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彷徨える国と人々
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  (4)三島の祖国防衛とは?

●三島事件が起こった1970年は国際テロ活動の始まりの年になった!
 その年の春の3月31日、日本赤軍の9人のメンバーが全日空の「よど号」をハイジャックして平壌へ向う事件が起こった。これは日本赤軍が世界革命へ運動を展開する口火を切るものとなり、70年代を通じて日本赤軍により、世界的なテロ活動が展開される始まりとなった。

 日本赤軍を含む国際的テロ活動は、70年代を通じて次のように頻発している。

72年5月30日 日本人ゲリラ3人、テル・アビブ国際空港襲撃
74年1月31日 4人の日本人を含むゲリラ、シンガポール・シェル石油基地を攻撃
74年8月30日 東アジア反日武装戦線「狼」、三菱重工本社を爆破
74年9月13日 日本人ゲリラ3人、ハーグのフランス大使館占拠
75年8月4日 日本赤軍、クアラルンプールのアメリカ大使館占拠
77年9月28日 日本赤軍、パリ発東京行き日航機をハイジャックする

 この最初の「よど号」事件の頃には、日本人に北朝鮮の事情は殆んど分かっていなかった。当時、韓国には李承晩政権、朴正煕政権と圧政が続いていたが、北朝鮮は金日正政権の下で安定した社会主義的発展が行なわれていると一般的には思われていた。
 そこで、よど号をハイジャックした日本赤軍のメンバーは、その安定した?北朝鮮に渡り、国際共産主義の旗揚げをして、再び、ニホン革命のために帰ってこようと思っていたようである。

 このとき、北朝鮮の金日成は、彼らの処置に非常に困惑したと思われる。なぜならば、60-70年代にかけて金日成政権は、韓国、日本で特殊工作員による間接侵略活動を広く展開しており、そのことが日本赤軍を通じて世に出ることをおそれたと思われる。
 そしてよど号メンバーを日本に返さず、彼らを逆に利用して拉致工作を推進し,第2次朝鮮戦争への準備を進めていた。
 それが本格的な軍事戦争に繋がらなかったのは、60年代後半から70年代初頭にかけての中国が、文化大革命とその破綻の中で、朝鮮戦争の頃の国際情勢とは全く異なる状況になっており、さらにソ連との間では国境問題で関係が悪化して、逆にアメリカとは関係改善が進行するというという、朝鮮戦争当時とは全く異なる状況に変わっていたことによると考えられる。

 このような中で、北朝鮮は韓国や日本に対する直接的な軍事侵略行動に踏み切ることは出来ず、特に日本は1960年代の後半から、戦前の水準を越える経済的繁栄を実現する事に成功していた。
 64年10月には東京オリンピックが開催され、更に70年には大阪で世界万国博覧会が開催され、日本経済は世界市場に向って発展を始めていた。
 このような段階の1970年11月25日に、ノーベル文学賞の受賞が取りざたされていた世界的な有名作家・三島由紀夫による割腹自殺事件がおこったわけである。
 これは日本人の通常の理解を超えた、青天の霹靂のような驚愕的な事件であった。
  
●事件前の重要な2論文 ―「武士道と軍国主義」と「正規軍と不正規軍」
 事件の少し前の8月13日、山本氏は三島からノートの1頁を引き裂いた異様な手紙を受け取った。そこにはB4版24枚からなる「武士道と軍国主義」、「正規軍と不正規軍」という2篇の論文が同封されていた。
 その前月に、三島は保利官房長官から防衛に関する意見を求められていた。この2論文はそのために執筆された三島の建白書であり、佐藤総理大臣と官房長官が目を通した後、閣僚会議に提出されるはずであった。
 しかしそれは実際には公表されなかった。山本氏は、当時の中曽根康弘・防衛庁長官が閣僚会議に提出することを阻止したと推測している。

 ▲武士道と軍国主義
 この2論文は共に短いものであるが、当時の三島の考え方を簡潔に伝えている。
 まず「武士道と軍国主義」の内容は、要約すると次のようなものである。
 
 現代の戦争はその中心を「核」においているものの、その核戦力の周辺に「限定戦争」をいう形態を伴なっている、と三島は指摘する。
 この限定戦争は、大国の代理戦争として行なわれる場合が多く、自由主義諸国が正規軍を派遣するのに対して、共産圏は不正規軍によるゲリラ戦を戦うかたちをとる。この場合、ゲリラ戦の利点はヒューマニズムをフルに活用できることにあり、そのために国論は2分されることになる。

 それは日本でも同じであるが、日本は天皇という民族精神の統一、団結心の象徴をもっている。ところが日本はこのような利点を利用せず、新憲法下においてヒューマニズム以上の国家理念をもたないようにしてきた。
 ヒューマニズムや人命以上に尊いものがあるという理念を国家の中にもたなければ国家たりえない、と三島は考える。
 その理念が天皇である。日本にごく自然な形で団結心を生じさせる時の天皇と、人命の尊重以上の価値としての天皇の伝統という2つの側面をもちながら、それをタブー視して日本は戦後体制をつくってきた。

 次に国防問題であるが、我々は物量的戦略体制にとらわれすぎてきた。我々は自分で防衛手段を持たなければならないが、非核3原則をとる現政府下では、核に対する核的防御手段は制限されている。
 つまり我々は、核が無ければ国を守れないにも拘らず、核をもてないという永遠の論理の悪循環の中にある。この悪循環から逃れるためには、自主防衛を完全に放棄して国連の防衛理念に頼るしかない。
 
 しかしそこにどうしても自主防衛の問題がでてくる。つまりベトナム戦争の失敗以降、アメリカの孤立主義の復活はアジア人をしてアジア人と戦わせ、アメリカ人の血を流す事を避ける方向へ向っている。
 そこで問題になるのが、日本の防衛体制には魂が欠落していることである。そこで在来兵器の戦略上の価値を復活させる必要が出てくる。ここに三島の武士道や剣に対する再評価がでてくる。

 三島によると、武士道とは自己尊重、自己犠牲、自己責任が結びついたものであり、特に自己犠牲こそが武士道の特徴である。つまり身を殺して仁をなすことである。しかし戦後の自衛隊には、自己尊敬の観念も生まれなかったし、自己犠牲については教えられる事すらなかった。それは人命第一主義が幅をきかしたためである。

 日本の軍国主義は、外国から学んだものであり、日本本来のものではなかった。
 そこで三島は、武士道を復活させるにより日本の魂を正すことが、日本の防衛問題の最も基本的な問題であると述べている。

 ▲正規軍と不正規軍
 次に第2の論文について見る。日本では明治以降、不正規軍、不正規戦の研究をまるでしてこなかった。その理由は、日本軍部の成り立ちが不正規軍=反乱軍を鎮圧するための鎮台から始まったことにある、と三島は指摘する。それは徴兵制度の成立により、その上に成立する正規軍を唯一つの国軍としたことにある。

 この日本軍は、日支事変で八路軍という不正規軍にぶつかり、アメリカのベトナム戦争と同じようなひどい目にあった。そして対不正規戦の戦略が展開できないまま、ずるずると大東亜戦争に引きずりこまれていった。

 戦後の自衛隊でも旧軍人の正規軍思想だけが残り、国民との間は断たれ、正規軍思想と不正規軍思想は完全に分離した。
 ところがそこで鉄パイプや棍棒、投石用の石、レンガ、そして火炎ビンといった原始的な武器で武装した全学連の不正規軍が出現して、困惑させられることになった。
 現在の自衛隊は、対ゲリラ戦、遊撃戦、ことに都市戦略については、全く幼稚園以下の水準にあり問題にならない、と三島は書いている。

 この認識は、自衛隊の将官であった山本氏も全く同一であり、それが山本氏を三島の「祖国防衛隊」構想を結びつけたといえる。しかしこの不正規軍の思想、技術、戦略が、祖国防衛隊や楯の会で研究され、現実化されていったか?というと全くその形跡がない。そこに三島と山本両氏の悲劇があったと私は考える。






 
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