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日本人の思想とこころ
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1.日本の首都はどこへ行く?−東京の改造と遷都問題の行方
2.江戸時代の首都は多機能であった!
3.「愛国思想」―森鴎外風に考えてみる!

4.極刑になった「愛国者たち」―2.26事件の顛末
(1)「2.26事件」とは
(2)2.26事件裁判の異常性
(3)「愛国者」の極刑―それは怨みを残した!

5.歴史はミステリー(その1) −日本は、いつから「日本」になった?
6.国際主義者たちの愛国 ―「ゾルゲ事件」をめぐる人々
7.歴史はミステリー(その2) −4〜5世紀の倭国王朝
8.歴史はミステリー(その3) −聖徳太子のナゾ
9.歴史はミステリー(その4) −福神の誕生
10.歴史はミステリー(その5) −「大化改新」のナゾ
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  4.極刑になった「愛国者たち」―2.26事件の顛末

(1)「2.26事件」とは
 中日戦争が始まる前年の1936(昭和11)年2月26日、陸軍の青年将校が軍隊を率いて「昭和維新」を叫び、政府要人の多数を殺害する衝撃的な事件が発生した。
 この日、東京は明け方から大雪であった。その中を早朝、陸軍歩兵第一連隊の2中隊400名、歩兵第三連隊の5中隊500名、近衛歩兵第三連隊30名、野戦重砲兵第7連隊10名の兵士たちが皇道派の青年将校たちに指揮されて、陸軍大臣官邸、陸軍省、参謀本部、警備司令部、警視庁等を襲撃・占領して、政府要人を殺傷した。

 襲撃された人々は次のようになる。
   総理大臣 岡田啓介海軍大将(難をのがれる)
   内大臣  斉藤実海軍大将(殺害)
   大蔵大臣 高橋是清(殺害)
   侍従長  鈴木貫太郎海軍大将(重傷)
   前内大臣 牧野伸顕(難をのがれる)
   教育総監 渡辺錠太郎陸軍大将(殺害)

 川島陸相に示した青年将校の決起趣意書によると、「いわゆる元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党」が、私心我欲をほしいままにして万民を苦しめており、「至尊絶対」の尊厳を冒す「不逞兇悪の徒」であること、そしてこれらの「奸臣軍賊」を倒すことが、天皇の「股肱」たる自分たちの任務である、と書かれていた。

 襲撃された重臣たちは天皇を取り巻く「奸臣軍賊」であり、決起した青年将校たちの心情においては、この武力決起こそ「尊王倒奸」の愛国的行為であった。しかし肝心の昭和天皇自身はそのように思わなかったところに、この事件の悲劇性がある。

★事件の推移
●第1日(2月26日)―事件の発生
 5時40分、就寝中の天皇は甘露寺侍従に起され、事件の第一報を知らされた。青年将校たちは、「君側の奸」を倒せば天皇の「御親政」が実現できると考えていたが、天皇自身の考えは初日から完全に食い違っていた

 天皇は、日ごろ頼りにしている側近の重臣たちをすべて奪われことに「動転して虚脱状態」になり、侍従生活20数年のベテランで肝の据わった甘露寺が、「陛下、ご試練でございますぞ!」と叱咤して立ち直られた」(秦郁彦「昭和史の謎を追う(上)」60頁)という。また、天皇の幼時からの御養育係・鈴木夫人が参内して、市中で起こっている事件の惨状を訴えたことにより(同上書)、天皇は初日から決起軍に対して全く同情的ではなかった

 つまり2.26事件の悲劇は、その事件の前提として、天皇と青年将校たちの間における日本社会への現状認識が全く違っていたことにある。天皇は側近の重臣たちが襲撃されたことに非常な衝撃を受け、本庄侍従武官長を20-30分ごとにお召しになり、速やかな事件の終息と情報の伝達を指示された。(「本庄日記」)

 ちなみに本庄侍従武官長の女婿は、反乱軍になった歩兵第1連隊で青年将校に同情的な立場をとった山口一太郎大尉である。叛乱は山口大尉が週番勤務の日を狙って起こされていた。本庄侍従武官長に対する2.26事件の報告も、山口大尉を通じて早朝の5時頃に齎されていた。
 さらに、本庄大将自身も青年将校たちに対して心情としては同情的な立場をとっていた。その意味では侍従武官長としては、昭和天皇に対し微妙な関係にあったと思われる。

 陸軍軍事参事官たちは宮中の1室に集まり、皇軍の相撃をさけるため、行動部隊の将校の説得工作を相談した。一方、官邸第一応接室で青年将校らと対座した川島陸相は、決起軍が「賊軍」か「義軍」かも決めかねていた。肝心の陸軍大臣は、まるで「魂の抜けた人間」(「真崎手記」)に見えたといわれる。

 陸軍刑法第2編第1章「叛乱の罪」第25条では、「党を結び兵器を執り叛乱を為したる者は・・処断す」(原文はカナ)とあり、首謀者は死刑の大罪である。
 しかし決起部隊の青年将校たちは、演習と称して兵営を出発しており、少なくとも初日の兵隊たちは上官の命令に従った行為であった。しかし将校たちの行動は初日から陸軍刑法に明らかに抵触しており、統帥権を侵した死刑に相当するものであった。

 ところが陸軍軍事参事官たちは、この日、戒厳司令部を通じて「諸子が決起の趣旨は、天聴に達せられたり。諸子の真意は国体顕現の至情に出ずるものと認む。・・」と、明らかに決起部隊の行為を容認するような文書を下達していた。

 この文書の表現は、決起軍が蜂起した趣旨は天皇にも伝わっており、決起軍の愛国の至情はよく分ったと述べており、後は軍の首脳部にまかせておけ!という明らかに決起部隊に同情的な立場をとっている。

 この日、決起軍は、皇統派の真崎大将を後継の首班にする工作を行なったが、天皇の意向とは真っ向から食い違ったため失敗に終わった。

●第2日(27日)
 午前3時半,東京市全域に戒厳令が発令された。そして決起軍は戒厳部隊に編入された。内閣は総辞職を決定したが、後継内閣成立まで政務を見ることが決まった。決起軍に同情的な秩父宮が上京し、天皇は戒厳司令部に決起部隊の武装解除を命令した

 朝、決起軍の村中孝次が、陸軍省、参謀本部の開放と所属部隊への引揚げを提議したが、容れられず首相官邸,新議事堂付近へ部隊を集結させることが決まった。
 戒厳司令部は、統帥権干犯は明らかであるものの、その精神は君国の思いに出たものとして、説得し、鎮定につとめていた。

 一方、天皇は、「朕が股肱の老臣を殺戮す、かくのごとき凶暴の将校等、その精神において何の許すべものありや」、「朕が最も信頼せる老臣をことごとく倒すは、真綿にて朕が首を絞むるに等しき行為なり」と激怒し、更には「朕自ら近衛師団を率い、これが鎮圧に当たらん」といわれた。(「本庄日記」)
 この日、陸軍軍事参事官たちと天皇の見解が大きく食い違うことが明白になった。

●第3日(28日)
 この日に事態は大きく変わる。午前5時8分、戒厳司令部では杉山参謀次長から戒厳司令官の香椎中将に「奉勅命令」が手交された。
 「命令」には、「戒厳司令官は三宅坂付近を占拠しつつある将校以下を以て速やかに、現姿勢を徹し、各所属部隊長の隷下に復帰せしむべし。奉勅 参謀総長 載仁親王」と記されていた。

 この奉勅命令により、決起部隊は「叛乱軍」となり、討伐の対象となったが、奉勅命令は決起部隊の暴発を恐れて結局、青年将校たちには伝達されなかった。しかしそのうわさは決起部隊にも伝わり、決起軍の将校の態度も一変して原隊復帰を拒否した。
 そこで杉山参謀次長が参内し、武力行使の断行を奏上しようとしたが、戒厳司令部がしばらく見合わせるよう指示し、原隊への復帰の説得工作を開始した。
 陸相と山下少将が決起部隊の将校が自刃して罪を謝するので勅使を賜りたい、と天皇に伝奏すると、「自殺するなら勝手になすべし」と叱責された。(「本庄日記」)

●第4日(29日)
 早朝5時半、戒厳司令部は戒厳区域内の一切の交通を遮断。6時半、勅命に抗した「叛乱部隊」として、武力鎮圧の旨を発表。装甲自動車、飛行機でもって、「反軍下士兵卒」に対して「下士官兵に告ぐ」という有名な勧告文を投下した
 午前9時、戒厳司令部の発表によれば、「永田町付近に占拠せる矯激なる一部青年将校は、奉勅命令の下りしにもかかわらず、それに服従せず、遂に反徒となり終わった」とした。田村町の飛行会館には「勅命下る、軍旗に手向かうな」というアドバルーンが揚げられた。

 決起部隊に対する軍当局の呼び名は、事件後、毎日変わっていった。第1日目は「出動部隊」、第2日目は「決起部隊」、「占拠部隊」、第3日目は「騒擾部隊」、そして第4日目、決起部隊は、明確に「叛乱部隊」と規定されることになった

 実際には奉勅命令は、決起部隊には伝達されていなかった。しかしこの日の午後3時頃、叛乱部隊は帰順して投降。最後に山王ホテルの安藤部隊のみ残った。安藤大尉は自殺をはかるが未遂に終わる。この日、野中四郎大尉が自決。さらに3月6日、河野寿大尉が自決した。




 
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