕闇の中を、有視界飛行により正確な地図ももたずに飛び立った。
 事件発生から83時間後のことであった。この間における日本外交の不手際、韓国政府の強行姿勢、そして疲労が重なる乗客と日航乗務員のけなげな活動は、前掲の島田氏の著書に詳述されている。

 よど号事件の実行犯は次の9名である。
     田宮高麿(大阪市大)―その後、北朝鮮で死亡
     小西隆裕(東大)−在北朝鮮
     田中義三(明大)―タイで逮捕、日本に送還され裁判、2007年日本で死亡。
     安部公博(関西大)―在北朝鮮
     吉田金太郎(京都市立・堀河高校卒、日立造船所工員)―北朝鮮で死亡
     岡本武(京大)−北朝鮮で粛清?
     若林盛亮(同志社大)―在北朝鮮
     赤木志郎(大阪市大)―在北朝鮮
     柴田泰弘(神戸市立・須磨高校生)―1985年帰国、93年懲役5年刑、94年出所。
                      
 よど号をハイジャックした赤軍派の新しい活動は、北朝鮮に入ったところから始まった。しかしその後の北朝鮮における情報は断片的にしか入らず、その動静は闇に包まれていた。 






 
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