6.日本赤軍の事件
昭和44(1969)年11月、山梨県大菩薩峠で軍事訓練を展開しようとしていた赤軍派は、大量検挙によって潰滅状態に陥った。
この勢力が衰えた赤軍派を、海外の軍事的反体制勢力と提携して組織を再建するため、重信房子と奥平剛士は昭和46(1971)年2月、偽装結婚してパレスチナ入りした。そしてPFLP(パレスチナ解放人民戦線)の庇護、支援の下で、海外赤軍派をつくった。海外赤軍派は、当初、アラブ赤軍、赤軍派アラブ委員会といっていたが、74年以降、日本赤軍を名乗るようになった。
1972年春、日本では連合赤軍の大量リンチ殺人事件が明るみに出て、極左武装集団に対する国民の支持は完全に失われた。そしてその頃、北朝鮮では金日成が、日本からハイジャックにより入国してきた赤軍派客人たちの利用法を考えていた。
●テルアビブ空港襲撃事件
このような状況のもと、海外赤軍派が起死回生の思いで引き起こした事件が、テルアビブ空港襲撃事件である、と私には思われる。その結果は、世界中に大きな衝撃を与え、いろいろな意味においてこの事件は、70年代以降の反体制テロ活動の端緒となる画期になったといえる。 まず事件の経過を簡単に述べる。
昭和47(1972)年5月30日、海外赤軍派の奥平剛士、安田安之、岡本公三らが、イスラエル・テルアビブのロッド国際空港(=現在のベン・グリオン国際空港)の旅客ターミナルを自動小銃、手投げ弾などで襲撃して、死者24人を含む100人以上を殺傷した。奥平と安田はそこで射殺され、岡本は逮捕された
このテロ事件は、いろいろな意味で世界中に大きな衝撃を与えて、日本赤軍の名を世界中に広める事になった。
その大きな衝撃の理由の一つは、イスラエルとパレスチナの紛争に、全く利害関係を持たないはずの日本の極左組織が、命を掛けて参加した理由が分からないことである。
彼らは宗教的にイスラム教を信奉しているわけでもないし、命をかけるほどの利益があるわけでもない。従がって、イスラエルの空港に日本赤軍と称する組織が命がけの攻撃をする理由は、西洋人は勿論、中東の人々にも理解できなかった。
現在、中東のゲリラで一般的に行なわれるようになった「自爆テロ」という形式の第1号が、この事件である。それはさらに、日本の「特攻隊」に原型があると私は思う。
しかし何故、日本赤軍は、自分たちの命を犠牲にしてイスラエル空港を攻撃したのか? そしてそれに輪を掛けて理解できなかったことは、日本政府がこの襲撃事件に遺憾の意を表明して、犠牲者に100万ドルの賠償金を支払ったことである。
このことは、国際的な理解からいえば、日本国が意識的に超過激派を海外に輸出したことを、国家自身が認識していることを表明したことになる。
(そのことは、ハワイ大学の教授・パトリシア・スタイホフの著書「日本赤軍派」(河出書房新社、1991)の中の「日本人の責任意識」に詳述されている。)
誰もその責任を指摘していないにも拘らず、日本政府は超過激派を海外に輸出した国の責任を、世界中に表明した。
これは通常の国の政府にとっては理解不能のことであり、そのことが世界中の人々を驚かせた。
そこで「偉大なる金日成首相」は、早速、北朝鮮に来ている日本赤軍のメンバーに、このフシギな中東の日本赤軍を自国に取り込む事を指示した。
●海外の日本赤軍とその事件
国内の日本赤軍は、連合赤軍事件により壊滅し、1970年代の前半以降、赤軍派の勢力は急速に衰えていくが、海外においては、70-80年代にかけて日本赤軍によるテロ活動はかなり活発化する。その主要なものを図表-3にあげる。
図表-3 日本赤軍などによる海外での主要なテロ活動
年月 |
事件名 |
事件の主体 |
事件の概要 |
72.5.30 |
テルアビブ空港襲撃事件 |
まだ日本赤軍と名乗っていない |
日本赤軍の奥平剛士、安田安之、岡本公三らが、イスラエルのテルアビブの空港を自動小銃と手榴弾で攻撃、民間人100名以上を殺傷し、岡本公三は逮捕され、残りの2名は自決した事件。このときには、未だ日本赤軍を名乗っていなかった。 |
73.7.20 |
日航機ハイジャック・ドバイ空港に着陸 |
PFLP |
丸岡修と4人のPFLPのメンバーが、パリ発・東京行きの日航機をハイジャック。ドバイ、ダマスカスを経由してリビアのベンガジ空港へ向う。ベンガジ空港で乗員・乗客141人を解放後、機体を爆破して投降した。 |
74.1.31 |
シンガポール シェル石油襲撃事件 |
日本赤軍とPFLP |
日本赤軍の和光晴生、山田義昭とパレスチナ・ゲリラ2名が、シンガポールのシェル石油の製油所を爆破。乗員を人質にフェリー・ボートを奪取。 |
74.2.6 |
クウェート日本大使館占拠事件 |
PFLP |
PFLPのゲリラ5人がクウェートの日本大使館を占拠。大使ら16人と引き換えに和光らシンガポールのゲリラを移送させて、合流。のちアデンで投降。 |
74.9.13 |
ハーグ事件 |
日本赤軍 |
日本赤軍の西川純、奥平純三、和光晴生の3人が、オランダ・ハーグにあるフランス、アメリカの大使館を占拠して拘束されたメンバーの解放を要求。フランスは、超法規的措置として逮捕していたメンバーを釈放した。 |
75.8.4 |
クアラルンプール アメリカ大使館占拠事件 |
日本赤軍 |
マレーシアの首都クアラルンプールのアメリカ、スウェーデンの大使館を占拠し、アメリカ総領事を人質にとり、赤軍派などの釈放を要求。日本政府は超法規的措置として日本赤軍
西川純、戸平和夫、赤軍派 坂東国男、松田久、東アジア反日武装戦線 佐々木規夫を釈放。赤軍派の坂口弘は釈放を拒否。 |
77.9.28 |
日航機ハイジャック、ダッカ事件 |
日本赤軍 |
日航機がインド・ボンベイ空港を離陸後にハイジャックされ、バングラデシュのダッカ空港に強制着陸。超法規的措置と日本赤軍・奥平順三、東アジア反日武装戦線・大道寺あや子と浴田由紀子、赤軍派・城崎勉、獄中組合・泉水博、仁平映を釈放。600万ドルの身代金を支払う。 |
86.5.14 |
ジャカルタ事件 |
日本赤軍? |
アメリカ大使館にロケット弾が発射され、発射元のホテルから城崎勉の指紋が検出された。 |
86.11.15 |
三井物産支店長誘拐事件 |
フィリピン共産党・新人民軍 |
三井物産支店長がフィリピン共産党の新人民軍に誘拐され、身代金を要求された。1991年に犯人たちは逮捕されたが、そのとき日本赤軍の協力があったことを供述。 |
87.6.9 |
ローマ事件 |
日本赤軍 |
ベネチアサミットの開催中、ローマのアメリカ、イギリス大使館にロケット弾が発射され、カナダ大使館で車が爆破され、「反帝国主義国際旅団」の名で声明が出された。イタリア公安当局は、日本赤軍の奥平純三の犯行と発表した。 |
88.4 |
ナポリ事件 |
不明 |
イタリア・ナポリのナイトクラブ前に駐車していた車が爆破され、民間人、アメリカ兵など5名が死亡した。日本赤軍はこの犯行を否定している。 |
●黄昏の「新左翼」
1960年安保反対の国民運動の中から誕生してきた「新左翼」は、70年代の内ゲバと連合赤軍事件により国民の支持を失った。
さらに70-80年代に繰り広げられた海外の日本赤軍の事件は、独善的な「世界革命」の視野に立っていたことから国民的支持を得る事は難しく、80年代を通じて「新左翼」の運動は根無し草のような状態に落ち込んでいった。
このような左翼勢力の後退は、80-90年代におけるソ連を中心にした社会主義体制の崩壊により、さらに決定的なものになった。そしてそれに代わって、西欧、アメリカ、日本などにおいて、新保守主義への歩みが加速していった。
日本では、1960年以降、新右翼、新左翼の流れは時と共に衰退して、保守中道の自民党系の政治勢力のみが、激動する世界の中を生き延びる結果になった。それは明治政府が、自由民権を弾圧し、最後に大逆事件により反政府運動に止めを刺したが、勝ち残った政府側も明治末年には国家破産の状態に突入していたのに似ている。
そこでは政治家、官僚たちの腐敗・堕落が目を蔽うばかりに広がり、戦後に作られてきた教育、福祉をはじめとする社会的システムは、すべて劣化・崩壊の危機にさらされるようになった。
さらに国家財政にいたっては、政府の誤った国家政策の結果、国民1人あたりの負債が1千万円に達し、1945年の敗戦時よりも悪い状態に落ち込んだ。それは、最早、自力再建は不可能といえる状態にある。
戦後、作り上げられた議会制民主主義は完全に形骸化して、日本中で支持政党をもたない人々が最大多数を占める状態になってしまった。このような状況で、左右の政治勢力が衰退したことは、国民の将来に対する政治的期待や展望を全く失わせる閉塞的な状況になってきている。
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