(3)悲劇の水戸学
●幕府の開国、朝廷・水戸藩の攘夷
徳川斉昭の「弘道館記」が世の出た1838年の段階では、表-2からも明らかなように幕府、朝廷共に、尊王−敬幕−忠藩−攘夷という国家政策において完全に一致していた。しかし嘉永6(1853)年にペリー艦隊が来航し、翌年、幕府はペリーとの間で日米和親条約が締結し、下田、函館が開港と決定した。
この段階から、幕府は開国政策に踏み切ったが、朝廷は幕府の開港・開国政策を許可せず、「攘夷」の命令を出して両者の政策は真っ二つに分かれた。
幕府の将軍は正確にいえば「征夷大将軍」であり、「攘夷」のために天皇から任命される役職である。従って天皇から「攘夷」命令が出された場合には、それに従うしか手はない。しかし幕府は、安政5(1858)年にハリスとの間で日米修好通商条約を締結して、さらに「開国」に踏み切っている。
アメリカに対して開国することは、当然、イギリス、フランス、ロシアをはじめとする欧米各国にたいしても開国に踏み切ることになる。
日本はもしこの段階で一方的に「攘夷」に踏み切れば、西欧列強の軍事攻撃を受けても文句がいえない立場に追い込まれていた。
つまり国際的には、安政元(1854)年をもって日本は開国政策に転換していたわけである。
しかし朝廷の承認が得られなければ、国内的には条約は発効しない。
そのため慶応元(1865)年に朝廷により開国が承認されるまでの11年間が、幕府による実態としての「開国」と朝廷による建前としての「攘夷」が並存し、その両者の間で血を血で洗う「尊王攘夷」の抗争が日本中に荒れ狂ったわけである。
なかでも水戸藩は徳川御三家の一つである。当然、徳川幕府の擁護の立場に立つべきところ、光国公以来の名分論を背景にして、朝廷と同じ「尊王攘夷」の立場を貫いた。そのために明治維新までに、有為な人材の殆んどすべて失うという、悲劇的な結果を招くことになった。その概略を次に述べる。
●水戸藩士による井伊大老暗殺
尊王攘夷運動が最も盛り上がり、幕府権力と正面から衝突した事件が、井伊大老の暗殺である。近江彦根藩主・井伊直弼(1815-1860)が江戸幕府の大老の地位についたのは、安政5(1858)年4月のことであった。井伊は、早速、6月に朝廷の勅許を得ないまま、ハリスとの間で日米修好通商条約を結び、続いて他の国々との間で安政5カ国条約を締結した。
さらに13代将軍家定の後継として、擁立運動が高まっていた水戸藩につながる徳川慶喜を抑えて、紀州の徳川家茂に決定するという大仕事を立て続けに片づけた。
この強引な井伊大老のやりかたは、当然、尊皇派の神経を逆なでするものであった。そのため幕府のお膝元の徳川(一橋)慶喜、徳川(田安)慶頼、徳川(水戸)斉昭、徳川(尾張)慶勝らが、そろって登城し、直接、井伊大老に面会・抗議するという前代未聞の抗議となって現れた。
しかしそれらは、結局は、井伊大老に言いくるめられてうやむやに終わった。
孝明天皇は、この天皇に無断で行なわれた条約調印に激怒し、8月には、幕府と水戸藩に幕府を非難する勅諚を下す事態に発展した。
この事件において水戸藩は朝廷と幕府の間に入って、非常に難しい立場に置かれることになった。そのため、水戸藩の尊王攘夷派(天狗党)は、さらに朝廷の奉勅を主張する「激派」と、会沢正志斎たちの「鎮派」に分裂する羽目に陥った。
井伊は、既に勅諚降下の前からその阻止をねらって朝廷工作をすすめていたが、それに失敗して、やむなく水戸の尊王攘夷派の大弾圧に乗り出した。
この尊王攘夷派への弾圧は、さらに有名な「安政の大獄」に発展した。この悪名高い「大獄」では、頼山陽、橋本左内、吉田松陰など有名な尊王攘夷派の志士たちが死罪にされたが、特に水戸藩に対して厳しい処置が取られた。
前藩主・徳川斉昭に国許永蟄居、藩主・慶篤に差控え処分、家老・安島帯刀、小姓頭取・茅根伊予之介、京都留守居・鵜飼吉左衛門を斬首、吉左衛門の子鵜飼幸吉を獄門、勘定奉行・鮎沢伊太夫に遠島という類例を見ないものであった。
その上に、井伊は水戸藩に対して、翌年、勅諚返納の行動を起こした。
この幕府にたいする勅諚返納をめぐって、水戸藩の中では激派と鎮派の対立が激しくなり、それが万延元(1860)年3月の井伊大老暗殺の大きな動機となった。
万延元(1860)年3月3日節句の日、江戸は大雪であった。そのなかを水戸藩の脱藩士17人と薩摩藩士1人の18人が、登城する井伊大老を桜田門外で襲撃し暗殺した。
その結果、藩主殺害の復讐をはかる彦根藩士による加害者・水戸藩への報復が懸念された。幕府による仲介でなんとか2藩の激突は回避されたものの、幕府の開国へ向っての専制的な政治は大きく転換せざるを得なくなった。
8月15日、水戸城に蟄居させられていた尊王攘夷の象徴的存在であった徳川斉昭が急死した。暗殺説が流れたが、持病の心臓発作による死であった。
万延元(1860)年は、幕府と尊王攘夷派の象徴的存在が一挙に失われて、最も過激派であった水戸藩と長州藩までが、「公武一和」を唱えて公武合体への動きが始まった。
井伊大老の死後、幕府には磐城平藩主・安藤信正と、井伊に退けられていた関宿藩主・久世広周を中心とした政権が生まれた。
この新政権は、井伊が取ってきた施政方針を改め、諸侯懐柔の政策をとるとともに、一橋派をたてさらに朝廷と幕府の和解の道に転換した。それが公武合体であり、孝明天皇の皇女和宮を将軍・家茂の夫人として降下を願う計画が浮上した。
●公武合体派と尊王攘夷運動の対立激化
和宮の江戸下向は、文久元(1861)年10月に決定し、幕府と朝廷の世紀の政略結婚は、文久2(1862)年2月11日に江戸で行なわれた。しかし公武合体ムードの久世・安藤の政権下で、尊王攘夷運動はさらに激化していった。
長州・薩摩の勢力が江戸、京都、大阪で激しくなり、薩摩藩主の父・久光は文久2年3月、1000人の兵を率いて京都に乗り込み、さらに勅使と共に京都を出発して江戸に向うという大デモンストレーシヨンを行い、徳川慶喜を将軍補佐にするよう家茂に申しいれた。
▲将軍・家茂の上洛 −公武合体派と尊王攘夷派の対立激化
文久3(1863)年3月、将軍・家茂は、将軍として230年ぶりの上洛を行なった。
その目的は、幕府にしてみれば攘夷決行という重大な政治問題について、朝廷との間で調整をはかることにあった。
そこで薩摩・長州・土佐をはじめとする攘夷派の志士たちが京都に集合して、京の都は騒然たる雰囲気に包まれた。
そこでは公武合体派と尊王攘夷派の対立は、一層激化していた。しかし公武合体派の勢力は後退し、逆に尊王攘夷派が大きく進出していた。
その結果、幕府は文久3(1863)年5月10日を攘夷期限として上奏する事態に追い詰められた。
その直前の4月21日、将軍家茂は京都を脱出し、大阪をへて江戸へ向い、翌日、慶喜も江戸へ向った。
一方、攘夷派の急先鋒であった長州藩は、5月10日に朝廷・幕府の布告に基づき、下関において米、仏、蘭の外国船への砲撃に踏み切った。
将軍や慶喜が江戸に去った京都では、尊王派志士たちの勢力が強くなり、幕府に攘夷を督促して応じないときには、4藩が協力して攘夷にあたることを朝廷に進言した。
6月10日、仏英米蘭4国代表が長州藩の攻撃を決議する一方で、7月2日には薩摩藩がイギリス艦隊に砲撃を加えて薩英戦争が始まった。
このような状況の中、8月18日に京都において、長州藩や貴族たちの尊王攘夷派を一掃して、会津、薩摩の公武合体派が主導権を回復するクーデターが勃発した(8月18日の政変)。これによって尊王攘夷派の気勢は失われ、再び公武合体の時代に戻った。
文久3(1863)年12月30日、朝廷は徳川、松平慶永、島津久光の建議を受けて、雄藩諸侯を朝議に参加させる公武合体の体制に向って動き始めた。
幕府は、攘夷実行の公約における違勅の責任を免れるために、文久3年8月、開港している3港の内、せめて横浜1港の閉鎖を決めていた。
そのため12月29日に、幕府は外国奉行を鎖港交渉のため欧米に派遣し、将軍・家茂は、翌年2月、横浜鎖港を天皇に奏上。さらに、元治元(1864)年4月に、横浜鎖港を英、仏、米、蘭に通告した。
●水戸の尊王攘夷派・天狗党の悲劇
文久3年8月18日のクーデターで京を追われた尊王攘夷派の急進派は、ひそかに水戸藩をたより、常陸・下野の各地に集まり始めた。
これを心配した幕府は、慶喜より先に寄府していた水戸藩の家老・武田耕雲斎に水戸下向を命じ、取り締まりを強化させることにした。
翌元治元(1864)年1月には、長州の桂小五郎(のちの木戸孝允)が烈公の墓参と称して水戸にきており、藤田東湖の子の藤田小四郎に千両の軍資金を渡して、尊王攘夷の挙兵を呼びかけた。
幕府による横浜鎖港への取組みは、水戸の激派である藤田小四郎たちを勇気づけた。この時点の攘夷は、具体的には横浜鎖港を実現することにあった。
小四郎たち激派は、水戸藩の町奉行・田丸稲之衛門を総大将、23歳の藤田小四郎を参謀として、元治元年3月27日、総勢100人で、筑波山において「従二位大納言源烈公神輿」と書いた白木の神輿を奉じて、尊王攘夷の挙兵を行なった。
挙兵した筑波勢は、攘夷に好意的な宇都宮藩をへて、日光参詣を目指して出発した。
途中、挙兵に賛同する同志が次々に参加し、総勢は200人に膨れ上がり、日光で全国の有志に決起を呼びかけた後、太平山にこもった5月には500人くらいに膨れ上がっており、6月に筑波山に戻った。
6月4日、京都では新撰組が長州藩などの尊王攘夷派に大きな打撃を与えた池田屋騒動が発生し、それに激昂した長州藩の進発派は、慎重派の周布政之助を藩の中枢から追い出し、進発軍を上京させて、6月24日に福原越後の一隊が伏見の長州藩邸に入った。そこで京都守護職・松平容保は御所の九門を閉ざし、厳戒態勢に入る事態となった。
その結果、7月19日に京都守護軍と長州藩の福原越後軍が、伏見で衝突。さらに蛤御門と下立売門を守衛する会津・桑名の藩兵と、長州軍が衝突する蛤御門の変が起こった。
これは長州藩兵の敗北により半日で終わったが、この戦争で発生した大火が京の町に広がる中、六角牢獄に入牢中の勤皇派の志士33名が、幕府により斬首されるという史上最大の処刑が行なわれた。
そしてこの大火は21日まで燃え続けて、京の町を焼き尽くした。
この責任を追及するため長州征伐を行なうことが御所の朝議で決まったが、将軍をはじめとして掛け声だけで進まず、一方の長州も8月5日には4カ国連合艦隊による攻撃を受けており、幕府と長州の双方共に大混乱という状態になった。
このような中で、水戸では、元治元年10月、武田耕雲斎を総大将、大軍師に山国兵部、本陣に田丸稲之衛門、輔翼に藤田小四郎という「天狗党」とよばれる大軍団が、1000人もの人々が集まって編成された。
彼らは、3月に将軍後見職を解かれて京都守護総督・摂海防御指揮に任じられていた徳川慶喜を通し、「尊王攘夷」を朝廷に訴えるための大行進を始めようとしていた。
考えてみると、この天狗党への賛否は別にして、諸般の情勢が大混乱の中にある中で、彼らの趣旨は余りにも純粋、純真であり、徳川慶喜を信頼し過ぎていた。
天狗党と言っても女・子供を含む請願のための1000人の大集団であり、10月25日に太子を出発し、山の中の間道を通って、木曾の馬込宿を通過したのは11月26日のことである。そのときの状況は、島崎藤村の「夜明け前」に詳しい。
その間、各藩を通過するごとに、戦闘の危険にさらされながら、間道を通っての厳しい旅であった。雪の峠越えをして、福井県敦賀市の新保宿へ着いたのは12月12日のことであった。
そこで頼りにしてきた徳川慶喜が、自分ですすんで天狗党の追討を申し出ており、12月3日には追討軍を率いて京都を出発していたことを知った。
加賀藩は、天狗党に同情的な立場をとっており、武田耕雲斎たちもなんとか慶喜に朝廷への斡旋を請いたいと懇願した。
しかし幕府は、12月16日に天狗党への総攻撃の開始を決定し、17日に天狗党は全軍降伏することに決した。
幕府の田沼意尊による天狗党に対する取調べは過酷を極めた。一行は鰊倉の土蔵16棟に50人ずつ入れられ、中はむしろ敷き、便所は中央に桶を置いただけで、窓はすべて板張りにされた。
処刑は、352人が死刑、130余人が流罪、構いなしは僅か18人。水戸藩の農民で同藩に引き渡されたもの130人であった。
幕府の側には、最早、武士道も儒学も国学もなく、政治的なメンツと醜い自己保全でしかなかった。純粋な愛国的理想を持った500人近い人々が、すべて厳しく断罪され、時代は急速に倒幕・開国に向って歩み始めた。
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