9.佐藤政権の沖縄返還と日米軍事同盟の変貌
(1)佐藤政権は何故「沖縄返還」に取組んだのか?
1964(昭和39)年11月に成立した佐藤政権は、それまで経済政策に重点をおいてきた池田政権の路線から、政治(=外交)に政策の重点を移した。
総裁選挙への出馬声明を述べた「明日へのたたかい」において、前の池田政権が「所得倍増計画」による経済政策を中心にしたことから、「経済力と共にわが国の国際的地位は上がったが、真に自主性のある外交は展開されなかった」と批判している。
その意味において「池田の時代」が終わった、とその声明は述べる。
その佐藤政権が命運をかけて取組んだ政治(=外交)課題の目玉は、当時、誰もが難しいと考えた「沖縄返還」であった。
そして結果的には、68年4月に小笠原諸島の返還の調印をし、さらに72(昭和47)年5月には沖縄の「核抜き、本土並み返還」を実現した。
その翌月の72年6月には、佐藤首相は退陣を表明しており、まさに2797日という内閣制度史上の最長日数を記録した佐藤政権が、その命運をかけた大仕事こそ沖縄の「核ぬき返還」であった。
この佐藤首相による「核ぬき、本土なみ沖縄返還」を含めて、日本国が核兵器を「作らない」、「持たない」、「持ち込ませない」といういわゆる「非核3原則」の提唱は、日本の国際政治にも大きな影響を齎した。
そのことから74年10月に、佐藤栄作氏はノーベル平和賞を受賞する栄誉に輝いた。
日本の戦後政治を見ると、経済指向の政権と政治指向の政権の2系列がある。その観点からすると、佐藤政権は1957年の岸政権に始まり、2007年現在の安部政権に繋がる典型的な政治指向政権の中心に位置している。
佐藤政権が目指した日本の「非核3原則」と「核ぬき、本土なみ沖縄返還」は、まさに日本の首相に類例のない「ノーベル平和賞」に値する大きな功績であった。
しかしその一方で、その後にいろいろな「密約」の存在が明らかになってきた。そこには現代に残る虚像の部分もまた大きい。
それらの「密約」の多くは、今では多くの文献により明らかであり、アメリカの外交文書では既に情報開示されているものも少なくない。
日本の政府や外務省は今なおこれらの「密約」の存在を認めてはいないが、国民の多くはそのような取り決めがあっても、あまりフシギはないと感じているのも確かである。
そこで、ここでは佐藤政権による沖縄返還の粗筋と、いままでに明らかにされてきた「密約」の概要から述べる。
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