(3)東京の改造・遷都計画の40年(その2)
●中曽根内閣の「民活・バブル景気」と「四全総」 ―1980年代
図表-1において、70年代に遷都論の提案が少なかったのと対照的に、80年代は87-88年にかけて夥しい数の遷都論の提案が出されている。
80年代に入る前年の79年4月、東京都知事は長期に続いた革新系の美濃部亮吉知事から保守・中道系の鈴木俊一知事に代わった。67年に始まる美濃部知事の時代には、「シビル・ミニマム」の立場から、東京の巨大化に伴う都市改造にかかわるいわゆる「ハコもの」の建設は殆ど行なわれてこなかった。
これに対して鈴木知事は、選挙戦を通じて「都財政の再建」と「マイタウン構想」を公約に掲げて当選した。この一見、矛盾した2つの公約と中曽根内閣の『民活』が見事に融合した。ちなみに鈴木知事は戦前の内務省の出身であり、同様に中曽根首相も内務官僚出身であり、鈴木知事の後輩にあたる。
具体的にその間の政策的関連性を挙げる。中曽根康弘内閣による『首都改造計画』(85年)、『都市開発の推進に関する民活法』(87年)、「四全総」(87年)における「民活」と鈴木俊一都知事の「マイタウン構想」(79年)は、世界都市・東京の改造で見事に融合している。このことから日本経済は首都改造を中心に据えて、田中内閣の列島改造時代を遥かに上回る大バブルに突入した。
そのきっかけは、ここでもアメリカの経済政策の転換から始まっている。この政治・経済の経過は、『花見酒経済』の項で詳しく述べたので、ここでは簡単に触れる。
80年代初頭のレーガン政権時代は、「強いアメリカ」=「強いドル」という経済軽視の政策をとっていたため、日米の為替レートはその間、横ばいで推移していた。おかげで日本の貿易黒字は累増し、日本の対外純資産合計は、5年間で80年代初頭の10倍以上に増加した。そのため、さすがのレーガン政権も85年に金融政策の大転換を迫られることになった。これが「プラザ合意」(85年9月)である。
その結果、「円」のレートは86年1月からの半年間で、1ドル200円から150円まで急騰した。さらに85年にはアメリカが世界一の債務国、日本が世界一の債権国になるという大逆転が起こった。最初、日本政府はこの新しい事態に怯えて、86年には深刻な円高不況が来ると考えていた。そのため政府は86年秋頃から公共投資を中心に、総額3兆6千億円という戦後最大規模の景気浮揚策に踏み切ったほどである。
ところが事態は全く逆方向に動き始めていた。急激な円高の進行により、ドルで計算した日本経済の規模や成長率は、一挙にアメリカを抜いて世界一の水準に上昇した。日本企業はどの産業分野においても世界のトップに躍り出ることになり、その本拠である世界都市・東京は、一躍ロンドン、ニューヨークを抜いて世界一の経済都市に変貌することになった。いまや世界の一流企業は、競って東京に事務所を構える必要がでてきた。
国土庁の『首都改造計画』(85年)では、過去10年の間に東京圏では既に12万箇所以上の事務所が増加していたが、更に、2000年までに東京23区では、金融・情報の機能を中心にしたオフィスが床面積にして5,140ヘクタール(5,140万平米)不足すると予測(85.5)した。この国土庁の予測した東京のオフィス・ビルの不足数は半端な数字ではない。それは旧丸ビルで850棟、日本最初の超高層ビルの霞ヶ関ビルで317棟分が不足していることになる。
世界一の金融資本都市となる東京には、80年代の中葉から新しく超高層ビルが100-300棟も建設され、ニューヨークを上回る大都会になると国土庁は予想したわけである。このとき既に、日本では国家・地方の財政は危機的状況にあった。そこで中曽根首相は、80年代初頭から行財政政改革をすすめてきた経験を生かして、1983年1月に折から低迷を続ける景気浮揚の最重点施策として、民間活力導入によるアーバン・ルネッサンス政策を打ち出した。
この政官財による民間活力利用の動向は、85年頃から大きな流れに乗った。86年には有名な「前川レポート」が出て、内需拡大への第一歩を踏み出した。そして5月には「民活法」が制定され、87年にはNTT株の売却による資金が、民活プロジェクトに投入されることになった。
この「民活」路線にのって、その事業主体としての「第三セクター」が全国的に組織され、内需拡大の巨大プロジェクトが全国的に着手された。この民活による巨大プロジェクトが東京圏にかかわる比重は大きく、国土庁と東京都が提携して進めた東京の再開発は、中曽根民活と不可分で進行した。
84年末における事業規模1兆円をこえる首都圏関係の大民活事業はつぎのものである。
1. 東京臨海副都心
2. 東京湾横断道路
3. みなとみらい21
この「民活」の組織や事業は、それに関わる政官財のすべての関係者にとり極めて魅力的なものであった。政官側から見ると、既に破綻状態にある国や地方の財政状態に関わりなく民間の資金を利用した事業が可能になった。その意味で政治権力は通常の公共事業より自由かつ十分に行使できて、しかも在来の責任から大幅に開放されることになった。
一方の民間側からみると、事業計画が政官の権力側の承認を得られた上で事業が推進できるため、政官を相手にした面倒な許可申請や陳情、説明などの面倒な業務から開放された。
更に、銀行からの資金融資は公共事業に準じる仕事であるため容易になり、融資を担当する銀行側からすれば、第三セクターが形式的には株式会社の形をとっていても、その実態は公共事業と同じ安全性が確保されることから、担保がなくても文句なしに無制限融資が可能になった。
中曽根政権は、『民活』による巨大開発事業の推進に当たって、史上、かつてないほどの政官財の癒着構造を作り上げた。この中で、87年6月に成立した「第4次全国総合開発計画」(四全総)は、新たな国土開発の戦略プログラムとして東京重視の姿勢を組み込むことが要請された。
最初、中曽根首相は官僚による「国土開発計画」の策定そのものを嫌ったといわれる。そこで「1980年代の経済社会の展望と方針」という指針を作り、その後は民間にまかせようと考えた。しかし政府としても21世紀へ向けての国土政策を明示する必要があり、「日本21世紀への展望−四全総長期展望作業中間とりまとめ」(85年6月)を発表することになった。
しかし現実としての80年代、既に述べた状況から首都圏への一極集中の問題点はますます激しさを増しており、そのことを認めた国土庁は『首都改造計画』(85年)の中で、四全総の中心を東京問題におき、首都の機能をこの圏域内で分業させるという多核都市型構想を発表した。
これより前、通産省は産業行政の立場から、地域開発政策として「テクノポリス法」(高度技術工業集積地域開発促進法)を制定しており、地方では新産業都市のときと同様の指定申請のラッシュが始まっていた。 86年12月、『四全総中間報告』が発表された。そこでは中曽根首相の指示もあり、東京の一極集中を是認し、地価問題などの東京問題に対応しつつ、世界都市・東京を発展させようというものであった。
その結果は、地方の政財界からの猛烈な反発を受けた。あわてた国土庁は、関西の政財界向けに『関西文化首都圏』構想などを発表したほどである。その中で、国土庁は『中間報告』における東京重視と見られる箇所を削除し、多極分散型国土形成を主目標に掲げた四全総(第4次全国総合開発計画:87.6)を発表した。
一方、東京都では、85年4月に鈴木知事が東京を国際的な情報発信基地とする「東京テレポート構想」を突然発表し、更に、9月には臨海副都心開発計画会議が設置された。その同月、新宿副都心に都庁を置く条例が可決された。そこでは鈴木都知事による『多極型都市構造を目指した展都論』が具体的に走り始めていた。
86年4月、元大蔵省次官・平田敬一郎による「乃木坂研究会」が、「大東京国際化計画」という報告書を発表した。この報告書は、東京の臨海部を「国際副都心」と位置づけ、これを横浜の「みなとみらい21」、千葉の「幕張新都心」と「国際副都心」として結び、首都50キロ圏内を「大東京」として首都を大改造しようというものであった。
9月には自民党の金丸副総裁が東京湾埋立地を見学して、この頃から自民党が介入をはじめた東京都の臨海副都心は、86年11月に東京都の長期計画において7つ目の副都心に位置づけられた。この東京港中央部における埋立地の448ヘクタールの土地に、21世紀までに世界最大級の国際情報都市(東京テレポート)を建設しようというものである。
この臨海副都心開発の巨大プロジェクトを東京都に代わって推進するために、第三セクターとして88年に臨海副都心建設株式会社が設立され、初代社長として鈴木俊一知事が就任した。
●首都・東京はどこへゆく? ―1990年代以降
鈴木知事の「マイタウン東京」の構想は、気がついたときには東京湾の臨海副都心や新宿副都心における無機質で巨大なビル群に変貌していた。東京湾臨海副都心は東京フロンティアと呼ばれて、そこでは96年4月から世界都市博覧会が華々しく開かれる筈であった。
90年代のはじめ、既に日本のバブル経済は崩壊しており、80年代に作られた第三セクターの経営は全く先の見えない状態に追い込まれていた。通常の民間事業であれば直ぐに倒産して事業中止になるが、行政機構がからむとそれができない。
世界都市博覧会はその象徴のようなものであった。バブル期にその事業費は2030億円まで膨れ上がっていたが、なおその開催に向かって進んでおり、東京都の財政支援も増大を続けていた。
95年の東京都知事選挙では、鈴木都知事による複数の副都心育成を軸とする多心型都市構造論にもとづく臨海副都心計画、それを都民にアピールする世界都市博覧会の是非が、選挙の争点になった。それに対して、市民派の青島幸男候補が博覧会中止を公約にして立候補した。その結果は、青島幸男候補が、鈴木知事の都政を継承するはずの石原信雄候補に46万票の差をつけ、170万票の得票を得て都知事になったのである。
勿論、青島知事が誕生しても、進行中の博覧会の中止は容易なことではなかった。しかし、結局は中止になり、中止させた青島知事もその後は何もできなくなり、1999年の知事選挙において石原慎太郎候補に次の都知事の座を譲った。
90年代のバブル崩壊後の10年間、国政も都政も共に混迷のままで推移した。その間、東京、横浜に大きな災害のおこる危険性が非常に高まりつつあることを認識しながらも、それを待っているのが現状のように思われる。特に都政の現状は、中曽根内閣の頃で固まってしまったように見える。
石原慎太郎都知事は、中曽根元首相と共に、東京の再生が日本の再生につながるとして、2000年12月に「東京構想2000
−千客万来の世界都市を目指して」を発表した。その中で、東京圏全体を視野に入れた環状メガロポリスを構想した都市再生を提起している。この考え方は、基本的に中曽根首相や鈴木知事が描いていた都市再生そのものである。
これに対して国政で小泉内閣が看板としているものは、民間主導の都市開発であり、そのために02年6月から「都市開発特別措置法」が施行された。これはもともと中曽根「民活」が考えていたことと全く同じものである。五全総も「21世紀の国土のグランドデザイン」という華々しい表題をつけているものの、日本国の負債が1000兆円を遥かに越えた現時点では、ただ空しさのみが感じられる。
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