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彷徨える国と人々
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1.ロッキード事件 −「田中支配」とは何であったのか?
(1)はじめに
(2)異能の政治家・田中角栄
(3)ロッキード事件の役者たち
(4)ロッキード事件とは?

2.三島事件とは何であったのか?
3.安保条約の改定反対と新左翼
4.よど号事件とその後
5.連合赤軍の事件
6.日本赤軍の事件
7.金大中事件と朴政権
8.北朝鮮による拉致事件とは何であったのか?
9.佐藤政権の沖縄返還と日米軍事同盟の変貌
10.北方領土問題とは何なのか?(第1部)
11.北方領土問題とは何なのか?(第2部)
 
  1.ロッキード事件 −「田中支配」とは何であったのか?

(1)はじめに 
●『田中支配』とは?
 1955年以来、半世紀にわたり日本を支配してきた自民党政権を見ると、岸、佐藤などの政治路線を得意とした政権と、池田で始まる経済路線を得意とする政権の2つに分かれる。
 今回取り上げる田中政権は、日中国交回復など政治的な要素は多く含まれるものの、高度経済成長政策の功罪の両面を見事に演出した、後者を代表する政権といえる

 その観点からすると最近の小泉、安倍政権は、岸、佐藤の流れを汲む政治路線の内閣といえよう。そのため小泉、安倍政権では、経済政策が殆んど置き去りにされてきている。そこで最近になって田中角栄の時代を懐かしむ人々が増えている。
 田中政権の期間は886日、わずか2年そこそこに過ぎないが、その田中政治は功罪両面から日本の高度経済成長政策の頂点をきわめた、特異な時代といえる。
 今回はこの田中時代を、「ロッキード事件」を中心に取り上げてみたい。

 自民党を中心にした日本の戦後政治史のなかで、田中角栄という政治家の存在は非常に特異な位置を占めてきた。それは田中内閣の時代は勿論であるが、それに続く大平、鈴木、中曽根内閣を通じて、それらの内閣が田中の政治力の強い影響下にあった。そのことから、『田中支配』と呼ばれており、その影響力の大きさは初代の吉田内閣に匹敵するほど大きいものと考えられる。

 『田中支配』は、勿論、自民党内の最大派閥である『田中派』を拠点として行なわれたものであるが、『田中派』が分裂して作られた竹下登の『創政会』も、政治手法は田中角栄のそれを殆んど踏襲している。
 そのため、広義の『田中支配』は、田中の死後まで続き、数十年にわたり日本の政界を支配してきた。
 その意味で『田中支配』は、大げさに言えば日本の政治文化の一面を象徴するものといえる

 日本の国民は、汚職などの政治的腐敗に対しては、通常は非常に厳しい潔癖性を示す。そのため、一度、その容疑者になり逮捕されると、政治の世界では殆んど生きていけなくなるのが普通である。
 ところが『田中支配』においては、田中はロッキード事件で有罪の判決を受けたにも拘らず、その後も公然とその支配力を維持することができた。それは考えて見るとフシギな支配力であった。
 その『田中支配』のフシギな支配力とは、一体何なのか? そして前首相の田中を逮捕、有罪にしたロッキード事件とは何であったのか?をここでは考えてみたい。

●「田中支配」の始まり
 1960年代初頭に始まった池田内閣以来の高度成長政策は、70年代に入って大きな転換期を迎えていた。それは1971年8月15日のニクソン大統領による、アメリカの通貨ドルの金への交換停止措置の発表がきっかけになった。
 このニクソン・ショックにより、日本の70年代は大不況で開幕した。この大不況下の72年7月に成立した田中角栄政権は、「内需拡大政策」として「新全総」(1967.4)をベースにした「日本列島改造論」(1972.6)を、第1の目玉に掲げた。

 「列島改造論」の中心的な構想は、「新ネットワーク」と称する、高速道路、新幹線、航空機、データ通信網という新しい技術と大規模プロジェクトを組み込んだ、全国的なネットワークにより日本列島を結ぼうという壮大な計画である。
 この計画が田中内閣の中心的な政策として採用されたことから、もはや成長の期待が失われたと思われていた日本経済は、一転して「列島改造ブーム」という史上空前の大好況に転換した。

 しかしその前の佐藤内閣は、その末期に郵便、医療、交通、電報、その他家計を直撃する料金の一斉値上げを決めていた。これらの値上げに、さらに第4次中東戦争(昭和48-49:73.10-74.1)による石油価格の暴騰が加わり、物価は「狂乱」と言われる高騰を示した。そのため史上空前の好況から、一転して深刻な不況に突入することになった

 昭和47(1972)年7月5日、田中角栄の政権が誕生したとき、この官僚出身ではない首相の出現を、日本国民は足軽から天下人になった豊臣秀吉の姿に重ね合わせて、『今太閤』とよび歓迎した。
 しかしその国民の声も、間もなく一転して『怨嗟の声』に変わった。
 そして田中内閣発足時の72年8月に60%を超えた史上最高の内閣支持率は、2年後には12%(朝日新聞)まで急落した。
 国民は、2年有余の田中政権において、日本経済における一瞬の天国とその後の狂乱的な地獄を、一挙に経験させられた。

 そのため田中内閣に対する倒閣運動は、昭和49(1974)年7月の参議院選挙において自民党が敗北を喫したころから、政権の内部において始まった。
 それは、田中内閣の副総理であった三木武夫と蔵相の福田赳夫が閣僚を辞任して、反田中の倒閣運動の陣頭に立つことにより始まった
 さらに文芸春秋11月号には、立花隆による『田中角栄研究 −その金脈と人脈』が発表されて、社会に大きな衝撃が走った。早速、その内容は外人記者クラブで取り上げられ、田中首相は外人記者の質問攻めにあい、この頃から、所謂「田中金脈」が一挙に社会問題化してきた

 このため昭和49(1974)年11月26日に、田中首相は退陣を余儀なくされ、12月9日には田中に代わり、反田中を標榜する三木内閣が成立した。
 さらに2年後の昭和51(1976)年2月4日には、突然、アメリカ上院の外交委員会(チャーチ委員会)でロッキード社の社長・コーチャンにより、1971-1975年に日本の政府高官に巨額の贈収賄が行なわれたとする衝撃的な証言が伝えられた。いわゆる「ロッキード事件」の開幕である。

 この事件は、日本の政界に核爆発に匹敵する大きな衝撃を与えた。そのために昭和51年7月、田中前首相がなんと外為法の違反容疑で逮捕されるまでに発展した。
 それから7年にわたる長い「ロッキード裁判」をへて、昭和58(1983)年10月12日、田中角栄前首相には東京地裁岡田裁判長から、外為法違反と収賄罪により懲役4年、追徴金5億円という実刑判決が下された。この地裁の判決は国民に大きな衝撃を与え、それによる国民の政治不信は頂点に達した。

 この昭和47年7月の田中内閣の成立から、昭和58(1983)年10月の田中前首相の有罪判決にいたる11年間、日本国民は殆んど正常な思考力を失うほどの政治的、社会的大混乱を経験した。
 しかも驚くべき事は、その間も政治の世界では「田中支配」が、三木、福田内閣の時代を除いて、大平、鈴木、中曽根内閣と引き継がれたことにある。
 しかし田中前首相は、昭和60年2月27日に脳梗塞で倒れ、6月には砂防会館の田中事務所は閉鎖された。これにより狭義の『田中支配』は崩壊した。

 それにも拘らず昭和60年以降、田中的政治手法は竹下、橋本、小渕内閣などに引き継がれ、平成にいたるまでその影響力を及ぼした。そこには「田中角栄」という政治家個人を越えた旧田中派による広義の「田中支配」が続いてきていた。
 それは一体、何なのであろうか?





 
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