17.「小泉改革」とは何だったのか? −(その1)特殊法人「道路公団」の改革
(1)日本の財政は、何時からおかしくなったのか?
日本経済が危機的状況に突入してきた過程は、「何処へ行く日本」シリーズ冒頭の「1.日本経済の行方」と、「2.失われた90年代」で詳しく述べている。ここではその後の状況を受けて、2000年代に「小泉改革」の名で劇場風に取り上げられた改革が、一体何であったのか? 次の2つのテーマについて検証してみたい。
(1) 特殊法人・道路公団の改革 ―公共工事の改革はできたか?
(2) 郵政改革 ―財政投融資の改革はできたか?
まず小泉改革を考える前段として、日本の財政状態がおかしくなったのは、一体、何時ごろからか? またその悪い財政危機から脱出するため、どのような政治的改革がなされてきたのか? をまず簡単にまとめてみよう。
最初に、日本のGDP(国内総支出)と国家の借金の主要な指標が、過去にどのような状況にあったか? を図表-1にあげる。
図表-1 名目GDP、公債残高と国家債務A(単位:1兆円)
上図における国家債務Aとは、公債残高に地方債残高と財政投融資残高(=特殊法人の債務の残高計)の和である。この数字から公債と地方債の重複部分を減額し、さらにその他の借金、短期証券、隠れ借金などの加算部分Bを加えると、国の借金の総額が推計できる。
その他の加算部分Bは200兆円くらいであり、公債・地方債残高が800兆円ほどになっているので、国家債務の総計は、2007年の段階でざっと1,300-1,400兆円(GDPの2.6-2.8倍)くらいと推定される。
つまり日本国の借金の現状をGDPに対する負債の割合から見ると、国民の財産だけをたよりに世界戦争を戦って破れた敗戦時を、既に遥かに超えてしまった。それにも拘らず財政危機が国際的に表面化してこないのは、国民が戦後、営々として蓄積した金融資産が、約1,400兆円もあるおかげである。
つまり気がついたとき、国民の金融資産(=財産)はすべて政府の借金のかた(形)にとられていた。しかもこれから先は、超低金利の時代が終わり金利は上昇し、負債は眼に見えて増加していくであろう。そして、世界一の負債を抱えた日本は、世界に類のない超高齢化の時代を迎える。
最早、右肩上がりの経済は無理であることを考えると、日本の財政危機に対する在来の対策は、あまりにも遅れていたことを痛感させられる。
●鈴木内閣における土光臨調の発足
国家債務Aが名目GDPにほぼ並ぶ水準に達して、日本の財政危機が顕在化してきたのは、図表-1を見ると、大体、1980年頃からである。
正確にいえば1978年12月に誕生した大平正芳首相は、自分が大蔵大臣のときに最初の赤字国債を発行した責任を感じ、内閣発足の初めから「一般消費税」を導入して、財政再建に取組もうとした。
しかしその一般消費税は国民に理解されず、自民党は選挙で大敗した。そのため大平首相は深刻な党内闘争に巻き込まれたが、財政再建の路線は必ず国民の理解が得られると考えて、79年11月に第2次大平内閣を発足させた。しかしその志半ばで無念の急逝を遂げてしまった。
この1980年7月17日に、大平総理の急死を受けて鈴木善幸内閣が成立した。この年は、戦後に長く発行が禁止されていた特例公債(=赤字国債)の発行が解禁されて、既に5年の歳月が経過しており、赤字国債の償還が始まろうとしていた。
この赤字財政の継続に危機感を強めた鈴木首相は、1980年度を「財政再建元年」とした。そして中曽根康弘氏を行政管理庁長官に据えて、経団連名誉会長・土光敏夫氏をチーフにした有名な「土光臨調」を発足させた。
そのことにより、4年後には赤字国債からの脱却を目指す積極政策に着手した。
土光臨調は81年3月から、「増税なき財政再建」、「84年度における赤字国債脱却」を掲げて赤字国鉄の民営化に道をひらくなど、2年にわたる激しい活動を始めた。土光臨調は、3度にわたる答申を出し、行政施策、3公社、行政組織、地方行財政に関する制度改革の基本的な考え方について答申をした。
それにもかかわらず、図表-1からもわかるように、80年代の前半には、依然として国家債務は増加を続けており、公債の発行残高は84年に赤字国債から脱却するどころか、83年度の公債残高は、ついに100兆円の大台を突破して、国民に大きな衝撃を与えた。
80年代初頭の不況の直接原因は、79年1月のイラン革命に端を発した石油価格の高騰にあり、それによるインフレ阻止の引き締め政策にあった。
そのため、82年9月に鈴木首相は財政非常事態宣言を出し、さらに82年11月に、鈴木政権は次の中曽根政権にバトンタッチした。
●中曽根内閣におけるバブル発生と無責任な民営化 ―国鉄民営化と「民活」の功罪
中曽根内閣は、その政策の功罪の評価が大きく分かれる政権である。中曽根首相は、鈴木政権の時の行革庁長官をつとめており、当然のこととして鈴木内閣の緊縮財政の基本方針を継承して、90年度における赤字国債からの脱却を目指した。
ところが鈴木政権の80-85年の間に、国際経済の面における日米経済の状況が一変していた。つまりこの間に、アメリカは世界一の債務国になり、日本は世界一の債権国になるという、それまでには信じられないような大きな逆転現象が起こっていた。
そのため、85年9月22日の「プラザ合意」(=日米の為替相場を経済力に見合ったものにするという合意)を期にして、85-90年の日本経済の状況が一変する事態が起こった。このプラザ合意を受けて、85年に1ドル238円であった為替レートは、86年の7-10月には150円にまで上昇した。この急激な円高は、日本の対米輸出に決定的なダメージを与えると思われ、86年に日本経済は深刻な円高不況に突入した。
さらに、87年1月に154円で始まった為替レートは、再び上昇をはじめ、12月には128円まで上昇した。、また、87年には年平均が128円という超円高の水準が定着し、日本の輸出産業には暗雲がたなびいていた。
▲中曽根「民活」の大罪
この円高に恐怖を覚えた中曽根内閣は、87年5月29日、1兆円を下回らない減税と5兆円の公共工事の前倒し発注など、6兆円をこえる大型の景気対策を発表した。
さらに急激な「超円高」の進行から、内需拡大に経済の舵取りを変えた中曽根内閣は、86年5月に「民活法」(=民間事業者の能力活用による特定施設整備促進に関する臨時措置法)を制定して、民間投資を導入して巨大プロジェクトを実施する方式を作りだした。
日銀による低金利と金融緩和政策が加担することにより、大バブル経済への道筋ができた。
中曽根内閣の「民活」方式による巨大プロジェクトの実施は、一見、非常な名案に思われた。すでに85年の段階で日本の国債残高は134兆円に達しており、そこではもはや国家、地方の債務を増やす余地はなかった。しかし「民活事業」では、地方自治体と民間事業者の「第3セクター」が建設事業の主体となっている。
つまり官が企画して民が行なう「民間事業」であるために、国債も地方債も増えない。しかし事実上の公共事業であるから、銀行は無制限に融資してくれる。そのため大規模プロジェクトは、すべてこの形式で行なわれた。
例えば、84年末における内需拡大のための事業規模で、1兆円をこえる大民活事業はつぎのようなものであった。
(1)東京臨海副都心
(2)東京湾横断道路
(3)みなとみらい21
(4)関西国際空港
(5)本四・明石海峡大橋
その結果、87-90年にかけて、田中内閣の列島改造ブームをこえる狂乱的な好景気が作り出された。そして官民の債務は急速に増え続けていった。
しかしこの見かけの好況が作り出したものは、急速な円高と極度な金融緩和によって作られた「バブル(泡)」による経済繁栄にすぎず、89年に日銀が金融引き締め政策に転換した途端に、上昇していた株価、地価などは一挙に暴落した。
あとに残ったものは1000兆円という膨大な不良債権であった。その始末に日本経済はその後、20年にわたって苦難の道を歩むことになる。これが中曽根内閣の「大罪」である。
▲国鉄民営化の功
鈴木内閣の時に始まった土光臨調の最大の成果は、第3次答申に盛られた電信電話公社、専売公社、日本国有鉄道の民営化であり、それは中曽根内閣になって実現された。
まず85年4月に、日本電信電話株式会社(NTT)と日本たばこ産業株式会社(JT)が民営化された。続いて、87年4月に日本国有鉄道が、6つの旅客鉄道株式会社と1つの貨物鉄道株式会社に分割民営化された(JR)。
日本国有鉄道は、既に64年度から赤字が継続しており、81年度の累積債務は16兆4300億円という巨額な規模に達していた。さらにその後も累積債務は急増し、87年のJRへの移行時の「長期債務等」は、37.1兆円に達した。そのうちJRの引き受けが14.5兆円、残りの22.2兆円を国鉄清算事業団が処理することになった。
その後、JRはこの債務を忠実に返済したものの、清算事業団のほうは10年後に債務が28.3兆円に増加しており、やむなく98年10月、政府により処理された。(角下良平「三つの民営化」流通大學出版会、170-171頁)
●「橋本改革」から「小泉改革」へ
橋本改革については、「どこへ行く日本」の「2.失われた90年代」で取り上げた。それが橋本内閣による「6大改革」であり、その中に小泉改革の前段をなす財政改革や省庁改革があった。96年10月の選挙で自民党は再び政権の座を回復しており、橋本龍太郎首相による自民党単独内閣が成立した。
政策通をもって知られる橋本龍太郎首相は、96年11月の国会において、行政、経済構造、金融システム、社会保障、財政構造、教育の6大改革を、「火だるま」になってやりぬく決意を表明した。それはあまりに大風呂敷を広げすぎており全体像が見えにくいが、そのなかで財政構造改革だけは大蔵省を中心にして先行した。そして政府は2005年までのできるだけ早期に、「財政健全化」を行なう目標を明確にした。
その橋本財政改革の大きなポイントの一つが、長い間、第2の予算と呼ばれてきた財政投融資制度の改革であった。それまでは郵便貯金、厚生年金・国民年金の積立金、簡易保険の資金などが、そのまま大蔵省の資金運用部に移されて、大蔵省の資金運用部の組織を通じて国債や特殊法人など、効率の悪い資金運用に回されてきていていた。
それを橋本改革においては、大蔵省の資金運用部を廃止し、特殊法人の資金は財投機関債を発行して、金融市場から資金を調達する仕組みにした。そして郵便貯金、厚生年金・国民年金、簡易保険の資金運用は、所管組織の自主運営に切り替えられた。この改革により、政府資金が自動的に効率の悪い国債や特殊法人の資金に自動的に組み込まれていくそれまでの制度は、大きく変化した。
その結果として、全国の郵便局で集めた国民の貯金を新しい組織である財務省が、財投資金として自動的に利用することはできなくなった。そのため特殊法人の資金調達は、それまでの財政投融資から、個々の財投機関が発行する財投機関債の発行に変更する必要が出てきた。
財投機関債は金融市場で売り出されるため、効率の悪い債権は売れなくなる。そのため採算に乗らない特殊法人は、自然に市場で淘汰されることになる。そして郵便貯金は財務省から離れて、新しい金融機関として自主運営されることになった。これにより公的金融の効率化が自然に出来上がるであろう、というのが、橋本改革とそれを受けた小泉改革の考え方であった。
問題は、公的金融の効率化が実際にそのようにうまくいくかどうかである。しかし、少なくとも橋本改革により、国家財政における見かけの財投資金残高は、2000年度の417.8兆円をピークにして減少をはじめ、2004度は335.5兆円まで減少した。
しかし財政投融資の廃止後も、国家債務に財投債の残高を加えた債務残高は依然として増加を続けており、今しばらく観測を続ける必要がある。しかし今後、郵便貯金の自主運営により効率の悪い財投機関債の購入に資金が利用されないようになれば、効率の悪い特殊法人の淘汰につながるし、そうでなければ、日本の財政危機は更に見えない形でガンのように進行する。そのことに明確な歯止めをかけていないことが、橋本と小泉両改革の致命的欠陥である。
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