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日本人の思想とこころ
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  (4)聖徳太子時代の外交のナゾ

 6世紀末から7世紀はじめにかけての聖徳太子の時代は、日本でもアジアでも政治、学問、宗教、技術などの分野における大きな変動の時代であった。
 聖徳太子までの倭国の外交は、百済とは親密な関係は保ってきたものの、高句麗、新羅、中国とは必ずしも良好な外交関係をもってこなかった。
 これが聖徳太子の時代に大きく転換した。強国・新羅に対抗するため、遣隋使を派遣して中国との国交を積極的に推進し、従来、疎遠であった高句麗との外交関係をすすめ、後には新羅とも友好化する。そのために、百済とは関係が悪化したほどである。
 
 当初、新羅に対しては任那復興のため大軍による攻撃計画を準備して、出兵までしながら、結局は攻撃に踏み切らなかった。これら6〜7世紀にかけての日本の外交政策は、あまり成功とはいえないものであった。むしろ失政といえるものが相次いでいたように思われる。

●聖徳太子による隋と三国外交の展開
 欽明天皇23(562)年春1月に、新羅が倭国の出先であった任那を滅ぼした。
 既に6世紀の初頭から、任那諸国に対する倭国の力は大きく衰退してきていたが、任那滅亡により、倭国は長い間維持していた朝鮮半島南部の拠点を完全に失った。
 この状況を踏まえて、6世紀末からの聖徳太子の外交政策は、それまでの百済中心の政策から、隋帝国、高句麗そして新羅を対象にしたものに大きく転換した。

 当時、中国では隋が北周(581)と陳(589)を滅ぼし、589年には中国全土が統一されて、隋帝国が建国された。新しく登場した隋帝国は、581年に百済の威徳王を百済王に、591年に高句麗の平原王を高麗王に、594年には新羅の真平王を新羅王に任命して、隋を中心にした朝鮮半島の統治体制を作りあげていた

 この段階で、高句麗の嬰陽王が遼西を攻撃したことから、598年に隋の文帝が水陸30万の大軍により高句麗を攻める隋・高句麗戦争に発展した。この戦争は予想に反して隋の大軍の大敗北に終わり、水路で平壌を攻撃した水軍も風浪で船が沈み、そのため隋軍は9割が死ぬという結果に終わった

 ところが戦争で大勝利をしたはずの高句麗王の方が、逆に隋の文王に対して自らを『遼東糞土臣某』と称して謝罪したことにより、文王は再度の出征をとりやめ、嬰陽王は高句麗王の待遇を取り戻す結果となった。(『高句麗本紀』)

 この頃から、高句麗は従来は疎遠であった倭国との国交を開くことを、考え始めたようである。593年に倭国は聖徳太子が摂政となり、従来の百済中心の朝鮮外交から、高句麗、新羅、さらに隋との外交を展開し始めていた
 595年には聖徳太子の師となる高句麗僧の慧慈が来朝し、600年には第1回遣隋使が派遣され、新しい倭国の対隋・外交政策は華々しくスタートした。

●幻の新羅侵攻?とナゾの第1回遣隋使の派遣
 600年に、聖徳太子は隋、高句麗と友好関係を作り、一方で新羅とは対決して任那の回復を図る外交政策に踏み切った。
 しかしその外交政策は、高徳で有能な聖徳太子によるとは思えない拙劣な面が多く、それが大きなナゾである。

 まず推古天皇の8(600)年春2月、新羅統治下にある任那が新羅に対して叛乱を起こした、と書紀は記している(この記事の真偽は大いに疑問!)。
 そこで推古天皇は、万余の軍を朝鮮に送って任那を助けた。この戦いで倭軍は、新羅の5城を占領したため、新羅は降伏し朝貢を申し出たと書紀は記している。しかし倭軍が引き上げると、新羅は再び任那を占領した、という。
 
 この任那の叛乱と倭国の攻撃について、新羅本紀は全く触れていないし、日本書紀の記述も非常に現実性を欠いている。そのため日本書紀のこの記事は、本当のことかどうかもかなり怪しいと思われるのである。
 この幻の新羅征討に続き、殆どやる気無しの新羅の征討計画が立てられた。

 倭国では、602年2月に聖徳太子の子の来目皇子を新羅征討将軍に任命し、2万5千人の大軍が4月に筑紫に到着した。ところが来目皇子は、翌年に突然、病没するというアクシデントに見舞われた。
 そこで603年4月に、来目皇子の兄の当摩皇子を新羅の征討将軍に任命して、皇子は舟で難波を出発した。しかし今度は、皇子の妻が亡くなるというアクシデントが起こった。そこで当摩皇子は帰国し、新羅征討は中止された、と書紀は記す。

 この出兵計画は不思議な事件である。2万5千人の大軍を筑紫に送り、征討将軍として皇子を2度まで任命しながら、再度のアクシデントで中止になった。
 これは国際政治からいえば、倭国は新羅を本気で攻撃する気がないことを内外に表明したことである。事実、聖徳太子の時代には新羅征討は2度と行なわれなかった。この新羅の征討計画は、どこまで本気か全く分らない不思議なものであり、拙劣な外交政策の典型的なものであった。

 第2の外交政策は、600年に行なわれた第1回の遣隋使の派遣である。これは随書に載っていることから分るが、日本書紀は全く記載していない。
 そのため正当な遣隋使の派遣としない見解もあるが、隋の史書が倭国の使者として扱っている以上、外交的には立派な倭国の遣隋使の派遣と考えるべきであろう。

 隋書、東夷編によると、開皇20(600)年に、倭国の遣隋使が入朝した。
 そのときの隋の係官による聞き書きによると、倭国王の姓は、阿毎(アメ)、字は(アメキミ)といい、倭国の風俗について尋ねると、使者は次のようにいった。
 倭王は、天を以って兄となし、日を以って弟となす。天未だ明けざるとき、出て政を聴き、跏趺して座す。日出でて、すなわち理務を停む。謂うに我が弟に任すと。
 高祖曰く、此れ、大いに義理なし。ここにおいて訓令、此れをあらたむ。王の妻はキミと号す。後宮に女六、七百人あり。太子と名付け、リカヤタフリとなす。城郭はなく、内に官十二等あり。(以下略)

 隋の聞き書きから見ると、倭国は正式な国書を持参していないようである。そのために随書の記述内容は、まるでヒミコ時代における朝貢の記事を見るように内容が乏しい
 倭国の使節の説明では、倭王は天(アメ)皇(キミ)と呼ばれ、兄弟で勤めている。兄は祭祀(=天)を担当し、夜明け前に政を聞き、王座に座る。日が上がると、弟が政治の実務(=日)を担当し、仕事は弟に任される、といった内容である。

 当時の倭国の天皇は推古天皇、聖徳太子が摂政である。天皇は女帝であるとはいえないので、推古天皇を兄、聖徳太子を弟として仕事を分担している状況を説明したようである。官位十二階の制定は3年後のことであるが、既に行なわれているように語っている。

 使節が、倭国の政治制度をたいへん苦労しながら、勿体を付けて説明をしている姿が浮かんでくる。当時の隋の皇帝は文帝である。この倭国の使節の説明を聞いた文帝は、倭国の政治方法について、たいして正当な道理のあるものではない、といった。つまり殆ど問題にされなかったわけである。

 倭国の使節については、既に、476年に雄略天皇が宋の順帝に出した上表文があり、それは中国人も驚くほどの立派な文章で書かれている(宋書夷蛮伝)。
 この倭の五王時代の上表文に比べて、百数十年も後のしかも有徳で学問のある聖徳太子の時代の遣隋使が、何故このようなお粗末な状況になっていたのか?真に理解に苦しむことである。

●第2回遣隋使の派遣
 第2回の遣隋使は、607年に小野妹子を正使として派遣された。この頃の隋は、煬帝の最盛期である。日本でも聖徳太子による官位十二階の制定(603)、17条憲法の発布(604)、勝鬘経の講義(606)が行なわれており、太子の仕事の最も油の乗っていた時期である。
 この段階で行なわれた遣隋使については、日本書紀と随書がともに記述している。隋書の原文は次のようになっている。

 大業3(607)年。その王、タリシヒコ、使を遣わし朝貢す。使者曰く、海西に菩薩天子ありて、重ねて仏法を興すと聞く。故に、朝拝を遣わし、あわせて沙門数十人来たりて、仏法を学ぶ。その国書に曰く、日出るところの天子、書を日没するところの天子にいたす、恙無しや、云々。帝、此れを見て喜ばず。鴻臚卿に謂いて曰く、蛮夷の書、無礼なものあり、復以って聞くなかれ。(原漢文―読み下し文は荒木)

 最初の部分を訳してみると、607年に、倭国の王タリシヒコが、隋に使者をもって朝貢してきた。その使者がいうには、海の西に菩薩天子がおられ、梁の武帝以来の仏法を再び起こされているとお聞きし、僧数十人を送りましたので宜しくお願いします、ということである。

 ところがそれに付けた国書には、「日出るところの天子、書を日没するところの天子にいたす、恙無しや」という驚くべき言葉が書かれていた。
 この表現は、国と国とが戦争に突入するときの宣戦布告のようなものであり、隋の煬帝が外務大臣に「蛮夷の書、無礼なものあり、復以って聞くなかれ」といったのも当然である。

 有徳といわれ、17条憲法などにおいては「四六駢儷体」といわれる六朝期の華麗な漢文を書くことができたはずの太子が、何故このような失礼な文言の国書を小野妹子の正使に持たせたのか? ということである。
 この文章をもって、今度の大戦中には国威の高揚だ!と賞讃した人があるが、それは漢文を全く理解しない幼稚な考え方であると思う。

 漢文は、本来、簡潔な表現を特徴とするため、短い文章の中に先人の文章や言葉を適切に埋め込むことが多い。その引用された文章や言葉により、書いた人の教養の程度が分り、しかもその裏にある相手の真意も分ることになる。

 最近では、田中角栄首相が日中国交回復のため訪中して、周恩来首相と会談した際、周恩来はいろいろ裏に意味を持つ中国語を使った。ところが、漢文を理解しない田中首相には全く伝わらず、周恩来は途中であきらめたという話がある。
 この逸話は、最近の日本の政治家、官僚、学者が、漢文の基本さえ理解できなくなっていることを物語る話である

 昔も今も同じであり、中国との外交において内容のない勇ましく空虚な言葉を羅列したり、間違いだらけの漢詩を書くと、中国ではただの野蛮人として馬鹿にされるだけのことである。
 このことを聖徳太子が分らなかったとは思えない。それにも拘わらず、この失礼な文句の国書が隋に送られ、煬帝に「蛮夷の書、無礼なものあり」といわれた。
 この外交政策に聖徳太子の姿が見えないのは何故であろうか? ところが拙劣な外交政策は、まだ後に続くのである。

●日本書紀の遣隋使の記事 
 小野妹子の遣隋使が、日本への帰路で百済の人に煬帝からの国書を奪われたとする事件については既に述べた。この事件については、梅原猛氏の大作「聖徳太子」T〜Wにも、かなり詳しく述べられていて、そこでは本当に煬帝の返書が百済人に奪われた、と推理されている。
 同氏の聖徳太子論の多くは説得力があり私にも共感できるが、この国書盗難事件についての見解は、私には納得できない。

 小野妹子を正使とした第2回遣隋使について簡単に述べる。聖徳太子が小野妹子を正使として隋に派遣された607年は、隋の煬帝の全盛期である。その頃、隋は大軍を擁して、再度高句麗と大戦争を始める計画をしていた。

 一方、この年、百済と新羅は反高句麗色を鮮明にして、隋に朝貢していた。そのような状況の中で、595年には聖徳太子の師として高句麗から恵慈が来朝し、605年には、丈六仏を作るにあたり高句麗の大興王が黄金300両を贈るなど、倭国は高句麗との友好関係をかつてないほど深めていた

 隋から見た倭国は、高句麗の背後にある戦闘的な「蛮夷の国」である。倭の五王時代に宋へ朝貢した上表文から見ても、倭国は大変な軍事国家に見える。
 隋の煬帝にしてみれば、その倭国が仏教を学びたいといっても、依然として高句麗と友好関係を進めている不気味な軍事国家と認識していたと思われる。
 その倭国が、一方では隋で仏法を学びたいと僧を送りながら、一方では大国・隋の皇帝と対等でもあるような失礼な国書を送り付けてきたわけである。

 その煬帝の倭国に対する率直な怒りが、小野妹子に託された隋の返書にはっきりと書かれていたのであろう。そのため、小野妹子は国書を聖徳太子と推古天皇に見せることができず、百済人に奪われたという芝居を打つしかなかった。
 これが日本書紀の語る煬帝の国書紛失事件の真相であったと、私は思う。

 国書のやりとりにより、隋と倭の外交関係が悪化することは、両国とも望んでいない。そのため小野妹子は、遠島を覚悟して煬帝の国書を紛失した。
 ところが小野妹子とともに来日した隋の正使・裴世清の帰国に際して、推古天皇が隋の皇帝・煬帝に伝えてほしいと述べられた言葉の中に、またまた、そのまま伝えられると困る大変な言葉が含まれるという事件が起こった。

 日本書紀によると推古天皇の16(608)年9月5日、推古天皇は隋の使者・裴世清に対して、煬帝に贈る挨拶の言葉として「東(やまと)の天皇、つつしみて西(もろこし)の皇帝に申す」と述べられた、と記されている。
 この条は、日本書紀の中で、「天皇」という言葉が初めて使われたことで有名なものである。しかしこの挨拶の言葉は、使者・裴世清によってそのまま煬帝に伝えられると、前の国書以上に煬帝に不快感を与える無神経な言葉であった、と思われる。
 それには若干の解説がいる。

 中国において「皇」という言葉は、上に白光をいただいた王である。飯島忠夫氏によれば、光輝があって偉大なる主催者の意味であり、その文字は、中国全土を初めて支配した秦の始皇帝により、最初に使用された由緒あるものである。
 そこで秦の始皇帝以来、中国の帝王は「皇帝」を称するようになった
 
 ところが「天皇」という言葉は、さらに「皇帝」を超える言葉なのである
 「史記」の付記がいう「三皇」、つまり天皇、地皇、人皇の最高位につく皇帝を意味することになる。国書の中で、自国の帝王を「天皇」といい、相手国の帝王を「皇帝」ということは、完全に相手国を見下した表現になる。
 このままこの言葉を煬帝に伝えられると、それだけで高句麗攻撃のついでに、倭国まで隋の大軍に攻め込まれるおそれがあるほど、失礼な言葉になるわけである。

 裴世清は、この言葉をそのまま煬帝に伝えるようなことをしなかったと私は思う。
 小野妹子は煬帝の言葉を推古天皇に伝えず、裴世清は推古天皇の言葉を煬帝に伝えなかった。そのことによりかろうじて隋と倭国の平和は維持された。
 しかし有徳で高い学識がある聖徳太子の治世の下で、何故このような初等的な外交上のミスが多かったのか? 私にはどうしてもナゾである。




 
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