21.ゼロ金利時代 ―金融失政の10年
(1)史上はじめてのゼロ金利 ―世界に類例のない失政か?
日本経済は、1980年代以降、それまで経験した事のない大きな金融変動や政策を経験することになった。その代表的なものが、1999年2月から始まったゼロ金利政策である。
これもバブルを発生させ、平成大不況を引き起こしたことに続く日銀による大金融失政ではなかったか?
そこでは日銀により、短期金利が果てしなくゼロに近い値に誘導された。そして国民の預金は全く増えなくなり、加えて、国民にはそれまで考えたこともない銀行倒産の危機が身近に強まった。そして日本国民は大切な自分の預金が、ある日突然なくなくなる不安におびえる日々を体験することになった。
ところが一方の金融産業は、ゼロ金利という異常な好条件に恵まれ、経営能力を向上させる絶好な機会にも拘らず、経営改善の努力もしないうちに、周囲の状況の変化により高収益に転換した。これは本来、預金者に行くべき利益が、金融産業に政策的にシフトしたに過ぎず、世界に類例のない大金融失政であったと考えられる。
そこで登場してきた「ゼロ金利」という、世界に類例を見ない極端な金融政策により、日本国民はそれまで考えた事もない外貨での預金を経験するようになり、さらに為替相場の下落から、金利は高いものの元金が減少して損失を蒙ったりした。
また外人投資家が、ゼロ金利を求めて日本の資金を外国で運用して利益を得る、「円キャリー」という国際的投機も経験するようになった。
このような外国資本の日本への流入により、日本経済は今まで以上に金融政策に対する国際的配慮が必要になった。そのため、緊急避難的対策として始めたゼロ金利政策は、その開始から10年もの長い間続くことになり、日銀はこの異常な金利政策から抜け出せない日々が今なお続いている。さらに2007年秋以降の、サブプライムローンの危機と異常な原油高による世界的な経済恐慌の危機のなかで、もはや日本は異常な低金利から脱出する機会を失ってしまった。
また、この超低金利が日本経済の体質となり、日本の企業は通常の金利水準にも耐えられない企業体質が一般化しており、その終焉のときには想像を超える大きな経済混乱を迎えるであろう。今回は、この問題を考えてみたい。
●「ゼロ金利」とは何か? −資本主義失格の金融政策!
まず「金利」とは何か? を考えてみる。資本主義社会における貨幣には、物を購入する際の「支払い手段」としての側面のほかに、今ひとつ、それを元手にして利益を作り出す「資本」としての側面がある。
貨幣を資本として利用する場合、「金利」は「資本」に対応する概念であり、資本が生み出す「期待利益」であると同時に、「資本の利用コスト」に等しい。
金利におけるこの両者の関係は、「期待利益」がそのミニマム値であるのに対して、「資本の利用コスト」はそのマックス値になる。その意味で、金利は理論的には両者の「ミニマックス値」として決定される。
つまり「金利」とは、資本が投下された場合の期待利益のミニマム値であると同時に、その資本を利用するコストのマックス値を示すものである。
さてその「金利」がゼロになるということは、資本の期待利益とコストが共にゼロになることを意味している。つまり投下された資本の期待利益がゼロになることは、資本を調達するためのコストもゼロになるということである。
投下資本の期待利益=ゼロということは、資本主義社会では通常、ありえない。なぜならば、それでは投資動機が失われて、資本主義が成立しなくなるからである。
その段階では、資本調達コストもゼロになるが、それは理論的には考えられるものの、現実にはありえない。なぜならば、そこでは銀行の営業が成立しなくなるからである。
ところがその現実にありえないことが、金融危機の日本で起こった。それは日本銀行が、短期資金の期待利益をゼロと仮定して、資金を貸し出す決定をしたからである。
それはこの時点で、日本経済が資本主義として失格したことを意味する。この脱資本主義的な政策に日本が踏み切ったのは、1999年2月12日のことであった。
この政策を決定した日銀総裁は速見優氏、そのときの大蔵大臣は宮沢喜一氏、総理大臣は小渕恵三氏であり、当時、それほどまでに日本の金融経済は危機的状態に追いつめられていた。
そのときの率直な感じは、新日銀法の発足により政界、財界から独立性を強めた日銀が、この未曾有の経済危機のなかで「ゼロ金利」にすれば誰も文句はあるまい!と啖呵を切ったような思い切った政策であった。
しかしその一方でこの政策は、その後の日銀による金融政策の自由度が大きく失われる危険性を持った決定であり、一時的・緊急避難的な措置であるとも思われた。
それがまさか10年も続き、日本経済を変質させる事になるとは、当時、全く想像もできなかった。
ゼロ金利の状況では、資本主義的な競争原理が働かなくなる。なぜなれば資本コストがゼロであるから、どのような無能な経営者でも、全くリスクなしに投資による利益がでるからである!そこでは、金融コストがゼロであるため、リスクを避けて企業競争をしないことが最良策となる。それは最早、資本主義ではない!
そこでは企業競争でリスクを犯してマイナスになるより、競争を避けて日本で調達した資金を外国へ預金をしておけば、確実に利益を得る事ができる。
これは将に社会主義的論理であり、資金を借りる事が出来る人は利益にあずかり、資金を借りられない人は利益にあずかれない。
それは社会主義社会のノーメンクラツーラ(=特権階級)たちが自分の権力の立場や地位を利用する手の代表的なものであり、経営能力とは無縁であるのみか、資本主義的競争原理とも無縁のものである。
●ゼロ金利政策は何故生まれたか?
では、何故このような異常な政策が生まれてきたのか? 簡単に言えば、このような政策をとらなければ生き延びられないほど、バブル崩壊後の巨大な不良債権を抱えた日本の金融機関が病んできていたことにある。
そこでは、わが国の金融機関をまとめてICU(集中治療室)に入れなければ、日本経済自体も生きていけないことがはっきりしてきた。つまり日本経済の根幹を成す瀕死の金融機関を、まとめてICUで治療する緊急救命措置こそが、「ゼロ金利政策」であったといえる。
しかし問題は、その緊急救命的政策が10年も続いたため、患者である日本の金融機関はゼロ金利を解除して、雑菌だらけの国際金融市場に戻された後に、無事に生きていけるかどうかが懸念されるほど、その間に体力が低下した。
さらに悪い事には、銀行の経営者たちは、その体力の低下を認識せず、最近の業績好転があたかも自分たちの努力の結果と誤解し始めていることである。
このゼロ金利政策に立ち至った情況から振り返って見てみよう。
今から10年前の1997年の段階において、ときの橋本内閣はバブル崩壊による膨大な不良債権の本質を全く理解せず、「日本版ビックバン」と称する金融改革に取組んでいた。
ところが97年5月のタイにおける通貨バーツの暴落に始まったアジア通貨危機は、その年の秋口から日本経済に深刻な影響を与え始めた。
97年11月に入ると三洋証券が倒産し、戦後初めてコール市場におけるデフォルト(債務不履行)が発生し、その後の連鎖倒産の口火を切った。そして同月、政府系の北海道拓殖銀行が破綻、続いて4大証券の一つである山一證券が破綻、さらに徳陽シティ銀行が破綻して日本の金融危機は一挙に深刻化し、日本発の世界恐慌の発生が現実化してきた。
大蔵大臣と日本銀行総裁は、連携して金融危機の沈静化につとめたが、預金保護の対象となっていない金融債や金銭信託の換金の動きがはげしくなり、金融システムの機能停止が懸念される状況になった。
そのなかを11月に財政構造改革法が通過し、日本国内における経済問題、連続的な日本における金融機関の破綻、それにアジア通貨危機が加わり、わが国の金融システムに対する信頼はさらに大きく下落した。
このような状況の中、早期に金融システムの安定化をはかる緊急措置として、預金保険法の改正と金融機能安定化緊急措置法の制定が提案されて、98年2月16日に成立した。
これにより国債と政府保証を合わせて30兆円の公的資金の活用が可能となり、預金の全額保護の体制整備と、金融機関の自己資本の充実をはかることができるようになった。
この重要な98年の前半期、大蔵省は数々の不祥事により殆ど発言の機会を奪われて、機能が停止した状態にあった。そのため、これら一連の金融問題は、立法府を中心にした政治主導で行なわれており、98年6月22日には大蔵省が解体されて、金融庁が発足する事態になった。
98年10月16日に、金融再生関連法と金融機能早期健全化法が成立し、銀行が破綻した場合の処理やそれを未然に防止するための諸制度がようやく整備されてきた。
そして年末になり、金融システム改革の一括法が施行されるとともに、金融再生委員会が発足して、金融危機への対応策が辛うじて出来上がった。
このように、日本がかつて経験したことのない深刻な金融危機が進行するなかで、98年11月11日に国際的な格付け機関のムーディーズが日本国債の格付けをAaaからAa1へ下げると発表した。これを受けて、12月から1月にかけて、日本の国債の利回りが急激な上昇を見せ始めた。
この更なる金融・財政危機の進行に苛立った自民党は、金融危機の解消策の主要テーマとして、日銀による国債引受の受け入れを決定?した。
日銀による国債引受の政策は、戦前に採用されてその後に大インフレを招来した苦い経験から、戦後は財政法第5条により禁止されてきたものである。しかし自民党の財政・金融族は、99年の初め、この政策の復活を求めて、日銀に圧力をかけてきていた。
つまり日銀が99年2月に、ゼロ金利という極端な政策へ踏み切った背景には、これらの政治圧力に対する、日銀の反発と思惑があった。
日銀は、アメリカのFRB、イギリスのイングランド銀行、ドイツのブンデスバンクに並ぶ、国の中央銀行である。しかし、世界銀行が中央銀行の政府からの独立性を測った指数では、日本銀行は先進21か国中19位という後位に位置づけられている(92年版「エコノミック・レビュー」)ほど、政府への従属性が強い中央銀行であった。
それがようやく1997年6月に、日銀の独立性をうたった新日銀法の改正が行なわれ、これにより従来の大蔵省の統制からはなれて、自主的な一歩を踏み出すことになった。
その新生日銀の出発の第1歩が、このゼロ金利政策であった。
このゼロ金利という異常な金融政策を実施した日銀の速水総裁は、その政策の異常性を誰よりも認識していた。そのため、翌2000年8月にはこのゼロ金利政策に終止符を打つために、はやばやと0.25%金利の引上げを決定した。
しかしこの日銀による僅かな金利引き上げは、日本の政・財界にごうごうたる非難の声を巻き起こした。そして2001年に日銀は、再びゼロ金利へ戻させられただけでなく、当座預金残高を果てしなく増やしていく、インフレ・ターゲットの政策への大転換を迫られることになった。これは明らかに、日銀の無条件降伏ともいえるものである。
この2000年8月の日銀によるゼロ金利政策の解除は、通常は日銀の速水総裁の政策ミスと考えられている。しかし私には日銀の政策ミスは、むしろ最初のゼロ金利政策を採用したことにあったと思われる。
このとき、例えば0.25-0.5%という最低限の金利水準を設定して、それ以下のゼロ金利水準を排除していれば、その後の日銀の金融政策は大分違ったものになったであろう。
つまりゼロ金利ではなく、日銀の金利政策の自由度が少しでも残されていれば、日銀はそれから10年の金利政策を、もう少しきめ細かく行なうことができたと考えられる。
しかし、日銀はゼロ金利という極端な政策を最初から採択したため、微妙な金利政策への道がすべて絶たれた。それこそ日銀による重大な政策ミスであったと私は思う。
●ゼロ金利政策の経過
そこで、ゼロ金利政策の経過の粗筋をまず眺めて見よう。
1999年2月12日、日銀政策委員会はそれまで無担保コールレート翌日物の金利の誘導目標を0.25%に設定していたものを、0.04%以下のゼロ目標に設定することを決定した。
これが「ゼロ金利政策」であり、既に述べたように史上に類を見ない極端な政策であった。そして、この実質的なゼロ金利は、99年3月までに実現された。
4月には、日銀総裁は記者会見して、このゼロ金利政策はデフレ懸念が払拭されるまで継続することを表明した(時間軸政策)。
ところが、このような極端な金利引下げにも拘らず、金融市場にはフシギなことに逆のマイナス効果が現れていた。つまり日本の金融市場には、99年の夏以降、逆に金融引き締めに似た効果が現れていた。
そこでは円高が進行しており、そのために円売りの為替介入が行なわれたほどであった。それは、ゼロ金利の円資金を求めて、外国の投機資金による円買いが始まったことによるとも考えられる。
その結果、ゼロ金利政策でもなお不十分であるとして、インフレを目指して超金融緩和を求める圧力が日銀に加わり始めた。9月16日に宮沢蔵相は速見総裁に金融緩和を迫り、12月末に与党3党はペイオフの解禁の延期を決定。日銀に量的緩和策の拡大とインフレ・ターゲットの採用を逼る大合唱が始まった。
一方の日銀は2000年の春、一時的に円高局面が終息したため、このゼロ金利からの脱却を模索し始めていた。そして8月17日、政府与党の猛反対を押し切り、日銀はゼロ金利政策を解除し、コールレート翌日物の誘導金利を0.25%に引き上げた。
このゼロ金利政策の解除後の8月28日、日経平均株価は1万7千円台を回復し、市場には年末に2万円台に乗せるとする声まで出たものの、1万7千円台の回復は僅か3日で終わり、再び、景気減速の暗雲が日本経済を包み始めた。
この深刻な状況に対して、政府は01年3月16日、初のデフレ宣言を出した。
ちなみに2年以上の継続的な物価下落を「デフレ」と呼ぶ。この段階においてOECDの先進国でそのような状況が生じているのは日本だけであった。
政府のデフレ宣言を受けて、日銀は物価下落と実体経済の縮小の相互作用による不況が加速するデフレ・スパイラルに落ち込むことを、防ぐ必要があった。
そこで日銀は2001年2月28日、短期誘導金利を0.25%から0.155%に再び引き下げ、さらに公定歩合を0.35%から0.24%に引き下げた。また、2月9日にロンバート型貸し出しの新設を含む金融緩和策と公定歩合の引き下げを行い、3月19日には日銀は戦後始めてのインフレ促進政策ともいえる金融緩和(量的緩和策)に乗り出した。
それは当初の当座預金の残高目標(最初は5兆円、年末に15兆円)を設定し、日銀による国債購入額も8月には月4千億円から6千億円に増額した。
つまり政府、日銀により形振りかまわぬ金融政策が総動員されたにも拘わらず、2001年9月のニューヨークの同時多発テロ以後、世界的な金融不安が再燃し、東京市場の株価は9月12日には、84年8月以来の9千6百円にまで下落する状況になった。
この段階で政府、日銀の金融政策は、最早、完全に智恵を失い、当座預金残高をただただ増やし、国債の日銀引受をひたすら増やすことを繰り返すばかりになった。
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