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  (2)昭和・日本の戦略家―その思想を生かすしくみがなかった!

 昭和史の中で満州事変を皮切りに、戦争は果てしなく中国各地に拡大していった。 日本の敗戦後に、蒋介石が発表した「対日戦勝利」の「戦果」によると、盧溝橋事件(昭和12(1937)年7月7日)から、日本敗戦(昭和20(1945)年8月15日)までの8年間における中国での戦闘回数は38,931回にのぼったといわれる。
 これを単純に平均すると、年間4867回であり (丸山静雄「日本の70年戦争」)、これに太平洋戦争での戦闘を加えると、昭和16年以降、日本は年間、1万回以上の戦闘を行っていたことになる

 日露戦争における知将・児玉源太郎のような人が、昭和の時代にはいなかったわけではなく、昭和にも、経済における高橋是清・大蔵大臣や満州事変の作戦参謀・石原莞爾中佐(のち中将)のようにかなり高い地位にいながら、明らかにその後の日本の国家政策とは異なる考え方の人々が存在していた

 それにも拘らず、途中で戦争を止めることが出来なかった原因は、国家意思の決定機構のところに問題があったと考えざるを得ない。そのことを考えるために、まずこの2人の戦略家の考え方が、実際の日本の政策とどこで食い違ったかを見てみよう。

●日本のケインズ高橋是清
         ―大恐慌からの脱出政策は、戦費拡大に利用された!

▲高橋是清とは
 高橋是清(1854-1936)は、江戸の生まれの人であるが、生後、3,4日で仙台藩の足軽の家に里子に出され、また十四歳で渡米して奴隷に売られるという若い頃から波乱に富んだ人生を歩んだ稀有の人物である。

 そのような多彩の経歴の人が、日銀総裁や大蔵大臣から首相までつとめた。
 国民からは、「だるまさん」の愛称で呼ばれて、日露戦争、昭和恐慌、世界大恐慌などを通じて、何度も日本の国家的危機を救った稀代の政治家である。最後は昭和11年2月26日の「2.26事件」において軍の凶弾に倒れて、非業の死をとげた。

 官僚のいわゆる「キャリア組」とは異なり、アメリカでの経験をもとに大蔵省、文部省、専売特許所長などの役所勤めもしたが、一方では、ペルー銀山の経営で失敗したり、日本銀行の建築所事務主任を勤めるなど、若い時から波乱万丈ともいうべき人生を送ってきた。
 
 このような経歴の人物が、政府系銀行のトップに就任することは、現代の社会では考え難いことであるが、彼の能力・才能に目をつけて、最終的には日銀総裁になるまで引き上げたのは、日本銀行・第3代総裁・川田小一郎であった。
 吉野俊彦「歴代日本銀行総裁論」によると、日本銀行の川田総裁は、「歴代総裁中もっとも傑出した大総裁」といわれた人物である。この「傑出した人」が高橋是清という山師ともいえる経歴の偉人を発掘して、日銀総裁までの道を開いた。
 その川田総裁の功績は極めて大きい。なんと高橋は、最初、日銀の建築設計を担当した東大教授・辰野金吾の配下の建築所事務主任として採用されたのである。

 しかし川田総裁は、その後、高橋を西部(北九州)支店長に任命、更に、明治28年8月、突然、横浜正金銀行本店支配人、今で言う本店の支店長に任命、明治30年には横浜正金銀行・副頭取に就任し、更に山本達雄・日銀総裁になってまもなくの明治32年3月に、副総裁として日銀に戻り、その後に日銀の総裁にまでなった。

▲日露戦争における外債調達の成功
 高橋是清は、横浜正金銀行において海外為替業務の実務をものにしていた。そしてそのことが、日銀副総裁として日露戦争の際の巨額な外債募集を行い、成功させることに大きく貢献した。

 既にそのことは「日本の行方」の別項で述べたが、日露戦争は外国からの借金によりロシアと戦い、かろうじて勝利することが出来たきわどい戦争であった。この戦争において高橋是清の外債募集が失敗していたら、日本は日露戦争に勝つどころか、戦争を遂行することさえ出来なかったであろう。その意味で日露戦争を勝利に導いた最大の功績は、高橋是清の巨額な外債募集の成功にあったといえる。

▲昭和恐慌を収束させた経済政策
 高橋是清の次の大きな功績は、昭和恐慌を見事に収束させたことにある。
 昭和2(1927)年4月、昭和恐慌が深刻化した直只中で、若槻内閣から田中義一内閣に変わった。その内閣発足の当日である4月20日には、宮内省の金庫番といわれて絶対的な信用を誇ってきた十五銀行が突然閉店した。そのため、田中内閣は発足早々、すべての銀行が取り付けにあうという悲壮な状況になった。

 この状態で日銀は、物理的に日銀券の需要に応じきれないという状況となり、日本の金融制度は、もはや崩壊寸前まできていた。紙幣の印刷も間に合わず、裏面が印刷されない裏白の日銀券が発行されるという史上空前の異常な事態になった。
 
 このときの状況を、有竹修二「昭和経済側面史」により述べる。
 4月20日、田中新内閣は成立と共に、この歴史的な大事件に取り組むことになった。この時の大蔵大臣として財界動乱を沈静化させる大役を努めたのが高橋是清であった。高橋蔵相は、20日の初閣議の夜9時に赤坂表町の自宅へ帰るや、市来日銀総裁、土方副総裁、黒田大蔵次官と十五銀行の救済について相談した。ところが、十五銀行はその夜半に休業を決定し、翌21日には全国的な金融動乱に突入した。

 4月21日、首相官邸の閣議は朝の10時から夜半にいたるまでぶっ通して続けられた。高橋蔵相は、各方面から情報を集め考慮をめぐらした結果、政府は4月22日に緊急勅令による「モラトリアム」(支払猶予令;法令で一定期間、債務の返済を停止または延期すること)を実施することを決定した。
 
 これによって金銭債務の支払いは、1日500円以下の支払いを除き、3週間(5月12日まで)延期することが可能になった。更にこの緊急勅令が実施できるまでの期間として、銀行は22,23日の2日間、全国一斉に休業することが決定した。

 高橋蔵相が緊急措置としてとったモラトリアムの効果は大きく、銀行の取り付け騒ぎは一挙に沈静化し、若干の銀行が休業したものの、モラトリアムが明けた5月13日からは騒ぎは起こらず、事態は治まった。この高橋蔵相の英断によるモラトリアムにより、銀行の信用危機は回避されて日本の銀行制度は崩壊を免れた

 更に、高橋蔵相は5月の臨時議会において、日銀による5億円の特別融通及び損失補償法と2億円の台銀救済法案を通して、さしもの金融動乱はようやく沈静化した。高橋蔵相は、金融動乱の沈静化の結果を見届けるや、後任に三土忠造を推して、6月2日に大蔵大臣を辞任した。その在任は、わずか42日であった。
 
▲公債政策による大恐慌からの脱出の試み
 昭和6(1931)年12月13日に成立した犬養毅・政友会内閣において、高橋是清は再び大蔵大臣に就任した。そのとき、浜口内閣が実施した金解禁政策からの転換、つまり金本位制の停止が、もはや待ったなしの状況にあった
 初冬の夜明け頃、徹夜の組閣が終わった。高橋大蔵大臣が提案した金輸出の再禁止は、その初閣議で即決され、その日のうちに公布実施された。高橋がかなり躊躇した兌換の停止措置も12月17日に公布・実施された。

 日本のケインズといわれる高橋は、その前の浜口内閣における井上準之助・蔵相の緊縮経済政策とは全く逆な経済政策に踏み切った。
 その一つが、景気浮揚政策としての公債政策であった。高橋は、この政策の基礎工作として、昭和7年に3度にわたって日銀金利の引下げと公債や郵便貯金の利率の引下げを行った。
 そして同年6月に、兌換銀行券条例を改正して、日銀券の保証発行限度額を1億2千万円から一挙に10億円に引き上げた。

 同時に政府は、金輸出再禁止後に為替相場の下落による資本の海外への逃避防止のため、昭和7年7月に資本逃避防止法を制定した。
 その上で政府は公債発行に踏み切り、巨額の軍事費・時局匡救事業費を調達しようとした。更に高橋は公債政策の展開にあたり、日銀引受公債発行制度という新しい方法を考え出した。これは深井英五が、「一石三鳥の妙手」といったものである。
 政府はこの方法によりインフレの悪化を防ぎつつ、政府発注により民間経済に刺激を与えつつ、景気を浮揚させるという効果を狙ったものであった。

 高橋自身による公債政策は、景気浮揚が達成されたら、インフレに転化しないうちに公債漸減政策に切り替える予定であった。
 事実、昭和10(1935)年以後は、公債消化率は低下し、悪性インフレの兆候が見え始めていた。10年末の公債残高は98億円に上り、「国債100億円」のラインを突破する勢いを示していた。高橋蔵相はこの段階で公債漸減方針に切り替えて、昭和11年度予算では軍事費を削り、公債発行を抑える方針をとった。

 ところが、この高橋蔵相の公債漸減方針は、軍事費の増額を要求する軍部と激突した。昭和10年11月26日の予算閣議は冒頭から難航し、一応は方針が貫かれたが、軍事費の突出は避けられなかった。

 昭和11(1936)年2月26日早暁に起こった2.26事件で、高橋蔵相は反乱軍の凶弾に倒れた。高橋蔵相の殺害は、この軍事費削減方針と無関係ではないであろう。
 昭和10年度予算で初めて10億円台に乗せた軍事費は、もはや2度とそれを割ることはなかった。そして、歯止めを失った公債残高は、その後、一般会計の歳出の増加と共に、殆ど一定率で増加していった

 2.26事件により岡田内閣が瓦解した後を受けて成立した広田内閣には、かなり露骨な陸軍の圧力が加えられた。そして大蔵大臣には、勧銀の馬場総裁が選任された。
 馬場大蔵大臣は、健全財政主義を放棄し、対満政策の遂行、国防の充実のための財政膨張政策に踏み切った。その結果として、昭和12年度予算は、未曾有の大予算となり、そのためにかなり高度な経済統制が必要になった。
 
 この馬場財政は、昭和12年7月7日に北京の盧溝橋事件から始まり、泥沼に突入していった中日戦争に見事に対応するものとなった。これらの財政膨張は、基本的には公債の増発で賄われていったが、景気回復のための高橋是清の公債政策とは無縁のものであり、結果は財政破綻への道を辿ることとなった。

●石原莞爾の満州国構想
 満州事変の作戦参謀・石原莞爾と、大蔵大臣・高橋是清には、非常に似ている面がある。上記の高橋是清が、大恐慌下の日本経済を救うために「公債政策」を導入して成功し、次に増えすぎた公債発行を抑える公債削減政策に入ろうとしたとたんに軍部からの猛烈な反対にあった。その挙句は、軍部に暗殺されるという悲劇的な結果になった。

 石原莞爾は、満州事変の作戦計画を立案し、わずか5ヶ月で満州国建国までこぎつけることに成功した。彼の作戦では、次の段階は新しく建国した満州国の経済力を充実させることにより、日鮮満の経済ブロックを作り上げ、中国とは戦争ではなく同盟関係を結び、日本の経済ブロックに、更に中国を加えることにより、アメリカとの「世界最終戦争」に備えるというのが彼の「東亜同盟論」と呼ぶ戦略構想であった。(「石原莞爾全集」、第3巻、第7巻)
 
 しかし石原は、満州事変の終了と共に帰国させられ、満州の戦火は彼の戦略構想に反して中国全域に拡大し、日本の戦力充実を図る余裕もないまま第二次世界大戦に突入していった。
 蒋介石は、日本の戦争が中国本土に拡大した時、持久戦に持ち込めば、必ず中国は最終的に日本に勝利することを確信したといわれる。蒋介石のその認識は、石原の認識と非常に似た面があった。

 石原莞爾は、経済力こそが戦力の基礎をなすものであることを知っていた数少ない将軍の一人であり、「石原構想」という経済開発計画を打ち立てていた。
 その概要を見るために、石原の人となりから述べる。

 石原莞爾(1886-1949)は、山形県鶴岡市の下級士族の家に生まれた。陸軍士官学校を卒業、成績は3位であったが、言動が悪いため6位に落ち、恩賜の銀時計はもらえなかった。陸士卒業後、会津若松の連隊勤務を経て、大正7年に陸軍大学校を卒業、更に大正12(1923)年、第一次世界大戦終了後のドイツに留学した。

 このドイツにおいて石原は、日露戦争とは全く異なる近代の「総力戦」と新型兵器の実態を見て、第一次世界大戦の勝敗を決めたのは「重化学工業を中心とした国家の工業力」であることを知った。
 帰国後、陸軍大学の教官として戦史の研究を行い、「戦争史大観」という著書にまとめた。その著書の中で、人類最後の大戦争としての日米決戦を構想している。そしてアメリカと戦うためには、日本の財政・経済を飛躍的に強化した「総力戦体制」を作る必要があるわけであり、ここに石原にとっての満州の重要性がでてくる

 満州(現在の遥寧、黒竜江、吉林の東北3省)は、日本の3倍の面積を持ち、肥沃な農地が広がる豊かな地域であり、現在でも石炭、鉄鉱石など豊富な資源に恵まれた中国有数の工業地帯である。既に日露戦争の頃からイギリス、ドイツ、ロシアが満州各地に鉄道を建設して進出していた。アメリカも進出の野望を持っており、帝国主義各国による利権抗争のぶつかり合う場になっていた。

 すでに昭和初期、満州には19万人もの日本人が移住して、漢民族に次ぐ人口を持つようになっていた。特に日本は、満州の玄関口である大連に十万人の移住者を持ち、更に北部の奉天(現在の瀋陽)、ハルピンなど、満州全域へ進出を試み、ロシア、アメリカや中国のナシヨナリズムと衝突していた。
 この日本の満州進出の中心的役割を果たしていたのが南満州鉄道株式会社(満鉄)である。昭和初年には満鉄の従業員数は30万人、鉄道の延長キロ数は2360キロに及び、当時の日本における最大の会社であった。

 石原は、昭和3(1928)年に関東軍参謀に転出するや、満蒙の領有と経済開発による日満の経済ブロック化が日本の将来にとって不可欠であると考えて、水面下で満鉄調査部と接触した。このときの満鉄側のキーマンが、満鉄調査部ロシア班にいた宮崎正義であり、彼との出会いが石原の総力戦構想を大きく進めたといわれる。
 宮崎はレーニンの新経済政策(NEP)の研究をしており、この研究は従来の資本主義体制を打破した国家改造を考えていた石原に大きな影響を与えた。

 昭和7年の満州国樹立に成功した頃の石原のメモには、「新国家ヲシテ吾経済計画ヲ断行セシム」と書いており、満州国を将来の国家資本主義的な日本の改造のモデルと考えており、その経済計画を担ったのが満鉄調査課だった。

 話しは飛躍するが日本の戦後国家は、まさに満州で実現しそこなった国家資本主義の実現にあったように私には思われる。日本の再建には、これら満州の出身者が多数関わっており、石原莞爾の思想は、皮肉なことに戦前の満州ではなく戦後の日本において実現したといえる

 ちなみに北一輝の「日本改造法案」も同様に戦後の日本において実現したようにみえる。その結果として、戦後の「民主主義」の下でも官僚主導の統制経済の思想が主導的立場を占めてしまい、そのために国際的な市場経済の流れに完全に遅れをとった。その源流は、なんと「満州」にあった!と私は思う。

 満鉄では、「満州事変」以後、調査課の組織を変えて新しく経済調査会という部署を作って関東軍との協力体制を確立した。その初代委員長が、戦後に国鉄総裁を勤めた十河信二であり、ここで日本において始めての統制経済計画が作られた。
 この計画のベースとなった宮崎の「満州経済統制策」(昭和7)では、恐慌を「無統制なる生産競争」によって起こったものとして、満州に統制経済を導入し、工業生産の向上をめざした。
 主要産業の経済計画(生産目標)を定めた上で、産業分野別に異なる統制方法を示唆した。金融、電気、通信などの事業は国営とし、その統制力を最大限に発揮する一方、鉄、石炭、鉄道などの主要産業は「半官的経営事業」として間接的統制を行い、それ以外を民間の自由経営に任せるとした。

 日本の戦後の経済計画の原型となる「満州経済建設要綱」満州経済開発計画、そして1935年に東京の参謀本部に移った石原作戦課長による満州および日本の経済改革の実現にむけての活動はNHK取材班「『日本株式会社』の昭和史」に詳しい。

 満州での五ヵ年計画が軌道に乗り始めた頃、石原は、日本国内でも五ヵ年計画の実現に乗り出した。しかし戦争を満州建国に止めて、中国とは和平・友好関係を作り出すという石原構想は、日中戦争の展開により完全に崩れた。

 昭和12年7月7日、盧溝橋事件が起こった時、石原莞爾少将は参謀本部・第一部長の要職にあった。ときの近衛内閣は勿論、陸軍も直ちに不拡大方針、現地解決の方針を強力に唱え、参謀次長・多田駿中将もこれを支持して拡大に反対した。
 それにも拘らず中日戦争が拡大の一途を辿っていることを憂慮した近衛首相は、翌昭和13年5月、軍部内の統制が出来ない杉山陸軍大臣の更迭をねらった内閣改造を図った。

 近衛首相は、この内閣改造後に、首相、陸相、海相、外相、蔵相の五相会議を発足させて、この少数重要閣僚会議で最高国策を審議すると共に、精力的に中日戦争の解決を進めようと考えた。そのために陸軍次官として石原少将を持ってこようとした。しかしこの近衛構想は陸軍の反対で壊れ、石原の代わりに東条英機が陸軍次官に就任して、その人事がその後の日本の運命を決めたといえる

 昭和12年9月、石原は参謀副長として再び関東軍に出されたが、翌年8月、予備役編入願いを提出して帰国し、その後、第16師団長になるが、日米開戦の昭和16年に予備役に編入された。




 
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