3.安保条約の改定反対と新左翼
(1)60-70年・安保条約の改定と反対運動
●60年安保とは
昭和32(1957)年2月25日に成立した岸政権の最大の課題は、アメリカの占領下で作られた日米関係を、独立国としての新しい日米関係に転換することであった。
その観点から、昭和26(1951)年9月の講和会議の際に吉田茂政権によって締結された、日本にとってきわめて片務的な日米安保条約を、日米対等の国際条約に改定することが、岸政権にとっての最大の目玉政策であった。
吉田自由党と鳩山民主党が保守合同を実現して現在の自民党が誕生したのは、昭和30(1955)年11月15日のことである。最初の自民党の首相は鳩山、石橋と続いたが、共に病気もちであり、その間の自民党・幹事長であった岸信介が首相として本格的に表舞台に登場したのは、その2年後のことであった。
岸信介は、太平洋戦争の開戦時の東条内閣において商工大臣をつとめた、戦前の日本を代表する政治家である。
岸の経歴は、戦前の商工省出身の所謂「新官僚」として、日本の植民地であった満州国の建国・経営に携わり、東条英機などと並んで同じく満州で名をあげた「2キ3スケ」(*)の1人に挙げられたほどの有名人であった。
この人物が戦後の保守本流に返り咲いたわけであるから、戦争責任が厳しく追求されてきた西欧などにおいては考えられない政治的復活である。
*「2キ」とは、東条英機(満州事変後の関東軍憲兵司令官、のちに開戦時の内閣
総理大臣となる)と星野直樹(内閣書記官長)のこと。
「3スケ」とは、松岡洋右(近衛内閣の外務大臣)、鮎川義介(満州重工業など
を通じて軍部と提携して満州開発を主導した実業家)そして岸信介(満州国・
実務部次長)を指し、日本の大陸政策を代表した中心的人物のことである。
この岸政権が、吉田政権によって占領下の時代に、アメリカの利益に大きく比重をかけて作られた日米関係を、独立国として対等の日米関係に移行させようと考えるのは、至極当然のことであった。
その岸政権の最大の目玉は、昭和35(1960)年に改定が予定されている新安保条約の締結であった。ところが意外なことに、日本国民はこの日米関係の対等化を狙った新安保条約の実現に対して、史上に類を見ないほどの抵抗と反発を示した。
その理由は、ひとつはアメリカと対等の軍事的関係を締結することにより、アメリカによるアジア戦争に巻き込まれることを怖れたことであり、いまひとつは戦前派の岸政権により戦後民主主義が解体されることを恐れたことにある。
これが日本全土に繰り広げられた反安保、反岸の国民運動であり、それが60年安保反対運動の本質であった。
この国民運動は、学生運動の参加により先鋭化し、昭和35(1960)年6月15日に2万人が参加した国会デモにおいては、遂にデモ隊が国会に突入して東大生・樺美智子さんが死亡するという事件に発展した。
この際の機動隊による過剰警備に反発した人々は、その翌日には、女子学生の死を悼む5万人のデモとして国会をとりまいた。
このような国民的な反対運動の高まりにもかかわらず、6月18日には、33万人の労働者、学生、市民が国会を取り巻く中、岸政権による新安保条約は自然成立した。そして、この安保反対運動の挫折が、日本の新しい歴史の出発点になった。
●戦後の現代史は60年安保から始まった!
60年安保の国民運動の高揚とその挫折は、それから40年にわたる日本の現代政治史の出発点になった。それはこの国民運動の中心になって戦後民主主義を守るために戦った世代が、昭和20年代に生まれた戦後世代であることからくる。
そしてその主体になった人々は、今や60歳台の老齢にさしかかっており、これから始まる時代は、戦後世代にとっては「未来史」になるわけであり、その意味では戦後世代の現代史は今終わろうとしている。
現在の日本の安倍政権は、図らずも岸信介の孫にあたる政権であり、その政治的発言は、岸信介が40年前に言ったことに果てしなく類似している。
その意味から、今、我々は新しい時代の始まりにいると思われる。
昭和35(1960)年7月15日、岸政権に代わって政権の座についた池田首相は、「所得倍増」、「寛容と忍耐」を政策の冒頭に掲げた。今から考えると、この2番目の政策である「寛容と忍耐」の意味が極めて分りにくい。
池田は、日本の「高度成長政策の創始者」として高い評価を得ている宰相である。そこに加えられた「寛容と忍耐」とはフシギな言葉である。
実は、池田は政治面では本来、岸に負けないタカ派の政治家であった。しかし岸政権に対する国民的反感を考えると、政治的には「寛容と忍耐」で臨み、経済中心の政策に重点を移そうとした政策として考えると、この言葉の意味は良く分かってくる。
つまり60年安保の国民運動の大きな成果は、岸政権が政治的に実現しようとした政策が40年間もの長い間、休眠せざるを得なくなったことにある。
それは岸の孫である安倍政権により、ようやく今に至って国民の前に現われ始めたといえる。
その一方で、60年安保の国民運動は、現代につながる日本の右翼と左翼の政治的運動に大きな影響を齎した。
つまり「新右翼」、「新左翼」は安保反対の運動を通じて誕生してきたものである。
右翼の運動は、本来、1人1派の政治運動であり、大きな流れは掴みにくい。
しかし前回、このwebでとりあげた三島由紀夫の「楯の会」は、まさに60年安保の国民運動の中から誕生した新右翼の典型的な運動のひとつであり、それは自衛隊にも大きな影響を齎した。
三島由紀夫は、60年安保の丁度10年後の70年安保が不発に終わり、そのために「楯の会」の出番が失われたことから自死の道を選んだ。
しかし一方の左翼の運動も、60年安保の成立=挫折から70年安保までの間に、組織は4分5裂して、その内部抗争が激化し、新左翼の運動は国民の支持を失って自滅への道を歩んだ。
そこで、あせった新左翼の一部は、さらに先鋭化して武装闘争にのめりこんでいった。武装闘争は社会革命の条件となるものであるが、高度経済成長下にあった1970-80年代の日本社会に、社会革命の条件が存在するわけはなかった。
新左翼の政治運動における自滅化の危機意識が武装化を生み出し、それがさらに新左翼運動の衰退を決定的なものにした。
その悲劇的な展開が、日本赤軍と連合赤軍の事件である。「日本赤軍」は、武装革命の条件のない日本を脱出して世界革命を目指した。そして「連合赤軍」は、国内の山岳に「革命」の拠点を求めて彷徨った上、「総括」と称して仲間を次々に粛清するという悲劇的な過程をへて自滅することになった。
●肩すかしをくった70年安保闘争
昭和45(1970)年1月14日に、第3次佐藤内閣が成立した。そこで中曽根防衛庁長官は、1957年以降の「国防の基本方針」として、「外部侵略には日米安保体制を基調として対処する」方策をとり、「自主防衛」中心にする事を明らかにした。
この自主防衛を基調にした国防計画は、70年に原案が完成し、72年から実施する4次防の柱になった。つまり70年安保の重点は、60年安保における日米の軍事協力関係の実現から、より国民的理解が得やすい日本の自主防衛に大きく切り替えられた。
しかし3次防では5年間に2兆3千億円であった予算規模は、4次防では一挙に倍増して5兆5千億円になった。そして従来の陸上兵力を中心にしていたものから、海上自衛隊の強化が重点とされ、さらに航空自衛隊の強化に重点を移していくとされた。
このことにより陸海空の3軍の軍事力が強化され、独立国家として必要な軍事力が装備され始めたことになる。
当時、アメリカのニクソン政権は、泥沼化するベトナム戦争からいかにして名誉ある撤退をするかに腐心していた。そのため日本の軍事力が強化されてアメリカの軍事的負担が軽減されることは、ニクソン政権の大いに歓迎するところでもあった。
1970年は、日米安保の見直しの年である。ここで日本の軍事力強化をアメリカに提案して、日米安保条約はそのまま自動延長にすることは、日米の双方にとって非常に好ましいことであった。
そこで佐藤内閣は6月22日、日米安保条約の「自動延長」を決めた。60年安保の時、岸信介の実弟である佐藤栄作には、10年前の安保条約成立の日に孤独な兄に寄り添っていた記憶が、なまなましく思い出されたと思う。
そのため佐藤首相は、70年安保の改定の際、ふたたび反安保の騒動が起こることを極度に恐れた。さらに安保を取り巻く状況自体も、この10年で大きく変わっていた。
69年末の選挙において、社会党、共産党、新左翼は安保条約延長反対、廃棄を主張しており、安保問題、沖縄問題がこの選挙の重要な争点になった。しかし69年には沖縄は既に本土復帰を果たし、さらに70年安保条約は自動延長となった。そのため「1970年安保」を政治決戦と考えてきた社会党、共産党、新左翼系は、完全に「肩すかし」をくうことになった。
さらに、社会党は69年末の選挙で惨敗し、江田委員長のもとで党の再建を迫られており、共産党も東京、京都で自民党を大きく引き離し、解散時の議席の3.5倍である14議席になったものの、国政レベルではもはや対決の場を失い、知事選に舞台が移っていた。
このような段階で、70年安保の運動は、もはや国民的運動として盛り上がる基盤がすべて奪われていた。そのため過激な学生運動も、国民的な支持もなければ、自衛隊による治安出動の必要もなく、警察力だけで十分であった。
そのことが三島由紀夫の1970年11月25日の事件になったことは、実はきわめて象徴的なことであった。
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