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  (3)日本国憲法改正をめぐる攻防(その1)
 日本国憲法は、それが施行された翌年から、国内・外の権力による強い改憲圧力に曝され始めた。しかし憲法を改正しようとする政治的圧力に対して、改正に反対する勢力の力も大きく、当初の予想に反して50年もの長い間、憲法は一度も改正されないまま現在に到っている。

 この間の憲法改正をめぐる攻防を、次の3つの段階に分けて考えてみる。
第1段階 被占領下における憲法改正 ―GHQ+吉田連合軍vs.アメリカ国務省
第2段階 日本国・独立による憲法改正 ―鳩山、岸政権vs.国民
第3段階 国際情勢の変化による憲法改正 ―日米同盟vs.国民
 
●第1段階―日本国憲法を後悔したマッカーサーと利用した吉田茂
 日本国憲法が制定された当初、日本とアメリカの双方とも、対日講和条約の締結と共に、日本国憲法は改正されると考えていた。
 しかし実際に憲法が改正されないままきた最大の理由は、対日講和条約(1952.9.8)が締結されたのが朝鮮戦争(1950.6.25−1953.7.27)の真っ只中であったことよる、と私には思われる。
 
 1950年(昭和25−)代初頭の段階において、アメリカ国務省は明らかに日本が自発的に憲法を改正して再軍備に乗り出すことを願っていた。そのための特使として国務省・顧問のダレスは何度も日本を訪れてGHQや吉田首相その他と協議し、憲法改正・再軍備を日本に迫った。
 この間、GHQと吉田首相は、その理由は異なるが、共に憲法改正には消極的であった。そのため、昭和26(1951)年9月の対日講和条約の締結と共に憲法は改正されることはなかった。

 憲法改正の代わりに「日米安全保障条約」が締結された。日本は再軍備をしなかった代わりに、独立後にアメリカ軍の日本駐留を許し、外国の軍隊が独立国日本の防衛の任に当たるという奇妙な関係が始まった。
 講和条約が発効した昭和27(1952)年4月28日の段階においても、日本にはまだ「警察予備隊」しかなく、国家防衛の能力はなかった。この「警察」の一種である組織に、旧軍人を大量に幹部として採用することにより、実質的な軍隊としての機能を強化し始めたのは、独立から3ヵ月後の7月14日のことであった。

 アメリカの国務省は、既に昭和25(1950)年6月から始まった朝鮮戦争の段階において、日本軍が、国連軍に参加して北朝鮮軍や中国義勇軍と戦ってくれることを明らかに期待していた。しかし厄介なことには、日本には自衛のための戦力すら保有を禁じている憲法が存在している。
 しかもその憲法は、国連軍の総司令官・マッカーサー元帥自身が、わずか3年前に日本に押し付けたものである。アメリカは、この矛盾に悩み、後悔していたと思われる。

 一方、日本政府は講和条約締結により独立した段階で憲法改正が必要であると考えてはいたものの、1950年代初頭には、まだ経済的な戦後復興が終わっていない。
 その上に、憲法改正の結果、朝鮮戦争に出兵し多額の軍事費を負担するのはどうしても避けたい。そのためには、マッカーサーが日本に押し付けた憲法を絶好の防波堤にして、軍隊を持たずに軍需産業による経済面で、アメリカと関わるのが最も得策であると考えた

 1950年代の初め、マッカーサー自身も3年前に自分自身が日本に憲法草案を与えたことを後悔していたと思われる。その証拠に、日本国憲法草案のチーフを務めたニューディラー左派のケーディス大佐を、昭和23(1948)年12月8日にマッカーサーはカバン一つで本国に帰国させていた。
 そして、日本国憲法から自衛力まで奪ったマッカーサーは、昭和25(1950)年1月1日の年頭にあたり、日本国憲法は自己防衛の権利を否定していない、と言明した。これは明らかに彼自身が日本に与えた「戦争放棄」の理念の放棄であった。

 昭和25(1950)年6月25日に始まった朝鮮戦争では、開戦2日目に韓国軍が総崩れになるという状態になり、韓国軍と北朝鮮軍の戦争は、アメリカと北朝鮮軍の戦争に転化していた。しかもこの頃のアメリカ軍の戦力は、太平洋戦争当時に比べて、恐ろしく低下していた。そのことは在日米第8軍の司令官であったアイケルバーガー中将が、朝鮮戦争以前から心配していたところであった。

 そのため、この段階においてマッカーサーが本当に頼りにしたものは、おそらく精鋭日本軍の朝鮮戦争への投入であったと思われる。彼はアイケルバーガー中将がかつて提言していたことを思い出し、国連軍最高司令官の権限により、吉田首相に対してとりあえず「75,000人の警察予備隊を設立」することを命令した。開戦から13日目のことである。

 当時、在日米軍事顧問団幕僚長であったフランク・コワルスキーは著書「日本の再軍備」の中で、「当時の米国軍隊の中で、マッカーサー元帥を除いて誰があれだけの自信と自惚れと真の勇気を持って、日本の再軍備を命じることができたであろうか。彼はポツダムにおける国際協定に反し、極東委員会よりの訓令を冒し、日本国憲法にうたわせた崇高な精神をほごにし、本国政府よりほとんど助力を得ずして日本再軍備に踏み切った。」(袖井林二郎「マッカーサーの二千日」、中央公論社、310頁)と皮肉を交えて書いている。

 昭和26(1951)年1月1日、北朝鮮軍は、38度線を越えて南下し、1月4日に国連軍はソウルを放棄した。「国連軍最高司令官」マッカーサーは、この年の年頭の辞において集団安全保障と講和条約の締結について述べている。
 このときの彼の発言は、明らかに日本と講和条約を締結することにより、日本を集団安全保障の一翼に組み込むことを狙っていたと思われる。

 昭和25(1950).6.25−昭和28(1953).7.27まで3年間続いた朝鮮戦争において、日本は掃海艇の出動や兵器・物資の輸送まで「湾岸戦争」の時以上に米軍に対する事実上の支援活動を行っている。しかし、憲法改正まで至らなかった。
 その理由は、尊大な将軍であるマッカーサーは自分が与えた日本国憲法をわずか3年で変えることを、名誉にかけてもやりたくなかったからだと思われる。また日本側の吉田首相は、昭和24(1949)年のドッジラインによる緊縮経済から、瀕死の状態にある日本経済の中で憲法を改正して本格的な再軍備を行うより、経済再建を優先させたかった。

 このマッカーサーと吉田茂の不思議な護憲連合1950年代初頭の講和条約成立後の憲法改正を阻んだように思われる。しかし憲法改正の環境としては、1950年代初めの吉田内閣の頃は、意外に改憲を実施しやすい国内環境にあったのである。
 まず国会では、保守党は自由、改進ほかの党派に分裂し、参議院には緑風会という保守系無所属の会派などに分かれていたものの、これらの保守勢力を合わせると50年代の中頃までは、国会の議席で改憲発議に必要な3分の2を超えていた

 つまり吉田首相は、憲法改正を本当に実施しようと思えば出来る状況にあったしかし彼は憲法を改正せず、経済復興を優先させながら防衛力を漸増させる方向を選択した。そして昭和26(1951)年11月22日に旧陸・海軍人を招き、日本国憲法下でそれを改正しないで、最小限の防衛力を漸増させていく方法を論議している

 憲法改正の世論を見ても、昭和27(1952)年1月の読売新聞の調査では改憲賛成が、47%、反対が17%であり賛成は反対を大きく上回っていた世論を意識的に喚起すれば、改憲のための国民投票により過半数を獲得することも夢ではなかった。

 この状況は、昭和25―(1950)年代の後半に大きく変化する。それは「55年体制」が出現したことによる。そのため、同じ読売の調査を見ても、昭和30(1955)年2月の調査になると、賛成が41%、反対が30%となり、50年代後半期に入って、改憲反対が増加してくるのである
 特に戦争放棄に関する第9条の改正の賛否を見ると、昭和27(1952)年2月には、改正に賛成が31%、反対が32%、分からないが37%であった。しかし、5年後の昭和32(1957)年11月の調査では賛成32%、反対52%、分からない14%となり、更に5年後の昭和37(1962)年8月には、賛成26%、反対61%、分からない13%となり、憲法改正反対が50年代の後半には、国民の過半数を占めるようになった。
 (渡辺治「政治改革と憲法改正」、青木書店、pp.238-239)

 つまり1950年代の後半から1960年代にかけて、9条を含む憲法改正の反対が急激に増加していった。この時期は、鳩山一郎、岸信介などが、憲法改正により戦前型の日本国家の構築を目指した時期にあたり、多くの国民はこの頃から日本国憲法の改正に反対する姿勢を明確にし始めたことが分かる。

●第2段階 −鳩山・岸内閣による戦前型日本の復活志向と憲法改正
▲「55年体制」の成立と改憲を目指す鳩山内閣
 昭和30(1955)年10月13日に、それまでの左、右社会党が合同して衆議院の議席の33.2%を占める社会党が発足した。日本の近代史上において社会主義政党がこれだけの勢力を獲得したことはかつてない。その目指すところは、民主主義の下での「階級闘争」、議会政治を通しての「社会主義革命」であった。

 この社会党の進出に危機感を持った保守政党の自由党と日本民主党は、その翌月の11月15日に合同して「自由民主党」を結成した。これが現代日本の政治的基点となった「1955年体制」の始まりである。
 ここに保守・革新が対決する形での戦後日本の政治体制が作り上げられた。

 この初期の自民党を代表する政治家が鳩山一郎と岸信介である。共に戦前の政治家であり、占領時代には、鳩山は公職追放、岸はA級戦争犯罪人として巣鴨刑務所に囚われており、共に政治活動から排除されていた
 当然のこととして、この2人の政治家には、戦前型日本の復活を目指そうとする復古主義的な憲法改正への志向が強かった。

 昭和29(1954)年12月10日、占領時の日本政治を代表した自由党の吉田茂・内閣に代わり、民主党の鳩山一郎・内閣が発足した。鳩山一郎は首相に就任早々の昭和30(1955)年1月10日に、アメリカ占領下で作られた日本国憲法の改正への取り組みを表明した
 しかし2月27日の衆議院選挙の結果は、与党である自由党と民主党合わせて297議席で3分の2に達せず、逆に左右社会党の議席が3分の1を超えた

 それでも鳩山内閣は、憲法改正に向かって憲法調査会法案と国防会議構成法案を国会に上程したが、共に流産に終わった。しかし、55年夏には「自主憲法期成議員連盟」を発足させ、憲法の改正点を発表した。
 昭和30(1955)年は、いわゆる「55年体制」の発足の年である。
 10月13日に左・右社会党が合同して「社会党」ができ、11月14日に保守合同が実現して、その直後の11月22日に第3次鳩山内閣が発足した。
 この自民党最初の内閣は、その所信表明において、憲法改正による自主独立国家の形成を公約の第一に掲げた。
 
 鳩山内閣のこの憲法改正の方針は、社会党による護憲運動と激突した。
 憲法調査会法、国防会議構成法は成立したものの、翌年7月8日に、改憲か護憲かを主要テーマとして行われた参議院選挙において、改憲派は、衆参両院合わせて3分の2の議席数を確保できず、以後、改憲問題は政治の表舞台から姿を消した

 鳩山首相は首相として最初の「明文改憲論」者である。従来、自衛隊は違憲であると主張していた人物が首相になったため、政府は憲法9条と自衛隊に関する解釈を統一する必要に迫られることになった
 その第21国会における憲法9条の「戦力」の解釈について、衆議院予算委員会での河野蜜委員の質問に法制局長官が次のように答えている記録がある。

 社会党の河野蜜委員が、憲法9条のどこに自衛のための軍隊ならばよいと書いてあるか?と訪ねたのに対して、日本は独立国として「固有の自衛権」を放棄していないので、自衛権を行使するための武力抗争は放棄していない
 従って、憲法は国土が外部から侵害される場合、国の安全をまもる国土保全のための自衛力を禁止しているわけではない、と答えている。しかし、この答弁における「固有の自衛権」なるものが、9条では全く明らかにされていない。

 鳩山一郎という人は、学者・政治家のくせに「首相」としての発言の重みを殆ど理解していなかったようである。そのため、昭和31(1956)年1月31日には、軍備を持たない現行憲法には反対であると、首相が現行憲法を否定する答弁を行って後で取り消したり、2月29日の衆議院予算委員会では、自衛のためなら敵基地を攻撃してもよい、と発言して直ちに取り消したりしている。

 それらを見ると、憲法を遵守すべき内閣総理大臣の国会での答弁としては、ほとんど信じがたいほどの軽さであり、この首相答弁と上記の法制局長の自衛権解釈と合わせると、どのような侵略戦争も全て合憲になるであろう。

▲岸内閣と日米新時代
 鳩山一郎に続いて戦後の憲法改正に取り組んだ首相は、岸信介である。
 岸は、戦前の東条内閣の閣僚を勤めて、戦後の軍事裁判でA級戦争犯罪人として巣鴨刑務所に収監されていた。この戦前派を代表する人物が、戦後の政治世界に復活して、政治家の頂点である総理大臣に上り詰めたのは、昭和32(1957)年2月25日のことである。
 
 岸は、戦前の侵略戦争の最初となった日本の植民地・満州で勇名をとどろかせた「2キ、3スケ」の一人であるこのような極端な復活は、西欧の現代政治史ではまず考えられないことであるが、その裏にはCIAの意向があったといわれる。

 ちなみに、「2キ」とは、東条英機(関東軍憲兵司令官、後に日米戦争開戦時の総理大臣、A級戦犯として絞首刑)、星野直樹(大蔵省財務局長、満州国総務長官=事実上の総理大臣)の2人である。
 また「3スケ」とは、松岡洋介(満鉄総裁、近衛内閣外務大臣、A級戦犯として病死)、鮎川義介(日産コンチェルン創始者、満州重工業をつくり満州開発、戦後は参議院議員)、岸信介(星野の下で満州の植民地政策に貢献、東条内閣の商工大臣、A級戦犯、戦後に総理大臣)の3人のことである。

 この日本による満州侵略の重大な責任者の一人が岸信介であり、その人物が戦後の日本に再び登場して総理大臣にまでなった。これは、まさに戦前において「昭和の妖怪」と呼ばれた人物に相応しい驚異的な復活であった。
 CIAの研究家であるデヴィッド・コンデによると、アメリカ議会が国家安全保障法を可決してCIAを作った昭和22(1947)年に、CIAと国防省の政策立案者たちは、日本を軍事的に強力化するために、岸信介を巣鴨刑務所から釈放して、日本に親米政府を作ることを策謀したといわれる。(岩川隆「岸信介研究―巨魁」、p.150)
 その意味では、戦前、日本のための満州経営に携わった岸は、戦後、アメリカのための日本の「満州化=植民地化」の役割を演じたといえる。

 岸は、政界へ復帰した時から吉田に批判的な立場をとり、憲法改正を渋る吉田に対して、当初から積極的に改憲の意欲を燃やしてきた。昭和28(1953)年12月15日に、岸は自由党憲法調査会の会長に就任し、保守勢力の中でも改憲派の指導者となった。
 昭和29(1954)年5月に、同調査会は5つの分科会を作って論点の整理を行ない、その結果を11月5日に「日本国憲法改正案要綱並びに説明書」として発表した。

 この要綱の内容は、前文において「わが国が独立回復により、わが国の歴史と伝統を尊重し、国民の意見に基き、自主的憲法を確立する旨を明らかに」して、日本独立後の自主憲法の性格を明確にした。
 この自主憲法の第一のポイントは、現行の天皇の「象徴」制をやめ、「天皇は日本国の元首であって、国民の総意により国を代表する」と規定し、天皇を元首の座に戻したことである。
 また明治憲法における「天皇の大権」である宣戦の布告、非常事態宣言、条約の批准、官吏の任命など、を「天皇の行為」として復活させた。

 第9条の関係では、「国の安全と防衛」という1章を設けて、侵略戦争の放棄を前文にうたいつつ、「国力に応じた最少限度の軍隊の設置」を規定した。軍の最高指揮権は総理大臣に置き、国防会議、軍の編成、戦争・非常事態の宣言などを行えるように規定している。

 徴兵制は直接規定していないものの、国防、順法、国家に対する忠誠の義務を規定し、基本的人権についても、社会の秩序維持、公共の福祉のため制限できる、とするなど、極めて復古主義的性格が強い草案であった。
 
 岸が総理大臣に就任する10日前、マッカーサー元帥の甥であるダグラス・マッカーサー2世が、駐日大使として日本に赴任してきた。そのときから岸の日米交渉は、この大使との間で、秘密裏に緊密に進められた。
 アメリカは、日本の憲法改正と防衛力の強化を最優先に考えていたが、岸は吉田が締結した「日米安保条約」の「全面改定」への日米交渉を優先させることに成功した。

 このマッカーサー大使との交渉を基に、総理大臣に就任するやいなや岸は訪米の意思を表明して周囲を驚かせた。現在の日本で、新しく総理大臣に就任すると、早速、訪米してアメリカの大統領と会談する慣習は、岸に始まったといわれる。
 岸は、訪米前の5月20日から2週間にわたってアジア各国を歴訪した。そのねらいは、日米関係を対等なものにするために、まずアジアの中心が日本であることをアメリカに認識させることであったといわれる。
 これはまさに戦前の「大東亜共栄圏」思想の現代版ともいえるものであった。
 
 昭和32(1957)年6月16日、岸首相は、羽田を立ち、日米安保条約改定に向けて訪米し、この訪米によって、安保条約改定交渉への道筋がつけられた。国務省顧問のダレスは、安保条約の改定のためには、まず日本の憲法改正、防衛力の強化を先行させるべきと考えていたが、この岸の訪米によって、その順序は逆転し、まず安保条約改定交渉が先行することになった。

 その年、岸訪米の後で、アメリカとしては全く予期しなかった大事件が発生した。それは10月4日のソ連による人工衛星スプートニクの打ち上げ成功である。その結果、翌年、アメリカ側の方が積極的になって日米安保条約の改定に乗り出さざるをえない事態に追い込まれた。
 
 このソ連の人工衛星の成功よって、水爆を搭載したソ連の大陸間弾道弾は、ソ連本土から直接、アメリカの全土を攻撃できる時代に入った。そのため従来のアメリカの極東戦略は、全面的に見直す必要にせまられることになった。
 そして日本の戦略的位置は、朝鮮戦争当時の地上戦を前提にしたものから、ソ連との核戦争を想定した場合の戦略的役割に変わった。
 それが日本の憲法改正の前に、日米の安保条約の改定を優先させることになったアメリカ側の理由である。

 岸首相の発言は、この頃から激しくエスカレートしていった。
 昭和33(1958)年3月28日の衆議院内閣委員会の答弁において、在日米軍基地が攻撃された場合、それは日本への攻撃であると答えた。
 同年10月9日、NBCのネットワークから流れた岸の談話は、アメリカと日本の双方を驚かせた。彼は「日本が自由世界の防衛に十分な役割を果たすために、憲法から戦争放棄条項を除去すべきときがきた」と宣言して、更に、「中共は侵略国であり、日本は中共を承認しない」ともいった。
 
 10月9日におけるこのNBCのセシル・ブラウン記者とのインタビューの中では、海外派兵を禁じる憲法改正、第9条の廃止を語り、中共、ソ連など共産主義政権を名指しして敵視した。更に、日本の安全確保のためには韓国、台湾の防衛が必要であること、など、そこでは見事にアメリカ国務省のダレス路線に沿った見解が表明された

 昭和34(1959)年3月9日、岸首相は、衆議院予算委員会における答弁において、ミサイル攻撃に対して敵基地を攻撃することがありうると答え、更に3月12日には、防御用の小型核兵器を持つことは憲法に違反しない、とまで答弁した。
 もし現行憲法の規定において、そこまでの自由な軍事力の保有や行動が許されるのであれば、もはや憲法9条の改正は不要であり、現行憲法で十分であろう。

 昭和35(1960)年1月19日、岸内閣による新日米安保条約の調印が行われた。
 この新条約は、吉田内閣が講和条約と同時に締結した安保条約を、一歩進めて日米軍事条約に格上げすることをねらいにしたものであり、6月20日に発効することが予定されていた。

 この岸の強硬路線を受けて前年の4月15日の国民会議の呼びかけから始まった国民運動は、それから1年以上にわたって日本列島を、史上空前、絶後ともいえる全国民的政治闘争の渦に巻き込むことになった。
 「安保条約改定反対!」のスローガンには、更に「民主主義を守れ!」「岸内閣を倒せ!」というスローガンが加わり、日本中がかつて経験したことのない大政治運動を経験することになった。

 新安保条約の反対運動は、この条約が発効する6月20日に向かって全国民的な盛り上がりを見せて拡大していった。その反対運動は、更に、岸内閣の背後にあるアメリカ帝国主義に対する反米運動に発展し、6月4日の安保改定阻止統一行動には全国で560万人が参加、6月15日には580万人が参加し、連日、国会の回りはデモ隊に埋め尽くされた。そして6月15日夜には、全学連主流派が国会構内へ突入して機動隊と衝突、東大生の樺美智子さんが死亡するという事件にまで発展した

 岸首相は、自衛隊の出動まで要請しようとしたが、赤城防衛庁長官の反対により未遂に終わる、というところまでいった。この騒然たる中で、6月16日にはアイゼンハワーの訪日が中止され、6月19日に新日米安保条約は、自然承認となった。そして6月23日の条約発効の日に、岸内閣は退陣した。

 岸に代わって政権の座についた池田首相は、自分の政権担当中には憲法改正を行わないことを明言した。そしてそれ以降の歴代の内閣は、池田に倣うようになり、以後、1990年の湾岸戦争が始まるまで、改憲は政治の舞台から姿を消した

 昭和30(1955)年以来、一貫して改憲への意欲を明確にしてきた中曽根康弘・元首相でさえ、自分が政権の座についた80年代には、自らの政権担当中は憲法改正に距離を取らざるをえなかった。
 このようにして岸内閣以降、日本の政治の流れは、軍事から経済へ大きく移行し、「平和憲法」の下で日本はアメリカに次ぐ経済大国に成長した。




 
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