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日本人の思想とこころ
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1.日本の首都はどこへ行く?−東京の改造と遷都問題の行方
2.江戸時代の首都は多機能であった!
3.「愛国思想」―森鴎外風に考えてみる!
4.極刑になった「愛国者たち」―2.26事件の顛末
5.歴史はミステリー(その1) −日本は、いつから「日本」になった?
6.国際主義者たちの愛国 ―「ゾルゲ事件」をめぐる人々
7.歴史はミステリー(その2) −4〜5世紀の倭国王朝

8.歴史はミステリー(その3) −聖徳太子のナゾ
(1)1981年が新日本史の出発点?
(2)聖徳太子とキリスト教のナゾ
(3)聖徳太子による倭国の歴史構成のナゾ
(4)聖徳太子時代の外交のナゾ

9.歴史はミステリー(その4) −福神の誕生
10.歴史はミステリー(その5) −「大化改新」のナゾ
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  8.歴史はミステリー(その3) −聖徳太子のナゾ

(1)1981年が新日本史の出発点?
 聖徳太子は、古代日本の政治、国家、文化、外交の諸制度を作り出した最初の人物である。その太子により始められた仕事の一つに日本で最初の歴史の編纂がある。
 そのために太子は、中国の陰陽五行説に基づく讖緯(しんい)思想(=未来予見の説)を利用された。
 後で詳しく述べるが、讖緯思想には「革命」という考え方がある。それは「天命が改まる」という意味であり、ある期間ごとにおこる。その歴史の超長期の大きな区切りに、「一蔀」(ぼう:1260もしくは1320年)という単位がある。

 この超長期の観点から見ると、日本歴史の第一蔀はBC660年の神武天皇の建国第二蔀は601年の聖徳太子による斑鳩宮の設営を基点とする新政第三蔀は1861(文久元)年になり、7年後の明治維新がそれに当たる
 しかし今ひとつの1蔀=1320年説をとると、1981年が日本歴史の第3蔀の始まりになる
 1980年代後半には日本の政治・経済を上げての狂乱的バブル景気が形成され、1989年にそれが崩壊して、一挙に日本国民は1,000兆円という膨大な資産を失った。
 それ以降に長い深刻な不況を経験してきた現代の我々から見ると、1981年が、これからの日本の千年周期の出発点になるという聖徳太子の予言は、不思議な現実感を感じさせるものでもある。

 聖徳太子は、従来、あまりにも仏教に偏った観点から取り上げられてきた。聖徳太子の時代は、大変な国際化の時代であり、仏教だけではなく原始キリスト教、道教、儒教、ゾロアスター教などいろいろな思想が日本に上陸してきている。
 聖徳太子は、これらの思想の導入と利用については非常に積極的であった。そこでここでは、上述の陰陽五行やキリスト教など、従来の仏教以外の外来思想の観点から聖徳太子のナゾを考えてみたい。

(2)聖徳太子とキリスト教のナゾ
 4世紀末頃から、中国、朝鮮半島を経由してかなり夥しい数の外国人が、倭国に渡来し、住みつくようになった。それとともに大陸の文化、宗教、技術、学問がわが国に到来し、仏教、儒教、道教、キリスト教、ゾロアスター教など、いろいろな宗教文化が、同時にわが国に到来したと思われる。

 これら多様な宗教文化の中で、神道と仏教と儒教は、江戸時代を通じて国家権力の保護の下で政治、学問、文化の中に組み込まれてきた。しかしそれ以外の宗教や文化については、長い歴史の中で切り捨てられてきたと思われる。

 かって松本清張氏により、飛鳥時代に流入したゾロアスター教の追跡が行なわれ、意外に大きな影響を与えていたことが明らかにされた。
 飛鳥時代には、当然、ゾロアスター教と同様に、原始キリスト教も倭国へ流入したと思われるが、その追跡は残念ながら殆ど行なわれていない。

 聖徳太子の生前からの名前である「厩戸王子」や太子伝説のいくつかは、明らかにキリスト教の影響を受けていると思われる。
 しかし日本では古代にキリスト教が渡来した痕跡や史料も、江戸時代を通じてその痕跡が消されてしまい、現在ではそれらの実体が殆ど分らないのが実情である。
 今回は、聖徳太子とその原始キリスト教の関係をまず考えて見たい

●キリスト生誕伝説に類似した聖徳太子の誕生と名前
 「聖徳太子」という通称は、それ自体が尋常ではない。それは多分、太子没後の「太子信仰」の広まりの中から、その徳を慕う人々によって付けられた通り名と思われるが、よく考えてみるとおよそ人間離れした不思議な名前である。
 
 聖徳太子も不思議な名前であるが、太子の生前から使われていたと思われる厩戸皇子(うまやとのみこ)は、さらに不思議な名前である。この名は、日本書紀の推古天皇条の冒頭に、厩戸豊聡耳皇子(ウマヤトノトヨミミノミコ)という名で書かれている。「厩戸」に続く「豊聡耳」は、太子が8人〜10人の人々の願い事などを一度に聞き分けることができたとする、太子の聡明さを示す今ひとつの名前であり、これも生前からの名前であったと思われる。

 聖徳太子は、父を用明天皇、母を穴穂部間人皇女(アナホベノハシヒト)とし、敏達天皇3(574)年甲午に生誕された。両親ともに皇族であり、用明天皇の母はキタシヒメ、間人皇女の母はオアネギミ、共に蘇我稲目の娘であるから、太子は蘇我氏の一族である
 この太子の生前からの名前の一つである厩戸皇子(うまやとのみこ)は、用明天皇の皇妃であるアナホベノハシヒトノヒメミコ妃が宮廷の厩の戸に当たって不意に産気つき、聖徳太子が誕生されたとする伝説からきている。

 この伝説はキリストの誕生伝説と非常に似ており、そのことは、既に戦前の太子研究の第1人者である久米邦武氏により、「上宮太子実録」(明治36年出版)の中で指摘されていた。
 ところが中国へネストリウス派のキリスト教が伝来して景教と呼ばれるようになるのは、太子の逝去より8年後、唐の太宗の貞観9(635)年である。
 その太子の生前の名前が、キリスト伝説を思わせる「厩戸皇子」であったことは、キリスト教が中国へ入る60年も前に太子にその名前が使われたことになり、大きなナゾであるが、従来、これに明快な見解を出した人はいなかった。

 日本にキリスト教が伝来したのは、1549(天文18)年にフランシスコ・ザビエルが来日して布教を始めたときと考えられている。それ以前にネストリウス派の原始キリスト教団が日本で活動していたことについては全く分らない。
 太子伝説には、聖徳太子の名前だけでなく、いくつものキリスト伝説に類似した点がある。そのことから梅原猛氏が1972年に出された有名な法隆寺論の題名を、「隠された十字架」とされたほどである。
 
 その「隠された十字架」の30年後に、景教の研究者のケン・ジョセフ氏が『隠された十字架の国・日本』という著書を出された。この著書には、非常に面白いことがいくつか書かれている。

●聖徳太子以前の景教の伝来
 まず同書によると、『新撰姓氏録』が記す4世紀中葉の仲哀天皇8年に、「弓月の君・巧満」が朝廷を訪問したとき、景教が日本に伝えられた可能性があるとしている。
 また日本書紀によると、応神天皇の14年(=4世紀末頃?)、弓月の君が百済経由で来日したとき、自国の人夫120県を連れてきた。それが新羅に邪魔をされ、加羅にとどまった、と記されている。そこで朝廷は葛城襲津彦を遣わし、弓月の人夫を加羅から召されたという。

 ジョセフ氏によると、シルクロードにおける絹の交易は、ユダヤ人とキリスト教徒によりほぼ独占されていたという。弓月の君とその子孫である秦氏は、その絹の交易に関わっていた。彼らは、その後、倭国に帰化して京都、大阪の周辺に住み、水利事業、機織り、製紙の仕事に従事したとされている。

 しかしこの状況から、聖徳太子とキリスト教を結びつけることは、まだできない。そこには、さらにいくつかの証拠を加える必要がある。
 その第一は、聖徳太子の重要なブレーンの一人であった秦河勝という人物が、弓月の君に繋がる秦氏の人物であり、彼は蘇我・物部戦争以来、太子側近としてつかえた。彼は推古11(603)年に制定された官位12階のうちで、第2位の小徳位に任ぜられたほどである。その秦河勝が原始キリスト教の導入をした中心的人物とされる

 秦河勝の公式の業績は、次のようなものである。
推古11(603)年に、聖徳太子から尊像を拝受して、蜂岡寺(=広隆寺)を創建
推古18(610)年に、外客の来朝に際し、新羅使の接伴役となる
推古31(623)年に、新羅・任那使が貢上した仏像を、秦氏が造立した広隆寺へ安置
皇極3(644)年に、東国の富士川で起こった新興宗教を鎮圧する
                  (出典)今井啓一「秦河勝」13頁
 つまり聖徳太子の片腕となって働いた秦河勝という人物は、宗教と外交にかかわる帰化人の政府高官であったことがわかる。

●平安京と秦氏、そしてキリスト教
 秦氏一族は、飛鳥時代の前から山城の地を本拠としてきた渡来系の民族である。その名前からして中国系の帰化人であり、秦の始皇帝を祖先にしているともいわれている。平安京や長岡京が造営される前、その地域は彼らの勢力下にあった。
 平安京の御所は、秦河勝の所有地であったといわれ、平安京は、秦氏が桓武天皇を誘致して作り上げた都である。

 新撰姓氏録(815)によると秦氏には25氏あり、左京諸蛮5氏、右京諸蛮5氏、山城国諸蛮4氏、大和国諸蛮1氏、摂津国諸蛮2氏、河内国諸蛮6氏、和泉国諸蛮2氏である。平安朝の初期において、京都と大阪のあたりが彼らの拠点であった。

 桓武天皇による平安京への遷都は、794(延暦13)年10月22日辛酉の「革命」の日である。11月8日の詔には次のように書かれている。
 『この国、山河襟帯(きんたい)、自然に城をなす。この形勝によりて、新号を制すべし。よろしく山脊国を山城国となすべし。また子来の民、謳歌の輩、異口同辞し、号して平安京という』。

 この「平安京」という名前は、ケン・ジョセフ氏によると、イスラエルの「エルサレム」と同じ意味だそうである。その「イエル・サレム」は、ヘブライ語で『平安の都』とういう意味であり、平安京には、秦氏のエルサレムへの憧憬の思いが込められているといわれる。(ケン・ジョセフ「前掲書」185頁)

 秦河勝は、平安京が造られる200年前の飛鳥時代の帰化人である。彼は7世紀の始め、聖徳太子により法隆寺が建立されるのと同じ頃、京都の葛野の地に広隆寺(=蜂岡寺)を建立した
 スペインから来日したカトリックの宣教師マリオ・マレガ神父の研究によると、この広隆寺(603着工−622竣工)は、もともと仏教の寺ではなく古代キリスト教の教会であったといわれる。
 この教会は、窓がなく大きな入口が一つあるシンプルな構造で、黒い十字架が一つついていたといわれる。

 江戸後期の儒学者の大田錦城(1765−1825)は、広隆寺を見たとき、これは仏教寺院ではないといった。著書「吾窓漫筆拾遺」の中で、広隆寺は中国の長安にある景教寺院、大秦寺に倣って建立されたものであり、本尊の脇時は景教の神像であると書いている。(ケン・ジョセフ「前掲書」、64頁)

 聖徳太子の「法隆寺」は、「仏法を興隆する寺」として建立された。これに対して、同じ時期に秦河勝により、「広く宗教を興隆する寺」として景教の「広隆寺」が建立されたとすれば、飛鳥時代の国際化を象徴する画期的な出来事であったと思われる。ただし「広隆」は河勝の本名といわれる。
 
 日本書紀には、推古11(603)年11月に、聖徳太子が「我れに尊き仏像あり、将に誰かこの像を得て恭い拝せむ。時に秦造河勝進みて曰く、臣、拝みまつらむ。即ち、仏像を受けて、因りて以って蜂岡寺(=広隆寺)を造る」という記事がある。
 この聖徳太子から与えられた仏像が十字架にかかったキリスト像であれば、この記事は画期的な記事になるが、残念ながらこの尊像が何であったか分らない。

 ただ秦氏が祭った稲荷神社とキリストが非常に関わっているという話がある。江戸時代の学者・松浦静山の「甲子夜話」の中に、群馬県上野村の多胡羊太夫の碑に、和銅4(711)年3月の年号とJNRIという文字、そしてその下に十字架が書かれた古代碑文があった話が書かれているという。
 しかし、この文字は、残念ながら松浦静山にはその意味が読解できなかった。

 ケン・ジョセフ氏によると、JNRIは、ラテン語のJesus Nazarenus、Rex Iudaeorm の頭文字からとったものであり、「ユダヤ人の王ナザレのイエス」の意味の略語であるという。それは、十字架につけられた主イエスの頭上にかかれた言葉である。
 これが和銅4年の石碑に書かれていたことは驚くべきことである。この場合、JNRIは、INRIと書かれることもあるという。稲荷をアルフアベットで書くと、まさにINaRIになる。つまり稲荷は景教のキリストを意味する、ということになる

 平安京には、秦氏により3つの神社が作られた。松尾神社、稲荷神社、大酒神社がそれである。この「稲荷」は、実は、イスラエルの神ヤハウエであり、INRIが稲荷になったというのがケン・ジョセフ氏の見解である。
 このような観点からすると、日本の古代からの神々はアメノミナカヌシ、ヤハタ神をはじめ、キリスト教の影響を受けている神々がたくさんあるらしい。
 それらについてはケン・ジョセフ氏の著書を見て頂きたい。




 
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