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彷徨える国と人々
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  (5)三島は何故死ななければならなかったのか?

 では一体、三島は何のために死ななければならなかったのか? 自分の目的達成のために、あらゆる手段をつくしてそれを遂行しようとするのが真の武士であろう。
 三島自身、自衛隊で演説したとき、「七生報国」という鉢巻をしていたではないか。武士たるものは、本来、そう簡単に死んではいけないのである。しかし三島は、自分の描いた夢を、『夢』として途中であきらめ、『自死』を選択した。
 それは真の武士道からすれば戦わずして敵から逃げたことになるのではなかろうか?

 三島由紀夫の自死の理由には、いろいろな原因が挙げられている。たとえば、
 (1) 戦後30年、平和ボケで日本の伝統的な武士の精神を忘れていた国民と自衛隊 
    に対する「諌死」である?
 (2) ノーベル賞の受賞が、国際評価が高い三島に決まると思っていたのに、予想に反して
    川端康成にいったことによる「憤死」である?
 (3) 70年安保改定の際、自衛隊と楯の会による憲法改正のクーデターが不発
    に終わたことによる抗議の「憤死」である? 
 (4) 前々から三島が予告していた「永遠の生」を確実にするための『歴史に残る
    大きな死』としての「自死」である? などなど・・・。 

●武士道による死? 
 まず三島が不当に美化して考えている『武士の精神』のようなものが、本当に過去の日本の武士や軍人の中に存在したのであろうか?
 たとえば江戸時代の長い『太平の世』を通じて、そのような武士の精神は本当に伝承されたのであろうか?このWebでも取り上げた江戸時代の最後の戦争である『戊辰戦争』を見ると、そこにはどこに武士道があるかと聞きたくなるほど、武士道とは無縁のひどい戦争であった。
 若干の武士道に準じた例外的な事例があるものの、それをはるかに圧倒する武士道とは全くいいようのないほど無様な事例に溢れている。

 また戦前の軍隊においても、2.26事件をめぐる軍部の内部抗争から噴出してきた。それは武士道とは全く無縁の自己保身を第一とする軍事官僚たちによる無様な抗争であった。さらにそこでの責任転嫁の陰謀が、日中戦争から太平洋戦争に日本を導いたことを考えると、明治以降の日本の軍隊、とくにその上層部に武士道が存在していたとは殆んど考えられない。

 私は戦前の軍部に、個人的に立派なサムライのような軍人がいた事を否定するものではない。しかし体制としての日本軍部の組織やその精神に、『武士道』があったとは到底思えないのである。
 特に、私がこの目で実際に見てきた敗戦時の軍部、特に特権的な高級将校たちの醜態は、武士道とは全く正反対の目に余るひどいものであった。
 三島は、多分そのことを十分に知っていて『武士道』を語ったと私は考える。
 そこに日本ローマン派に属する三島文学の特質がある、と私は思う。このようにいわれる事は、三島にとっては最もいやな事であろうが、三島は決して「武人」ではなく、最後まで最高の「文人」であった、と私は思う

 しかし三島の夢や美学から外れた事が、余りにも多いことに対する怨念や恨みが、「英霊の声」をはじめとする三島作品のいくつかに登場する、怨念の恨み節になったと思われる。
 「英霊の声」などは、2.26事件の磯部主計が霊界から三島の筆を借りて語りかけてくるような、美しくも恐ろしい怨念の恨み節に私には聞こえる。
 それは武士道を貫こうとして、卑怯な闇討ちにあって殺された武士たちの恨み節にも似ている。
 
 つまり江戸時代にも、戦前の軍部にも、そして多分、現在の自衛隊にも、その主流派たちのなかに「武士道」など存在しない、と私は思う。しかもそのことを三島自身は、十分、知っていたと思う。
 しかし三島のローマン派の美学では、美しい日本の武士道の存在をどうしても皆に示したい。それが「日本文化」であるから。それを自分の陽明学的な行動をとおして実証するしかない。しかしそれは余りにも純粋で、余りにも悲しいことであった!

●ノーベル文学賞を受賞していたら?
 三島が昭和43(1968)年にノーベル文学賞を受賞していたら、2年後に自殺することはなかった、とする仮説がある。三島のノーベル賞関連の記事を安藤武の『日録』から拾ってみると、やはり三島は最後までノーベル賞は欲しかった!と私は思う。
 しかも三島は、日本におけるノーベル文学賞の受賞に最もふさわしい作家であった。しかし不幸なことにスウェーデンにおけるノーベル賞の選考委員は、日本文学のことなど全く知らない人々であった。
 それは日夜、ひたすら腕を磨いてきた剣士が、勝負を前にして、ある夜、ピストルで闇討ちされた事件に似ている。

 1965(昭和40)年2月初め 三島は私にはっきりとノーベル賞が欲しいと語り、その上私に助力をも依頼した。私はそのときちょうど『午後の曳航』を訳し終えたばかりだった。ハロルド・ストラウスはニューヨークから三島に私が「たいへんよい仕事」をしてくれたと告げてきた。三島は大喜びだった。電話口でストラウスからの手紙を私に読んで聞かせ、これからお祝いにでようではないかといった。
(以下略)、「ある評伝・三島由紀夫」、(安藤、303頁)

 そして1965(昭和40)年9月25日、毎日新聞夕刊に「三島氏が有力候補に・ノーベル文学賞」という記事が出た。(安藤、310頁) 1967(昭和42)年にも、三島はノーベル賞の有力候補と報道されていた(10月2日、毎日新聞)。
 しかし三島は、この67年4月に自衛隊に体験入隊したとき、山本一佐に「もう書くことは捨てました。ノーベル賞に興味は無い」と語っている。
 ノーベル賞の日本文学に対する審査員の程度はきわめてお粗末であり、三島は左翼の過激思想の作家と思われていたらしい。それに比べて、より穏健な思想と思われる川端康成が、昭和43(1968)年10月17日にノーベル文学賞を受賞した。

 ノーベル賞の発表当日、三島は毎日新聞社でそれを待っていた。午後7時30分、テレックス・ルームから新聞記者が現われ川端の受賞を知った。三島は川端にお祝いの電話を入れ、「長寿の芸術の花を−川端氏の受賞に寄せて」(毎日新聞夕刊)という祝辞を執筆した。その後、鎌倉までの車中、三島は「連中が賞をもう一つ日本によこすのは、少なくとも十年先だろうな」と口惜しそうに語った、という。(安藤,[日録]360頁) 

 この段階で三島は、はっきりノーベル賞との決別を決めていた。この月、そのことを知ったら、ノーベル賞の審査員が目をむくような表題の「吾が友ヒットラー」を三島は書き上げた。
 この頃から三島は、楯の会と自衛隊の仕事にのめりこんでいく。しかしこのとき、三島がノーベル賞を受賞し、海外からの仕事が殺到したら、たしかにその後の三島の行動は大きく変わるものになった、と私は思う。

●昭和44(1969)年10月21日のクーデターが成功していたら?
 昭和44年10月21日の「国際反戦デー」は、その前年同日の騒動を上回るデモや騒動が東京の都心において繰り広げられる事が予想されていた。自衛隊と楯の会には、この日を狙ってクーデターを起こそうという計画があったことを、自衛隊の山本陸相補は、事件から30年たった晩年の著書の中に書いている。

 それによると、夏になってもこの自衛隊側のクーデター計画はまとまらなかった。そのため楯の会側が、自衛隊側の情報などから一つの構想をまとめていたようである。山本氏の著書によると、その内容は前々章で述べたようなものであったといわれる。

 自衛隊側も出動の責任者として山本、H、藤原などの将官も切腹する、という筋書きであったらしい。クーデターに成功したら、三島は死なないのではなく、やはりその最初に壮烈な割腹自殺を遂げることになっていた。

 このクーデター計画の詳細はよく分からない。しかし一寸読んだだけでも、それがいかにも粗雑な計画であり、まず成功するとは思えないのである。もっとも危険なことは、クーデターの出だしにおいて、自衛隊と楯の会が協力するのではなく、互いに相手に依存しながら、ことを起こそうとしていることにある。
 そのような状況から、自衛隊本体がクーデター側に加担して動き始めることは、まず100%期待できない。それは、2.26事件の経過を見ればよく分かることである。

 2.26事件において反乱軍の将校たちは、事を起こせば、真崎大将と荒木大将が調停に乗り出し、彼らの要求を代弁してくれて、クーデター計画は達成されると考えていた。
 しかし実際には,皇統派の将官たちは皆、自己保身にはしり、2.26事件の計画は失敗した。
 今回の防衛庁長官は、中曽根康弘氏である。11月25日の三島事件のあとでも、中曽根長官の事件に対するコメントは、最も悪意に満ちたものであった。

 つまり万が一にクーデターが成功したとしても、中曽根長官では、その後にどのような結末に誘導されるか分かったものではない。
 その点、三島のクーデター計画は信じられないほど甘く天真爛漫である。これでは自衛隊側は、実際には三島の計画に乗れるものではなかったであろう。
 2.26事件の場合と同じで、自衛隊がクーデターに立ち上がったときは、将官や兵士たちの命や運命のすべてが当事者たちにかかってくる。
 その点、三島や楯の会の人々は、壮烈な死をとげるという崇高な「武士の理念?」が先走り、恐ろしく安易である。それは最後の破綻に繋がる恐れが限りなく大きいものであった。
 
●「永遠の生」を確実にする歴史に残る死か?
 三島の生年は大正14年1月14日であるから、昭和の年がそのまま三島の満年齢になる。日本の敗戦は昭和20年で、そのとき三島は満20歳であった。
 戦前において満20歳は徴兵検査をうける年である。三島は昭和20年2月10日に、本籍地である兵庫県富合村の高岡廠舎で入隊検査を受けた。敗戦の半年前のことである。

 検査当日、三島は悪性のカゼをひいており、医師は結核の末期と診断して、即日、検査不合格になり帰郷した。当時、私も三島より8歳若い旧制中学の1年生であり、毎日、本土決戦を前にして、戦車肉弾攻撃という特攻攻撃の演習に明け暮れていた。
 それは上陸してきたM4とかM1と呼ばれる鉄の塊のような米軍の戦車に対して、1人1人、タコ壺と称する穴に隠れていて、戦車の機関砲が働らかなくなる直前の距離に達したとき、穴から飛び出し戦車に爆雷を投げて死ぬ自爆攻撃である。

 私は、12歳であったが、当時の三島の20歳という年齢は、われわれが生き延びうる最大限の歳であると考えていた。三島も徴兵検査に出発する前夜、遺言状をしたため、遺髪、遺爪を残したといわれる。(安藤「日録」、73頁)
 つまり三島は、20歳で死ぬと考えていた。ところが予想に反して、その年に戦争が終わり、生き延びることになってしまった。

 安藤の「日録」が掲載する「引き算の夭折死」(「日録」243頁)という記述がある。それによると、20歳で死を完成できなかった三島は、その後、自分の年齢から20を減算することにより、差し引いた年を生まれ年とすることにした。
 その頂点が35歳であり、差し引かれた年15歳が生まれ年0歳になる。
 「15歳詩集」が1月に生まれた。それから20年の間に、三島の最高傑作「金閣寺」が文学史上に残る作品となり、文学史の中で「生きて」いけると確信した。

 全体として『生き』残るには、この時代に歴史の人間として生きてきた証がなくてはならず、文学だけでは死ねない。その確信のもとに書かれた「鏡子の家」は無残な結果に終わった。
 もし「鏡子の家」が「金閣寺」と同格の評価を得ていたら、「憂国」という作品が切腹の場所に置かれ、20歳(「15歳の詩集」の20年後)の夭折の死が完成されたと思われる。

 その目標の最終点が崩壊したため、「仮面の告白」が出版された昭和24年7月を生まれ年として、その20年後、20歳となる年が昭和45年となり、この年を夭折の死の年にしなければならなかった。それは、三島が歴史に残る大きな死を必要とした「永遠の生」を確実にするためであった、という。

 このフシギ話は、安藤の「日録」に書かれているものである。では11月25日という日は何か?ということになるが、それは吉田松陰の処刑された日という説がある。その真偽のほどは定かではない。

 三島事件が起こる1ヶ月前、三島の戯曲、「薔薇と海賊」の浪漫劇場による再演が行なわれていた。そこには次のようなセリフが出てくる。
    「船の帆は、でも破けちゃった。帆柱は折れちゃったんだ」
    「その帆を縫うのよ。私は女よ。お裁縫はうまいわ。」
    「だめだ。もう帆はもとにもどらないんだ。」
    (中略)
    「僕は一つだけ嘘をついたんだ。王国なんて、なかったんだよ。」
 三島は稽古と初日の2度、このセリフの第二幕の幕切れで涙をさんさんと流した。
                      (安藤武「三島由紀夫「日録」」、406頁)。






 
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