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日本人の思想とこころ
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1.日本の首都はどこへ行く?−東京の改造と遷都問題の行方
2.江戸時代の首都は多機能であった!
3.「愛国思想」―森鴎外風に考えてみる!
4.極刑になった「愛国者たち」―2.26事件の顛末
5.歴史はミステリー(その1) −日本は、いつから「日本」になった?

6.国際主義者たちの愛国 ―「ゾルゲ事件」をめぐる人々
(1)ゾルゲ事件を考える
(2)「ゾルゲ事件」とは?
(3)リヒャルト・ゾルゲ −ドイツ・ソ連の2重スパイ?
(4)ゾルゲ事件の経過
(5)尾崎秀実(ほずみ)

7.歴史はミステリー(その2) −4〜5世紀の倭国王朝
8.歴史はミステリー(その3) −聖徳太子のナゾ
9.歴史はミステリー(その4) −福神の誕生
10.歴史はミステリー(その5) −「大化改新」のナゾ
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  6.国際主義者たちの愛国 ―「ゾルゲ事件」をめぐる人々

(1)ゾルゲ事件を考える
 ゾルゲ事件が新聞に発表されたのは、第2次大戦において南太平洋で日本軍の戦勝が続いていた1942(昭和17)年5月16日であった。
 そのときゾルゲの写真が新聞に出ていたかどうかの記憶は定かではない。しかし、古いどこかの時点で見たゾルゲの顔写真はよく覚えている。
 ゾルゲは「国際諜報団の首領」にふさわしく、鋭い目に、縦しわの隈取が入った恐ろしい鬼のようであった。当時、まだ9歳であった私は、そのおどろおどろした顔と「ゾルゲ」という名に怯えた。

 山本七平氏によれば、幕末の志士たちが口にする「天下国家」の「国家」とは「藩」のことであった。そして今でも日本人の多くは、「世界」といっても「日本」を中心にした世界しか考えられない。つまり日本が「世界」なのである。
 アメリカにいたっては、現在でもブッシュ大統領を先頭にして、国を挙げて「アメリカ」こそが「世界」と考えているようである。

 今考えて見ると、ゾルゲ事件に登場する人々は、すべて「国家」を超えた「インターナショナル」な生き方をしており、個別国家を中心に生きている人々のいわば対極に生きる人々であった。それが彼らの悲劇を生み出した

 「愛国」を論じる場合、個々の国家の利益は、多数の他国家の利益とは背反する場合が少なくない。そこで個別国家の利益を超えて遠大な世界利益を考えて行動した場合には、その人々の行為が『売国行為』に見られることが少なくない。
 そのためインターナショナルな人々の運命は、悲劇的な結果に終わる事が多い

 ゾルゲ事件に登場する人々、例えば、ゾルゲ、尾崎秀実、アグネス・スメドレーなどをみていると、どうもそのような気がする。

(2)「ゾルゲ事件」とは?
 最近、篠田正浩監督による映画にもなり、その事件の概要は知られていると思うが、一応、簡単に述べる。太平洋戦争の開戦前夜の1941(昭和16)年10月18日、当時の盟邦ドイツの駐日大使館において、オットー大使の片腕として活躍していたドイツ大使館顧問のリヒャルト・ゾルゲが、あろうことかソ連のスパイ容疑?で逮捕された。

 その3日前には、近衛内閣においてブレーンを勤めていた満鉄嘱託の尾崎秀実ほか何人かの日本人が同じ容疑で逮捕された。この事件は、その社会的影響の大きさから、そのときには発表されず、翌年の5月になってようやく発表され、日本の社会に大きな衝撃を与えた。

 彼らは国際スパイとして国防保安法、治安維持法、軍機保護法違反で起訴され、1943(昭和18)年にゾルゲと尾崎は死刑判決を受け、翌年、つまり敗戦の前年に死刑が執行された。
 さらに尾崎秀実が近衛内閣のブレーンを勤めていたことから、捜査は近衛内閣の側近にまで及び、犬飼健、西園寺公一が検挙され、政界中枢にいた重臣たちを震えあがらせた。

 そのおどろおどろした「売国的」事件の実態は、逮捕翌年の1942(昭和17)年5月16日になりようやく『国際諜報団事件』としてセンセーショナルな発表がなされた。しかし当時の国民にはその実態は全く分らず、戦後になりようやくその全貌が明らかになった。まず、この「事件」の主役の紹介から始める。

(3)リヒャルト・ゾルゲ −ドイツ・ソ連の2重スパイ?
●コミンテルンにおける活動まで
 ゾルゲは、1895年10月4日、カスピ海に面したバクーで、石油会社に働くドイツ人高級技師の父とキーエフ市の資産家の娘であるロシア人の母の間に生まれた。
 「ゾルゲ伝説」と称する奇怪な話がいくつかあるが、その一つに彼の祖父をカール・マルクスの秘書であったアドルフ・ゾルゲ、とする説がある。しかし、これはゾルゲ自作の神話とする説もあり真偽のほどは分らない。

 兄弟は7人?(また9人の子供の末子で、四男とする説もある)であった。1914年7月、第一次世界大戦が勃発し、兄2人がその大戦で戦死し、彼自身もベルリン大学医学部に在籍中に大戦に志願で参加して、前後に3度も負傷した。
 最後の戦傷は大腿部骨折の重傷で、そのため兵役除隊になった。この後遺症により、ゾルゲは終生、足が不自由であった。
 この第一次世界大戦に参加した経験を通じて、少年のころからの軍国主義・愛国青年は、社会主義者に変身した。

 ベルリン大学において、最初は医学部(さらに政治学部)に学び、その後にキール大学へ転校、政治学を専攻して、そこで最左翼政党であった独立社会民主党に入党した。

 1918年11月、キール軍港で水兵蜂起が起こったとき、ゾルゲは彼らに社会主義についての非合法の講義をしていた。このキール軍港の蜂起は、北ドイツの各港に革命的蜂起を引き起こし、さらにミュンヘンでは、独立社会民主党と社会民主党の両党による「バイエルン共和国」が誕生することになった。

 そのような状況の中で、ゾルゲは、党の宣伝教育、講義、アピールなどを担当していた。1918年11月9日、ベルリン蜂起により皇帝が退位しドイツ共和国が誕生した。このとき、ゾルゲはベルリンへ行き、独立社会民主党の左派としてこの蜂起に参加した。

 翌年、ハンブルグに移り、1920年12月にドイツ共産党が結成されると、直ちに入党して、ハンブルグ支部の訓練班長として活動し、ハンブルグ共産主義新聞の顧問になった。

 ドイツ共産党員となってからのゾルゲの活動は、いっそうの目覚しさを加えたが、共産党が非合法化されたため地下活動に入った。
 1924年4月、合法性を一時回復したドイツ共産党のフランクフルト大会において、大会代表の1人に選ばれ、コミンテルンから派遣された要人の身辺警護を担当した。このことが評価され、ゾルゲは1924年の暮れにモスクワへ行き、コミンテルン(=1919年に作られた共産主義の国際組織:コミュニスト・インターナショナルの略)の本部要員に抜擢された

 ヨーロッパにおける革命の波が低調になる中で、ゾルゲは1925年1月からコミンテルン情報部創設の仕事にかかった。そのことからドイツ共産党を離れ、ソビエト共産党に加入することになった
 ゾルゲの仕事は、各国共産党からくる資料を基に各国の党活動、政治情勢、経済問題、労働運動などの報告書を作成することであった。それは同時に国の諜報活動の重要な仕事でもあり、ゾルゲの所属はコミンテルンから、赤軍第4本部に移った。そこで彼は、活動の目的地として極東の中国を選んだ

 彼は著書「新ドイツ帝国主義」(1928)において、「中国ならびにロシアの革命を擁護せよ!」というスローガンを巻末に乗せ、ドイツ資本が中国の反革命に武器を供給していることを鋭く指摘している。これはヨーロッパ中心の考え方をとっていた当時の社会主義者たちの中では、傑出した見解であった
 そして「革命的労働運動およびソ連外交政策のうえの大変化がきっと今に極東の新しい分野でおこなわれる」(ゾルゲ獄中日記)ことを的確に予測していた。
   
●中国と日本における諜報活動
 1930年1月、34歳のゾルゲはベルリンで社会学雑誌社と通信契約を結び、ジャーナリストとして中国革命の嵐が渦巻く上海へやってきた。ここでゾルゲは、日本の尾崎秀実、アメリカのアグネス・スメドレーと会う
 ゾルゲは、「上海で最初にこしらえた友人は尾崎であった」(獄中日記)と述べている。また、尾崎秀実も、後に『上申書』の中で、「深く顧みれば、私がアグネス・スメドレー女史や、リヒャルト・ゾルゲに会ったことは、私にとってまさに宿命的であったと云い得られます」と述べている。

 しかし中国における尾崎とゾルゲの関係は、その後の日本におけるほど明確ではない。尾崎自身がドクター・ゾルゲの名を正確に知ったのは、彼が帰国した後、1936(昭和11)年に東京で開かれた太平洋問題調査会の席上であった。

 ゾルゲが上海へきた翌1931(昭和6)年9月18日夜、奉天郊外の柳条溝で、突如、満州事変が勃発し、その後、日本は中国との長い戦争に突入した。
 中国において尾崎がゾルゲから求められた情報は、国民政府を中心とする中国の諸情勢の分析情報であり、特に、当時の中国における日本の対満州政策の分析―在満兵力の概数、9.18事件の実態、今後の見通しなど、かなり高度に理論的なものであったようである。

 ゾルゲの中国滞在は、2年に区切られていた。そして彼は1933(昭和8)年9月、東京に来る前にベルリンへ行き、「テークリッヘールントシャウ」紙、ベルゼンークーリエ」紙、オランダ系の「ハンデルスブラット」紙の通信員となり、ドイツ大使館や大使あての紹介状を入手した。

 ゾルゲの東京における任務は、満州事変以後における日本の対ソ戦略の調査、対ソ攻撃計画の行方の研究とその報告であり、さらには対ソ攻撃の虞がある日本の陸軍と航空部隊の改編と増強、ヒットラーの政権獲得後の日独関係、対華政策、英米関係、対外政策にしめる軍部の役割、日本の戦時経済の問題など、非常に広範でかつ重要な日本の対ソ政策全般の調査であった。

 彼は連絡上の技術的レベルを上げるために、無電の高等技術を習得していたマクス・クラウゼンの日本派遣を上司に認めさせ、1936(昭和11)年の2.26事件の頃から情報活動を本格化させた。
 当時、ドイツ大使館は2.26事件における事態の本質を把握できないでいた。このとき、尾崎が昭和9年秋から朝日新聞社の東亜問題調査会勤務の地位にあり、ドイツ大使館においても、オットー、ヴェネカ両武官が日本の軍部情報を入手しやすい地位にあった。

 ゾルゲは、これらの情報をまとめて2.26事件を「東京における軍隊の叛乱」と題して、1936年5月号の雑誌「地政学」に発表した。この雑誌は1924年にハウスホーハーにより創刊され、後にナチスの国家政策の知的武器としての役割を果たした雑誌である。
 この雑誌にゾルゲが、R.S.の名で書いた論文は、ソ連共産党の機関紙プラウダにその一部が掲載された。R.S.がゾルゲであることを、プラウダもドイツ大使館も共に知らなかったことから起こったことである。
 しかしこのことは、本来、機密であるべきソルゲの諜報活動の成果が、一般の雑誌に掲載されたことの不可解さの反面で、ゾルゲ情報が単なるスパイ活動を越えた高い水準にあったことを示している。

 さらにゾルゲは、1936年3,4月頃から、ベルリンにおいて大島駐独大使とナチ幹部のリッペントロップとの間で、ドイツ大使館も知らない日独防共協定が進められている事実を知り、その内容をモスクワに通電すると同時に、ドイツ大使館のオットー武官にも知らせた。
 このようなゾルゲによる適切な情報提供により、オットー武官は1939(昭和14)年に駐日ドイツ大使に昇進し、ゾルゲもドイツ大使館の中で最高のスタッフとなった

 ゾルゲは、1939年9月、ドイツのポーランド侵入により第2次大戦の幕が切って落とされると、ドイツ大使館の情報宣伝部でオットー大使の私設情報官として情報業務を担当するようになった。そのため館内の特別室でドイツ大使館に集まってくる秘密情報のすべてを見ることができるようになり、そのすべてのコピーが赤軍第4本部のマックス・クラウゼンに送られた。

 1939-40(昭和14-15)年の2年間、ゾルゲと尾崎の最大の関心は、日ソ間の戦争の可能性、特に、日本の国家政策が、北進によるソ連攻撃にあるか?それとも南進による米英との衝突のいずれを選択するか?ということであった。
 1940(昭和15)年に入ると、彼らの目標は日ソ関係、独ソ開戦の時期、日米交渉の経過の3点を正確に把握することに絞られた。

 ソ連国家に対するゾルゲ情報の最大の功績は、日本が北進政策をやめ南進政策を選択したことをソ連に伝えたことである。これによってスターリンは、安心して全兵力をヨーロッパ戦線に集中することが可能になった。そのかげには近衛内閣のブレーンである尾崎秀実の大きな貢献があった。
 その頃、ナチスの秘密機関長シェーンベルグは、既にゾルゲがソ連との2重スパイであることに気がついていた。そのため彼を厳重な監視下おくと同時に、彼の役割を承知の上で利用していたと思われる。(尾崎秀樹「ゾルゲ事件」123頁)




 
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