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  (2)日本国憲法の問題点
●戦争放棄条項と国際条約の遵守
 日本国憲法の最大の特徴の一つは憲法第9条の戦争放棄に関する条文である。しかもこの条文は、恒久平和を念願する格調の高い憲法前文と対応している。
 誰でも知っている有名な文章であるが、これほど当初の規定とその後の解釈が食い違ったまま推移してきた条文も少ないであろう。まず原文を次ぎに挙げる。

 日本国憲法 第2章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 もともとのマッカーサー憲法における「戦争放棄」の条項は、ケーディス大佐自身が書いたといわれる。それを、ホイットニー准将が「パーフェクトだ!」といい、マッカーサー元帥も「ファインだ!」といって承認を与えた。(児島襄「日本国憲法」)

 上記条文の基になったケーディスによる「マッカーサー憲法草案」の文章を次に挙げる。
 日本国憲法アメリカ草案
第2章 戦争放棄
第8条 国権の発動たる戦争は、廃止する。いかなる国であれ他の国との間の紛争解決の手段としては、武力による威嚇または武力の行使は、永久に放棄する。
 陸軍、海軍、空軍その他の戦力をもつ機能は、将来も与えられることなく、交戦権が国に与えられることもない。
 CHAPTER U. Renunciation of War
ARTICLE [. War as a sovereign right of the nation is abolished.
The threat or use of force is forever renounced as a means for settling disputes with any other nation.
No army, navy, air force, or other war potential will ever be authorized and no rights of belligerency will ever be conferred upon the State.


 日本国憲法の条文を、その基礎になったアメリカ草案、更に元の英文とつき合わせてみると、いろいろな問題点が明らかになってくる。
 日本国憲法の条文の中では、「戦力」と「武力」を使い分けているが、草案にはそのような使い分けはない。従って、日本国憲法は、「戦力の保持」は禁止しているが、戦力に達しない「武力の保持」は違憲にならない、とする論法は後から編み出されたものであることが分かる。

 また「武力の行使」も、「武力による威嚇」や「国際紛争を解決する手段として」の行使でなければ、違憲にならない、とする論法がある。従って、自衛のための武力の行使は合憲とされている。
 しかし英文の "as" 以下のフレーズは、「武力の行使」や「威嚇」にかかっているものではなく、もとの英文では、一切の武力の行使と威嚇が、永久に放棄される、という規定になっている。

 昭和27(1952)年11月5日に、当時の吉田内閣「戦力に関する統一見解」を公表した。それによると、上記弟2項の「戦力」については、侵略、自衛を問わずその保持を禁止するとしている

 ここでの「戦力」とは、「人的・物的に組織された総合力」であり、単なる兵器そのものは戦力の構成要素であるが「戦力」そのものではないとしている。
 「戦力」に至らざる程度の実力を保持し、これを直接侵略の防衛の用に供することは違憲ではないとしている。当時は「警察予備隊」であったので、この論法でもある程度の説明ができたが、「自衛隊」をこの見解で規定することは難しい
 つまり、この規定を利用すれば、世界中のほとんどの国の軍隊は「戦力」を保有していないことになる

 昭和29(1954)年12月に成立した鳩山内閣は、統一見解として自衛権は国家固有の権利として認められており、自衛隊はこの自衛権を行使する実力であるから違憲ではない、としている。
 また自衛のための交戦権も、憲法により認められている、とした。

 更に昭和32(1957)年成立の岸内閣になると、「小型の核兵器が、自衛のため必要最小限度の実力以内のものであって、他国に侵略的脅威を与えないようなものであれば、これを保有することは法理的に可能」とし、政策としては核装備をしない方針であることを表明した。

 鳩山・岸の両内閣は、上記の9条解釈をとったが、この解釈の無理であることを十分自覚していたため、後述するように、一方では憲法改正を積極的に推進した。

 今ひとつ厄介なのが、自国だけの「個別自衛権」の他に国際条約による「集団的自衛権」の発動を求められた場合の問題である。それは日本国憲法において、国際条約の遵守に関する次の条項に関わってくる。

第98条 (最高法規性の項は省略)。
 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。

 第9条における「自衛」のための交戦権を認めると、この第98条によって、条約や国際法規に基づく「集団的自衛権」の発動による戦争への参加も合法化される可能性がある。

 平成16(2004)年3月における小泉内閣によるイラク出兵は、このケースになる。
 問題は、このイラク出兵で図らずも露呈したように、国連の取り決めによる多国籍軍への参加ではなく、或る特定国との同盟関係により出兵する場合にある。 
 そこでは同盟関係にある他国が始めた戦争に対して、その国との条約に基づき日本が求めないにも拘らず、特定国の侵略戦争に加担させられる可能性が出てくることになる。小泉内閣は、一挙に憲法解釈をこの危険な領域まで拡張してしまった。

●政教分離と靖国神社問題
▲日本国憲法における政教分離
 日本国憲法において戦争放棄の問題と密接に関係するのが政教分離の問題である。それは毎年繰り返される靖国神社に対する総理大臣の参拝とそれに対するアジア諸国、特に中国、韓国からの抗議を見るだけでも、問題の根深さが分かるであろう。

 日本の総理大臣による靖国神社参拝は、自衛隊問題とならんで日本国憲法に違反する恐れの強い問題の一つであり、次にその条項の成立から考えてみる。

 まず、「信教の自由」については、明治憲法でも規定されていた。参考までに、その条文を次に挙げる。
 大日本帝国憲法(=明治憲法)
第28条 日本臣民は安寧秩序を妨げす及臣民たるの義務に背かさる限に於て信教の自由を有す(原文のカタカナをひらがなに修正)

 
 明治憲法においても「信教の自由」は一定の条件をつけて認められていた。
 その自由の条件とは、(1)社会の安寧秩序を乱さないこと、(2)臣民たるの義務に背かさること、の2つである。しかしこの2つの条件が大きな問題点を含んでいた。

 1867年の明治維新により、祭政一致をかかげた天皇親政の中央集権政府が成立した。つまり明治政府は、天皇を頂点とした国家神道という宗教を背景にした政府であった。そのためにアメリカは、日本の占領政策のまず最初に天皇制と国家神道の分離を行い、日本国憲法の中にもそれが組み込まれたわけである。
 この明治政府の宗教政策を簡単に振り返ってみよう。

 明治政府は、その成立のはじめに江戸時代の国教でもあった仏教から神道を切り離す「神仏分離」を行った。更に、皇祖神・アマテラス大神をまつる伊勢神宮を頂点として、全国の神社を一元的に再編成する宗教政策を行い、神道を国教とした。
 この明治政府の宗教政策により、本来は八百万(やおよろず)の神々の多神教を特徴としてきた日本の神道は、皇祖神アマテラスによる一神教の「国家神道」に変貌した。

 天皇は古代の天皇制以来、国家神道の大神主であっただけではなく、即位式とともに神と同衾して霊力をうける秘祭・大嘗祭の儀式を自ら行うことにより現人神となり、そのことにより神聖不可侵の存在として、政治・軍事・宗教のすべてのうえに君臨するとされた。
 そのために国家神道の神々の体系から外れた神をまつることは、「臣民たるの義務」に反することであり、それらの神々を信仰することは「社会の安寧秩序を乱す」ものとして厳しく弾圧されることになった
 
 キリスト教も仏教も本来は「国家神道」に矛盾する性格を持っている。そのために、明治初期にはキリスト教は江戸時代に引き続いて弾圧されたし、江戸時代に国教の一つであった仏教は、廃仏毀釈により弾圧を受けた。
 しかし明治憲法の成立とともに神・仏・キの3教のみは公認されて、国家神道体制に協力する態勢が作られたが、その他の民衆宗教は明治憲法下では激しい弾圧に曝された。

 アメリカ軍は日本に進駐した直後の昭和20(1945)年10月に、GHQが「政治的・社会的及び宗教的自由に対する制限除去」の覚書を発して、信教の自由の確立、治安維持法・宗教団体法などの弾圧統制法規の撤廃、天皇・国体・大日本帝国に対する討議の自由を指示した。

 更に各地の神社の社殿に占領軍将兵が入り込んで、御神体・神宝を持ち出すという事件が続発していたため、12月15日に「国家神道・神社神道に対する政府の保証・政府の保証・支援・保全・監督ならびに弘布の廃止の件」という指令を発した。
 これは「神道指令」と呼ばれているものであり、占領政策の最初に出されたことが注目される。

 神道指令の第1項は、国家と神社神道の完全な分離第2項は、神道を含むあらゆる宗教の国家からの分離第3項は、日本政府が3月15日までに採った処置の報告、などで、全部で4項からなっていた。
 これらの処置により、近代日本を支配してきた宗教的権威としての天皇制と国家神道は崩壊することになった。

 これらの処置を受けて、日本国憲法は2つの条項で信教の自由を規定した

日本国憲法 第3章 国民の権利及び義務
第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

第89条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

 この政教分離の規定をみると、総理大臣の伊勢神宮や靖国神社への参拝をはじめ、地鎮祭などの宗教行事への出席も問題になる。事実、いくつかの訴訟が起こされてきたが、特に靖国神社への参拝は単に違憲問題にとどまらず、海外からの非難を浴びる問題になっている。その理由を次に考えてみよう。

▲靖国神社問題とは?
 沖縄戦最後の地となった沖縄本島・最南端の摩文仁の丘には、沖縄戦で亡くなった日米の全ての人々の名が慰霊碑に刻まれている。自国の戦争犠牲者の名前を刻んだ慰霊碑は多いが、敵・味方の区別なく全ての犠牲者の名を刻んだ慰霊碑は世界に類例がなく、ここを訪れたドイツ人が世界一素晴らしい慰霊碑と賞賛した
 
 戦死者を敵・味方の区別なく慰霊する考え方は、日本人にとっては必ずしも珍しいものではない。死者を敵・味方に関わりなく手厚く葬る思想は古くからあった。
 古くは「御霊信仰」としてそれが行われたし、江戸時代には、武士道の中で尊重された思想の一つでもあった。
 
 このような思想が霧散したのは幕末の尊王攘夷による殺戮と明治の戊辰戦争からではなかったかと私は思う。慶應4年7月4日(旧暦の5月15日)、長州の大村益次郎が指揮する官軍は、上野の彰義隊を攻撃した。羽織に足駄がけの旗本、御家人の次男、三男で構成された彰義隊は、ほとんど武具もない状態で戦ったといわれる。その日の戦いに彼らの殆どは、新装備の長州軍に大敗して殺害された。
 
 戦争が終わった後、彰義隊戦死者の遺体は、上野の山に7月の暑さと雨の中で腐敗したまま累々と放置されて、その状況は悲惨をきわめた。奇兵隊という農民による近代的な軍隊を作り出した長州藩には、もはや武士道などという封建的な思想はなかった。敵の死体が雨と暑さの中に放置されていようと、官軍とは関係なかった。

 それを見かねた三河屋幸三郎という江戸の侠客が、「死んだら仏だ、敵も味方もねえ!」と、隊士の遺体を引き取り、三輪の円通寺へ埋葬した。その寺は、その後、四十七士の泉岳寺と共に有名になり、江戸っ子は密かにおまいりしたといわれる。
 (東京日日新聞社会部編「戊辰物語」、岩波文庫、pp.266-267)

 長州藩は、明治維新の戦争の犠牲者を敵と味方に峻別して、味方だけを長州藩の招魂社に祭った。この長州の招魂社と京都、江戸で行われた招魂祭が靖国神社の源流になった。そのため靖国神社には、長州の大村益次郎の銅像が聳えている。
 死者を敵・見方に峻別する思想は、まさに沖縄・摩文仁の慰霊碑の対極に立つものである。つまり靖国神社は、戦争の犠牲者を死後まで峻別して祭った神社である

 そのために明らかに日本の国のために犠牲になった人々でも祭られていない犠牲者は少なくない。いわんや賊軍と見做された人々の霊は一切排除されており、ほとんどその名誉回復も行われていない。
 その一方で、日本を敗戦に導いた責任者として国際裁判でA級の戦争犯罪に問われた人々が、日本の裁判において裁いた犯罪者でないという理由から「昭和殉難者」として合祀されている。

 本来、2.26事件で処刑された人々も、日本の将来を考えた「昭和殉難者」であるし、幕末から戊辰戦争で賊軍の汚名を浴びた人々も「幕末・明治殉難者」として合祀されるべきであろう。しかしそのような死者の名誉の回復は一切行われていない
 
 一方では、靖国神社に合祀されたことを不服とする遺族もあり、裁判まで起こされている。これらのことが靖国神社の極度に政治的な性格を物語っており、毎年、中国、韓国などから総理大臣の参拝に際して抗議される原因となっている。

 靖国神社の歴史は、明治12年6月、東京九段の田安台の創建されていた大招魂社を靖国神社と改称し、別格官幣社という高い社格を与えられたことに始まる。
 「靖国」の「国」は、天皇制国家を意味している。天皇のために死ぬことにより、戦没者はカミとして祭られ、現人神である天皇の礼拝をうけるという破格の「栄誉」に浴することになる。
 その特別の性格から、通常の神社が内務省の所管であったのに対して、靖国神社は、特別に「別格官幣社」であり、陸・海軍が所管する神社として、戦前には陸・海軍による衛兵が昼夜を通して護っていた

 昭和20年11月20日に戦後初めて行われた靖国神社の臨時大招魂祭は不思議な大祭になった。この祭りは例年9月に行われていた例大祭が戦後の混乱により遅れたものであるが、既に戦争は終わっているにも拘らず、戦中と同様に軍人たちによって行われ、天皇をはじめ陸・海軍の将官たちが参列した。
 つまりこの大祭は敗戦とは関係なく行われ、更に不思議なことには、米軍の民間情報教育局の将校たちがこの儀式に参列した。(W.ウッダード「天皇と神道 GHQの宗教政策」、pp.188-189)

 歴史的な式典は平穏無事に終わったが、その直後の12月15日に、GHQは日本政府に「神道指令」を出した。そしてこの指令により、靖国神社は日本の国家との関係を断絶させられ、昭和21年9月7日には神社本庁に加盟しない単立の宗教法人となった。

 占領軍は戦没者のための葬儀と記念式典に対して、政府ないし地方公共団体の官吏や教員が、公的資格で参列し、あるいは弔辞を述べることを禁止した。また、たとえ民間団体であっても、戦没者のための葬儀、追悼式典を行うことを禁止した。
 しかし昭和22年になり、東京都内70箇所に仮埋葬されている推定8万人を超える身元不明の空襲犠牲者の遺骨や身元不明の戦没者5千名の処遇をどうするかが問題となった。そこでやむをえず、政教分離政策の例外としてこれらの人々の遺骨は厚生省が、東京・千代田区の千鳥が淵に「無名戦没者の墓」を設けて、埋葬することが認められた。

 1950年代の半ばから60年代を通じて広範な靖国神社の国営化運動が展開された。遺族会は、昭和34(1959)年11月、旧軍人団体の卿友連盟の協力を得て、靖国神社国家護持の請願署名運動を全国的に開始し、翌年、295万余の署名を集めて国会に請願書を提出した。その結果、昭和44(1969)年に自民党は靖国神社法案を国会に提出したが、廃案となり、その後も昭和49(1974)年6月まで5回にわたって国会に提出され、そのたびに広範な反対にあい廃案になって現在に到っている。

 その法案の内容は、靖国神社を「宗教法人」から外して、内閣総理大臣が監督する非宗教的な「法人」とし、国家が戦没者の偉業を永遠に伝えるための儀式行事を行う機関としている。しかし神社という名前の法人が行う儀式を、国家が支援することは憲法に違反する恐れが強いと思われる。
 この法案については、昭和49年5月13日に、衆議院法制局が憲法に違反しないとする見解を発表している。そして違憲とならないために、祝詞奏上、降神、昇神の儀などといった神道的儀式の廃止を提案しているが、国際的に問われている靖国問題の本質はそのような末梢的なことではない。

 「靖国」という言葉の出典は、孔子が編纂した「春秋」である。春秋の左伝は敵・味方を明確に差別し叙述しているところに大きな特徴がある。
 この思想を受けついだ「靖国神社」は、戦争の犠牲者の霊を、死後も明確に敵・味方に差別して祭るところに最大の問題がある

 日本の平安朝時代には、滅ぼした敵方を特に丁重に祭った。これが「御霊信仰」である。日本国憲法は、その前文で「いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」として、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う」としている。
 この観点からすれば、自国の英霊のみをまつる「靖国」という思想そのものが、憲法に反していると私は考える。
 
 戦争で犠牲になった人々は、敵味方の区別なく、すべて生き残った人々の幸福をねがって亡くなっていったのであり、その上に我々の今の生活がある。そのことを図らずも、日本国憲法は見事に主張しているのではないか!

●基本的人権 ―個人の尊厳と平等
 日本国憲法が提起した今一つの大きな問題は、明治憲法が前提にしてきた家父長制的な家族制度を否定して、個人を社会制度の基礎においたことである。
 その思想は、当然のこととして家族における夫婦・兄弟・姉妹の権利の平等を意味しており、更に社会的には男・女の権利の平等につながるものである。
 憲法草案のこの章は、ロウスト陸軍中佐をチーフとして日系のベアテ・シロタ嬢などよる人権に関する小委員会によって草案が作られた。


 最初のGHQの小委員会の草案では、次のように書かれていた。
<第3条  この憲法が日本国民と協議して保障する基本的人権は、人類の多年に 
    わたる自由獲得の努力の結果、過去の長い時間と経験を通して、現在及び 
    将来の国民に対して犯すことの出来ない、永久の権利として信託されたも
    のである。>
 
     (出典:鈴木昭典「日本国憲法を生んだ密室の9日間」、創元社、p.251)

 この条文は、現行憲法の第13条と第97条に受け継がれているが、まさに民主党系のニュー・ディラー左派の面目躍如たる文章といえる。

 明治憲法においても「第2章 臣民権利義務」という規定があった。ここでは権利・義務の対象となるのは「国民」ではなく、「天皇の民」である「臣民」であるが、一応「法律の定むる所」という条件つきでの「権利」の章が設けられていた。
 しかし明治の政治家・森有礼という人物は、帝国議会において臣民に「権利」などない、「分際」とせよ、と主張した。「分際」とは何かと尋ねたら、森は英語で"Responsibility"だといった。
 つまり、森有礼流にいうと、明治憲法下の臣民の「権利・義務」とは、「責任と義務」ということになり、「権利」が全くなく「義務」ばかりがあったわけである

 日本国憲法の基本的権利に関する条文を次にあげる。
(個人の尊重と公共の福祉)
第13条 すべての国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
(第10章 最高法規)
第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に耐へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

 第13条では、基本的人権の保障の理念的前提としての個人主義の原理が宣言されており、国民の権利が、「公共の福祉に反しない限り」、国家によって最大限に尊重されることを定めている
 明治憲法下の「個人」は、「家」や「国家」のために最大限の犠牲をしのぶことが美徳とされてきた。これが「公共の福祉に反しない限り」という最小限の条件で完全に個人の権利が保証されることになった。

 明治憲法下では、選挙権・被選挙権は男子のみに与えられており、民法では妻は無能力者とされ、刑法では妻の姦通のみが罰せられ、まさに、「性別」に基づく差別が横行していた。これは男女同権の原理に反するものであり、すべて廃止された。

 また社会的関係における差別、例えば、明治憲法下で存在していた華族、栄誉、勲章、栄典などによる特典や特権も廃止され、法の下での平等が徹底されることとなった。更に第97条において、第13条における「基本的人権」「最高法規」として保証されることを確認している。
 明治憲法に比べると、これらの基本的人権の規定は、まさに「市民革命」によらなければ獲得できないほどのものであり、この大きな権利を日本国民は敗戦により獲得したことになる。




 
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