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日本人の思想とこころ
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1.日本の首都はどこへ行く?−東京の改造と遷都問題の行方
2.江戸時代の首都は多機能であった!

3.「愛国思想」―森鴎外風に考えてみる!
(1)「愛国無罪」のメッセージ
(2)処刑された「愛国者」―津下(つげ)四郎左衛門
(3)「愛国」の無責任な変貌―「尊王攘夷」は、突然、「倒幕開国」に変わった!
(4)昭和の「四郎左衛門」―永田鉄山刺殺事件

4.極刑になった「愛国者たち」―2.26事件の顛末
5.歴史はミステリー(その1) −日本は、いつから「日本」になった?
6.国際主義者たちの愛国 ―「ゾルゲ事件」をめぐる人々
7.歴史はミステリー(その2) −4〜5世紀の倭国王朝
8.歴史はミステリー(その3) −聖徳太子のナゾ
9.歴史はミステリー(その4) −福神の誕生
10.歴史はミステリー(その5) −「大化改新」のナゾ
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  3.「愛国思想」―森鴎外風に考えてみる!

(1)「愛国無罪」のメッセージ
 2005年4月に入って、突然、中国で反日デモが激化し始めた。今年は太平洋戦争が終結して丁度60年の節目になるので、この年に次の時代へ向けての新しい国際的な動きが始まるのは、当然のことかもしれない。

 中国デモのスローガンは、「愛国無罪」であった。中国でも日本でも、「愛国」という言葉や概念が現れてきたのは比較的新しい時代のことである。この言葉は、大体、国の内外において危機的な状況が生まれた時に登場してくるのが普通である。この言葉が出てくると、国際関係が突然、きな臭くなることが少なくない。
 そして、この言葉が最近では、アメリカ、中国、朝鮮、日本などで世界中到るところで一斉に登場し始めたように見える。

 「愛国」思想は、通常の社会的規範を超えたものである。そのため「愛国無罪」とは、「愛国」のためなら、通常は「犯罪」となることでも、この呪文をとなえただけで「無罪」になる、という意味である。
 通常の社会的常識では、怨みをもっていても、憎い人を殺すことは許されない。しかし「愛国」のためなら、怨みも憎しみもない人を殺すことまで許される。
 さらには、場合によって殺人者が、「愛国者」として賞賛されることさえある。

 今回の中国の場合、「愛国」のためなら日本の領事館や商店の壁や邸内を汚しガラスを割っても、それらは「愛国」の行為であるから無罪になる、というのが「愛国無罪」の論理であった。

 しかし破壊行為を行うことが「愛国」なのか?と聞いたら、デモ参加者の中にも「そうだ!」という人はいないであろう。その誰にも許されない行為が「愛国」という呪文とともに、美しい、賞賛されるべき行為のように思えてくるところに「愛国思想」の危険性がある。今回はそのテーマを取り上げてみたい。

(2)処刑された「愛国者」―津下(つげ)四郎左衛門
 津下四郎左衛門という名前を知っている人はあまりないであろう。
 この人物は、幕末に開国論を唱えた開明的な政治家の横井小楠を暗殺した維新の志士である。ところが小楠を暗殺した時期が若干遅れていて、すでに幕末ではなく明治2年になっていたことが、四郎左衛門の不幸であった。
 勤皇・佐幕の殺戮が日常的に繰り返されていた幕末であれば、この暗殺は攘夷思想の愛国的行為として四郎左衛門は罪を問われることもなかったであろう。

 ところが時代は明治になり、政府の政策の攘夷は一転して開国に変わっていた。そのため津下四郎左衛門は、明治新政府の法律で罰せられ、翌3年に斬首の刑になった。
 史書を見ても、横井小楠の暗殺の記事はあるものの、その犯人が津下四郎左衛門であると書いた本はない。この津下四郎左衛門の名前を後世に残したのは森鴎外である
 四郎左衛門の子の正高という人は、どうしても父の刑死に納得できなかった。そこで父の事跡を詳細に調べ、それを鴎外に話したことが「作品」になった、と鴎外は書いている。

 鴎外はこの作品の中で「愛国心」について何も語っていないが、実はそれを深刻に考えさせる内容になっている。現在では、津下四郎左衛門はもちろんのこと、横井小楠についても知らない人が多いと思うので、まずその2人の人物について簡単に述べる。

●横井小楠とは?
 横井小楠の名は、平四郎、そのため鴎外の作品では横井平四郎となっている。1809(文化6)年に肥後藩士の子として生まれ、31歳のときに江戸へ出て幕府の正統派儒学の学校であった林家の門に入った。

 江戸では幕府・諸藩の偉才と交わり、特に尊王の水戸学派の志士・藤田東湖と親交があった。1840(天保11)年に帰藩して、正統派儒学にこだわらない実学派の私塾を開いた。1851(嘉永4)年に大阪へ出て、さらに九州、山陽から名古屋、北陸などの各地を回り多数の有識者と交流して帰国した。

 1858(安政5)年に福井藩主・松平春嶽公に招かれ、福井藩の賓客となり藩の指南役になった。幕末に活躍した松平春嶽公の建白の多くは、小楠の建言によるものといわれる。要するに幕府の立場にありながら、尊王の志も厚い幕末期日本における優れた知識人であった。

 その横井小楠の思想の内容は、まず政治・経済の改革の第一を幕府の体制の確立にあるとして、参勤交代制度の改革、専売制度の採用、紙幣の発行、商社の設立を説き、海外への開港貿易により国富の増進を図るべきであるとした。
 彼の思想は、その後、明治の由利公正に継承されている。

 初期の彼の思想は「尊王攘夷」であったが、1854(安政元)年の日米和親条約の締結以降は「公武合体・開国」に変化した。国内政策では列藩・君主で力をあわせて公武合体を実現し、外交政策では開国して「広く万国に通商し、更に又商社を結び互いに相影響を為す」ために「西洋にてはロシア、イギリス、フランス、メキシコ、オランダの5国、漢土にては天津、定海、広東の3港に日本商館を設け建つべし」(松平春嶽公への建言)と開港貿易を主張した。

 また幕府への1862(文久2)年の建言では、「止相対交易、為官交易」、つまり商人による相対貿易をやめ、幕府もしくは藩政府による外国貿易を行うことを主張していた。(本庄栄治郎「日本経済思想史研究」)
 山本七平「江戸時代の先覚者たち」では、横井小楠を「幕末のケインズ」と高く評価しており、いかに彼がその時代に先んじた開明的な思想を持っていたかが分る。

 そこで明治政府は1868(明治元)年4月に、徴士・参与(=明治維新当初の議事官)として新政府の創業に参画させようとした。彼の死後の1870(明治3)年に、明治政府は正三位を贈位したほどであり、横井小楠がいかに新政府にとって必要な人材であり、暗殺されては困る重要人物であったかがわかる。
 つまり、明治政府がかくも重要とした人物を、純粋に攘夷を信じた、まじめ一途の勤皇派の津下四郎左衛門は、明治2年に暗殺してしまったのである

●津下四郎左衛門(つげしろざえもん)とは?
 津下氏は代々備前(=岡山藩)国上道郡浮田村の里正であった。四郎左衛門は、外国船が日本の近海を脅かし始めた1849(嘉永2)年にその家に生まれた。四郎左衛門は横井小楠よりは40歳若く、横井小楠を暗殺した明治2年には四郎左衛門が21歳、一方の横井小楠が61歳であった。

 つまり愛国的?攘夷思想に凝り固まった若い四郎左衛門が、開国・通商を主張して既に老境にある横井小楠を暗殺したわけである。これだけでみても、一途に小楠を国賊と思い込んだ愛国青年・四郎左衛門の姿が浮かぶ。
 問題は、その明治2年には明治新政府は既に「攘夷」を放棄し、「開国」に転換していたことにある。

 四郎左衛門が16歳のとき、その子・正高が生まれた。この子が四郎左衛門の事跡を調べあげて、鴎外にその次第を語った人物である。
 慶応3年の冬、徳川慶喜は朝廷に大政を奉還し、時代は大きく動きつつあった。当時、岡山藩の家老に伊木若狭という尊王家がいた。翌明治元年正月にこの伊木が備中備前鎮撫総督に任ぜられたとき、岡山藩は勇戦隊という部隊を編成して、士分のものから有志者を募った
 四郎左衛門は早速応募したが、里正という低い身分のため採用されなかった。
 ところが勇ましい勇戦隊の出発を見た四郎左衛門は一途に入隊したく、隊を追いかけて途中で伊木に頼み込んでようやく入隊が許された。
 その後、岡山藩には義戦隊という第2部隊が編成され、その隊の参謀の上田立夫と四郎左衛門は仲良くなった。そして2人は一緒になるといつも、尊王攘夷を論じて悲憤慷慨していたといわれる。それは後で述べる昭和の青年将校たちと瓜二つである。

 ある日、2人は相談して脱藩し京へ上った。君側の奸を見つけたら直ちにこれを殺戮しようというわけである。それは幕末の勤皇浪人たちの典型的行動パターンである。
 明治元年3月、そこへ熊本から横井小楠が徴士となって上京して、制度局の判事を経て、参与にまで進んだ。
 そこで2人は、この横井小楠に目をつけ、6人の同志をつのり、明治2年1月5日の午後、太政官を退出してくる横井小楠の駕籠を襲撃して小楠の首を取った。

 当時の市中の評判は横井小楠を襲撃した攘夷派の志士に同情的であり、むしろ横井の罪を責める傾向を示していた。しかし四郎左衛門は捕えられて裁判にかけられ、1870(明治3)年10月10日に斬罪に処せられた。この状況も、後に語る2.26事件の青年将校たちに対する反響に極めて似ている。

 このとき四郎左衛門の子・正高はまだ5歳であった。正高は、幼時から刑死した父の無念を晴らしたいという考えにとりつかれ、東京大学までいったが学問に専念できず中退するほど思いつめていた。

 彼は考えた。父・四郎左衛門は人を殺した。その殺された人が悪人であるならば、まだこの殺人は許される? しかしその人は悪人ではなかった。
 それなら父は善人を殺したのか? 父は、当時、自分で悪人と認めた人を殺した。そして当時の世間一般は、その人を「悪人」と認めていた。つまり、父は当時の悪人を殺した。それなのに、何故、父は刑死しなければならなかったのか?

 四郎左衛門の子・正高は、父の無実を晴らすべくその事跡を調べ、それが鴎外の作品になった。




 
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