(3)聖徳太子による倭国の歴史構成のナゾ
●聖徳太子と陰陽五行思想
聖徳太子は、従来、あまりにも仏教に偏って論じられてきた。そこで前章では、厩戸皇子という名前が原始キリスト教の神キリストにあやかって付けられたことを述べたが、聖徳太子の思想の根幹には、それ以外にも儒教や道教がある。
太子の17条憲法の基本は儒教であり、それが発布された推古14(604)甲子の年は、道教の讖緯(しんい)思想において法律が改定される「革令の年」になる。
そこでここでは儒教・道教を背景にした聖徳太子の讖緯思想について考える。
中国思想は、タテ糸とヨコ糸で織られた布地のように作られている。
この場合のタテ糸をなすものが四書五経(四書とは大学、論語、中庸、孟子。五経とは易経、書経、詩経、礼記、春秋)などの儒教の経典であり、経書(タテ糸をなす書)と呼ばれ、現実的かつ合理主義思想で構成されている。
これに対してヨコ糸をなすものが讖緯思想と呼ばれるものである。
その文書は緯書(ヨコ糸をなす書)と呼ばれ、道教を背景にした神秘的神仙思想や予言の書から構成されている。
倭国への中国思想の伝来は、日本書紀によると応神天皇の16年2月(4世紀末)、百済から博士・王仁が来朝し、応神天皇の皇子ウジノワキイラツコの師となり、いろいろな典籍を教えたことに始まる。
ここで伝来したのは、主としてタテ糸をなす経書の部分であったと思われる。
これは百済から弓月君が来朝して機織りを教えた少し後のことであり、前項でキリスト教が日本に伝来したのと同じ頃の話である。
さらに、6世紀の初頭に讖緯思想の基礎をなす陰陽五行説が伝来した。それは日本書紀によると、継体天皇の7(513)年7月のことである。百済から五経博士の段楊爾が学者人材として献上され、同10年9月に五経博士・漢の高安茂と交代した。
五経には「易経」が含まれていることから、この時点でわが国の朝廷には、正式に易が伝えられたことになる。
欽明朝(539-571)には、百済から新たに五経博士のほかに、易博士、暦博士が来日した。さらに、推古天皇の10(602)年には、百済僧の観勒が暦本をはじめ天文、地理書、遁甲(=忍術の一つ,身を隠す術)・方術(=不老不死の法)書を携えてきて朝廷に献上した。
つまり7世紀のはじめには讖緯思想がわが国に伝えられたと思われる。朝廷では陽胡史やこのふびとの祖玉陳に暦法を、大友村主高聡に天文と遁甲を、山脊臣日立に方術を学ばせ、それぞれの分野の専門家にした。
日本書紀の推古天皇28(620)年12月の条に、この年、皇太子、嶋大臣、共にはかりて、天皇紀、国記をはじめ、いろいろな氏族の本紀を記した、という記事がある。
聖徳太子が蘇我馬子と相談して、わが国の天皇、国、氏族の記録180部をすべて集めて、歴史を編纂する仕事に着手されたと記している。
推古天皇のおくり名である「推古」は、「古を推考する」ことを意味している。このことからも推古天皇と聖徳太子による歴史編纂の作業が、当時、いかに大きな意味を持っていたかが分るといえよう。
それまでの倭国には、紀年を表す方法がなかった。そこでは天皇や氏族の事跡が語られ、記憶してそれをつたえる方法がとられていたものの、その事跡が何時のことであり、中国や朝鮮の歴史のどこに相当するかを知る手段がなかった。
これが6世紀末からの陰陽五行による易学、暦学の導入により、干支を利用した歴史の編纂が可能になった。そして早速、620年に聖徳太子により、従来存在していた国、天皇、氏族の歴史事象を、干支を利用して記述することに利用され始め、この時点で中国の讖緯思想が本格的に導入された。
日本書紀によると、皇極天皇の4(645)年6月、大化の改新により蘇我氏が滅びたとき、その天皇紀、国記の殆どは焼けてしまった。蘇我邸が焼けたとき、船史恵尺が「国記」だけ持ち出して焼失を免れたといわれる。
このときの「国記」の内容が、日本書紀の編纂に利用されており、それらのことから陰陽五行に基づく干支を利用した歴史編纂は、聖徳太子に始まると思われている。
日本書紀では、その編纂に陰陽五行にもとづく干支が全面的に利用された。また古事記の序文でも「二氣の正しさきに乗り、五行の序(ついで)を斎ととのへ」という言葉がある。ここで「二氣」とは陰陽、「五行の序」は、五行による秩序のことを示しており、古事記においても陰陽五行説に基づく歴史編纂が行なわれたことが分る。
ところが日本書紀と古事記の干支の利用方法に食い違いがあり、天皇の没年をつき合わせてみると両者は必ずしも一致していない。
●陰陽五行説とは
陰陽五行説を簡単に説明すると、まずこの世界は「陰陽」の二氣と「木火土金水」の五行により、その秩序が形成されると考えることから始まる。
そして基本的には、二氣と五要素が組み合わされて、時間、空間、色彩、感覚など、すべてに対応した世界が形成される。
たとえば、五行が方位、色彩に配当されると図表-1のようになる。
図表-1 五行の配当
五行 |
木 |
火 |
土 |
金 |
水 |
五方 |
東 |
南 |
中央 |
西 |
北 |
五色 |
青 |
赤 |
黄 |
白 |
黒 |
五行思想では、世の中のすべてが五行の要素により説明されるだけでなく、五要素の間の関係が図表-2のような相互関係でとらえられる。
図表-2 五行要素の相互関係
相生の関係 |
相剋の関係 |
木が火を生む(木生火) |
水が火を消す(水剋火) |
火が灰を生む(木生土) |
火が金を溶かす(火剋金) |
土が金を生む(土生金) |
金が木を傷つける(金剋木) |
金が水を生む(金生水) |
木が土に根を張る(木剋土) |
水が木を生む(水生木) |
土は水をせき止める(土剋水) |
五要素の関係が、「相生」である場合は、自然な良い関係であるが、「相剋」の関係にあると、お互いが相手を侵しあうことになり、悪い関係になる。
世の中のいろいろな現象の吉凶を、この五要素の相生・相剋の関係から考えるのが、五行思想の基本的な見方になる。
さらに、陰陽と五行を組み合わせると、十干ができあがる。つまり陰陽を兄弟とし、五行を組み合わせてみると、図表-3になる。
図表-3 十干
五行/陰陽 |
兄(え) |
弟(と) |
木(き) |
甲 きのえ |
乙 きのと |
火(ひ) |
丙 ひのえ |
丁 ひのと |
土(つち) |
戊 つちのえ |
己 つちのと |
金(か) |
庚 かのえ |
辛 かのと |
水(みず) |
壬 みずのえ |
癸 みずのと |
十干の読み方は、例えば、「甲」は、「き」と「え」の組み合わせで「きのえ」、「乙」は、「き」と「と」の組み合わせで「きのと」となる。
さらに、月を数えるための序数であった十二支(子、丑、寅、卯、辰、巳、午、羊、申、酉、戌、亥)を五行と組み合わせると図表-4ができる。
図表-4 五行と12支の組み合わせ
子 |
丑 |
寅 |
卯 |
辰 |
巳 |
午 |
未 |
申 |
酉 |
戌 |
亥 |
水 |
土 |
木 |
木 |
土 |
火 |
火 |
土 |
金 |
金 |
土 |
水 |
北 |
|
|
東 |
|
|
南 |
|
|
西 |
|
|
0時 |
2時 |
4時 |
6時 |
8時 |
10時 |
12時 |
14時 |
16時 |
18時 |
20時 |
24時 |
また十干と十二支を組み合わせると図表-5ができる。
図表-5 十干・十二支の組み合わせ
甲子 |
乙丑 |
丙寅 |
丁卯 |
戊辰 |
己巳 |
庚午 |
辛羊 |
壬申 |
癸酉 |
甲戌 |
乙亥 |
丙子 |
丁丑 |
戊寅 |
己卯 |
庚辰 |
辛巳 |
壬午 |
癸未 |
甲申 |
乙酉 |
丙戌 |
丁亥 |
戊子 |
己丑 |
庚寅 |
辛卯 |
壬辰 |
癸巳 |
甲午 |
乙未 |
丙申 |
丁酉 |
戊戌 |
己亥 |
庚子 |
辛丑 |
壬寅 |
癸卯 |
甲辰 |
乙巳 |
丙午 |
丁未 |
戊申 |
己酉 |
庚戌 |
辛亥 |
壬子 |
癸丑 |
甲寅 |
乙卯 |
丙辰 |
丁巳 |
戊午 |
己未 |
庚申 |
辛酉 |
壬戌 |
癸亥 |
十干・十二支の組み合わせにより、図表-5のような60年で一回りする紀年が出来上がる。この60年の組み合わせを1回廻って元の干支に戻ることを「還暦」という。後述する易緯の鄭玄の注において「六甲は一元をなす」というのは図表-5のことである。つまり十干を6回廻ることが「一元」であり、60年がその単位となる。
このように方位や時間を対応させることにより、陰陽五行の体系が出来上がった。
この陰陽五行の体系を紀年の割付に利用して、倭国ではじめての歴史編纂が聖徳太子により行なわれた。その直接的な史料はないものの、特に日本書紀には聖徳太子による日本歴史構成の痕跡が多く残されている。
●聖徳太子の歴史紀年は、元始「甲寅」から始まった!
中国において干支は、最初は日を表示するために使われたが、その後、紀年法にも使われるようになった。
現在、我々は干支を「甲子」から始めるのが普通であるが、中国の古代には「甲寅」を歳月の元始としていたようであり、秦の始皇帝の元年は「甲寅」とされた。(安居香山「中国神秘思想の日本への展開」11頁)
まず「易姓革命」について説明する。中国思想では帝王は、「天命」に従って国を統治している。しかし、時にその天命が改まることがあり、これを「革命」という。
天命が失われた帝王は、その時点でその地位を天に返上することになる。この革命は、ある干支の時間間隔で起こる可能性があるとするのが、「易姓革命」の考え方である。
経書では天子や家来の道を説いているが、緯書ではある時間がたつと「残賊の人」が現れ、天命が改まる時期がくると考える。そういう意味では、「革命」は一つの自然法則である。その「易姓革命」について、「易緯」では、次のように書いている。
辛酉は革命をなし、甲子は革令をなす。(重修緯書集成 巻1下(易下)134頁)
これに対して、後漢の学者である鄭玄が次のような注をつけている。
天道は還らず。三五にして反る。六甲は一元をなす。四六・二六は交こもごも相い乗じ、七元に三反あり。三七相い乗じて、二十一元を一蔀となす。合して一千三百二十年なり。(原漢文、読み下し:荒木)
経書と違って緯書の多くは、このような不思議な文章で書かれている。そこでは全体的にナゾのような言葉が連続している。何故そうなのか、ということは書かれていない。そのことが緯書の神秘性をさらに増しているともいえる。話の展開上、上文の必要なところだけを取り出して説明する。
まず干支の辛酉の年に革命(=天命が改まる)があり、甲子の年に革令(=法律の改定)がある、というのが本文である。そして鄭玄の注は、その周期を記している。
まず「六甲は一元をなす」ということは、十干・十二支を図表-5のように組み合わせると60年になり、これを「一元」という。
「二十一元を一蔀となす」ということは、60年×21=1260年を「一蔀」ということである。
ところが鄭玄は、これを1320年としている。この年数を単なる違算とする説と、1320年を一蔀とするという説に分かれる。
聖徳太子は、601年の辛酉から1260年遡ったBC660年の辛酉を、神武天皇の即位の紀元元年に設定された。
●わが国の大変革命の基点は律令制の開始か?
平安時代のはじめの昌泰3(900)年10月21日に、文章博士・三善清行が有名な「革命勘文」と呼ばれる上申書を朝廷に提出した。
この上申書に基づき、翌901年の辛酉7月15日には、それまでの「昌泰」という年号が「延喜」に改元された。
これが日本において「易姓革命」による改元が行なわれた最初の出来事とされている。
三善清行という人は、提言の好きな人であったらしい。同じ学者出身の政治家であった菅原道真が宇多天皇の恩顧を受けて、右大臣という異例の高い地位についたとき、三善清行は道真に右大臣職を辞するように提言している。
道真はそれに耳を貸さなかったが、天皇が醍醐天皇に代わった途端に左大臣・藤原時平により太宰権師に左遷され、配所で亡くなるという悲劇的な結果になった。
この道真が太宰府に左遷された年が、三善清行が「革命勘文」の上申を行った年である。この勘文の「勘」とは「考える」という意味であり、この辛酉の年が、本当に革命の年かどうかを考えて、ここでは改元の必要を奏上するという趣旨である。
さてこの「革命勘文」の冒頭において、三善は901年の辛酉が「大変革命の年に当たる」と述べている。聖徳太子の計算では、一蔀を1260年としていたが、鄭玄の注では、それが1320年になっている。その60年違う根拠は明らかではないが、三善清行はこの1320年という数字を採用した。
三善清行によると、神武紀元から1320年後の辛酉の年、つまり日本歴史の第二蔀の首は、斎明天皇の7(661)年辛酉に当たる。この年は、大化改新を遂行した中大兄皇子が天智天皇になり、律令による新政の開始の年である。
それに鄭玄がいう「四六を乗した年」、つまり240年を足すと901年となる。これが、三善清行が考えた「大変革命の年」である。
三善清行は、「革命勘文」の中で易姓革命の所以や計算根拠を示すとともに、去年の秋、彗星や老人星が見えたという天変の兆候を示している。
例えば彗星の出現は、古代の中国では「国滅び、死者多からん」という警告と見られていた。また老人星の出現は全く逆で、清行の言葉を借りれば、「聖王長寿、万民安和」の瑞兆であった。ここから清行は、「古きを除き、新しきを布く」ための改元の必要を提言した。
これらの天変の兆候をもとに過去の改元の事例を述べ、醍醐天皇に上申を行なったわけである。その結果、901年辛酉7月15日に改元が行なわれ、年号は「昌泰」から「延喜」に変わった。
これが日本において易姓革命により改元が行なわれた最初の事例といわれる。
このように三善清行による「革命勘文」により、辛酉改元がはじめて行なわれた。しかし緯書では辛酉「革命」のほかに、甲子が易緯では「革令」、詩緯では「革政」の年としており、今ひとつの改元の年である。
そこで応和4(964)年には、同じく「革令勘文」により甲子改元が行なわれた。以後、日本の歴史では、この先例にのっとりいくつかの改元が行なわれた。
三善清行の「革命勘文」では、鄭玄の注を忠実に適用して、一蔀に1320年を採用している。そこで超長期の日本歴史の区切りを見ると、第一蔀はBC660年の神武天皇の紀元元年、第二蔀は661年の天智天皇による律令政治の開始、さらに、第三蔀は1981年から始まる。
この1981年という年はどのような年か、思い出してみよう。1970年代の末葉、田中内閣の列島改造ブームが石油ショックとロッキード汚職で崩壊し、日本経済は大不況に突入し、内閣は三木、福田、大平と次々に変わった。
その中でわが国の財政は危機的状態を迎えていたが、大平内閣の一般消費税導入の失敗により、さらに全く先行きが見えなくなってしまった。
そして1980年5月、大平内閣は不信任され、6月には大平首相が急死する事態になった。
その政治・経済の危機的状況の中で、7月17日、鈴木内閣が発足し、鈴木首相は「行財政改革に政治生命をかける」と発言した。そして中曽根康弘氏が行政改革庁長官となり、さらに、土光敏夫氏が第2臨調の会長となって、新しい政府の体制が出発したのが1980年である。
ところが1980年代の後半、中曽根内閣は1985年のプラザ合意以降、急激に進み始めた「超円高」を、株価と土地価格の高騰による「バブル景気」という投機的な政治・経済政策に誘導した。
この「バブル」(=泡沫)の経済は1989年末で崩壊し、日本国民は1000兆円という巨額の損失を蒙った。
考えてみると、ここで発生した巨額の損失は、その後の脱不況対策のための巨額の政府支出や国家の借金の増大により、2005年時点で約1400兆円という日本国の負債となって残っている。この1400兆円という負債額は、日本国民が現在、保有している金融資産の総額に等しく、いま日本の国民経済は債務超過の入口に立っている。
その意味から、日本歴史の第三蔀が1981年から始まるとする歴史の段階区分は、これからの超長期の日本の未来を示す、不気味で恐ろしいものを感じるのである!
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