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どこへ行く、日本
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  (4)第二次世界大戦への道 ―「円ブロック」の形成

 日本は日清戦争、日露戦争により台湾、南樺太を獲得したほか、明治43年8月には「日韓併合」により、韓国が「朝鮮」と改称して日本領土に組みこまれた。
 朝鮮と国境を接する「満州」(=中国東北部)は、日露戦争の結果、清国政府の承諾を得た上で、旅順口、大連、およびその付近の領土の租借権および鉄道・炭鉱が日本に帰属することになった。

 これを受けて明治39(1906)年5月に、日露戦争後のポーツマス条約によりロシアから受け取った東清鉄道(旅順・長春間)をもとに、南満州鉄道株式会社(満鉄)が資本金2億円の半官半民の会社として設立された。それ以後、満鉄は日本による満州経営の要となって事業を拡大した。
 同社は鉄道経営以外にも撫順炭鉱、鞍山製鉄所などの付帯事業を行い、満鉄関係の投資は、日本の中国に対する全投資額の過半を占めていた。
 
 また満鉄は、線路の両側と駅周辺の一定範囲を鉄道付属地と呼び、その地域内の駐兵権、行政権を握っていた。更に遼東半島の租借権をロシアから譲り受けて、この租借地を「関東州」と呼んだ
 この満鉄の付属地と関東州の防衛にため、大正8(1919)年に満鉄の鉄道守備隊と関東州の守備隊を合わせて、参謀本部直属の軍隊である「関東軍」が編成された。
 関東軍の目的は、本来は鉄道守備が任務であったものが、昭和のはじめには全満州の「治安維持」に拡大し、満州は既に事実上、日本による支配下に置かれていた。

 満州および内蒙古地域に日本が独占的な支配権を確立することは、日露戦争以来、わが国の一貫した国策であった。そのためにポーツマス条約、「21か条」条約、西原約款などにより多くの権益を確保してきたし、張作霖の奉天派軍閥を支援してきたのもそのためであった。

 しかし昭和初年の段階では、昭和2(1928)年の山東出兵や昭和3年6月3日の張作霖の爆殺以降、彼の後を継いだ張学良や中国民衆の反日感情は非常に悪化しており、経済的な円ブロック化のプロセスは、逆に中国・満州と日本の軍事衝突の方向へ大きく変わりつつあった

●昭和初年の中国
 昭和初年までの中国の状況を見てみよう。中国では、既に明治45(1912)年2月12日に清朝のラスト・エンペラーであった宣統帝が退位し、袁世凱に臨時共和政府組織の全権を付与して清朝は滅亡していた。

 同年1月1日に、南京において中華民国臨時政府が樹立され、孫文が臨時大統領に就任して、アジア最初の共和制が実現していた。しかし中国では、全国にまだ軍閥が割拠する状況にあり、統一国家の実現にはまだ程遠い状況にあった。

  大正13(1924)年1月、中国国民党第一回全国大会が広州で開かれ、国共合作が正式に成立した。孫文は、大正14(1925)年3月12日、「革命、未だならず」という有名な言葉を残して死去した。しかしこの孫文の遺志は、彼の死後の3年の間に、中国民衆の反帝国主義・反軍閥の運動の巨大なうねりとなって中国全土を揺るがすことになった。

 その第1波は大正14(1925)年5月30日における反帝国主義の「5.30運動」であり、これにより広東政府は一地方政権から一挙に全国革命運動の中心に押し上げられた
 同年7月、中国国民党による「広東国民政府」(主席・汪兆銘、その後に蒋介石が政権を掌握)が成立して、全国統一政権のモデルとなった。
 
 一方、北京政府が左傾した国民軍に掌握されることを恐れた日本は、張作霖を支援して、大正15(1926)年6月18日に奉天軍閥の張作霖が、北京において中華民国・陸海軍大元帥に就任した
 また翌、昭和2(1927)年2月21日には国民党左派の汪兆銘が武漢において国民政府を樹立した

 つまり、昭和初年の中国では、「中華民国」といっても、その政府は広東、武漢、北京の3つに分かれており、その他にも多数の軍閥が割拠して政権をねらう混乱状態にあった。

 このような中で、大正15(1926)7月9日、広東の中国国民党の総統・蒋介石は、国民革命軍総司令として10万の大軍を擁し、全国統一を目指して広東を出発し北伐の途についた。
 北伐軍は怒涛の勢いで進撃し、翌年の2月18日には杭州を、3月24日には南京を占領した。そして一部は3月21日に、帝国主義最大の牙城である上海に到着した。

 北伐軍は、到る所で民衆の歓迎を受けており、中国の9省が国民革命軍の手に落ちた。当然、帝国主義列強との間に軋轢が生じており、1月には漢口、九江でイギリスと、3月の南京攻略戦ではアメリカとの間で事件が起こっていた。

●日本の山東出兵と東方会議
 国民革命軍が北上する中で、日本政府は、昭和2(1927)年5月28日、在留邦人保護の名目で旅順駐留の関東軍を青島に派遣(第一次山東出兵)した。山東半島への出兵は、その後、28年4月、同5月の3次に及び、派遣兵力の総数は1万5千人に達した。

 日本軍の派兵の目的は、公式には在留邦人の保護であったが、真の狙いは軍閥・奉天派の領袖・張作霖を助け、彼を通して満州に対する日本の覇権を確実にすることにあった。つまり山東出兵により国民革命軍の北上を遅らせ、それにより張作霖軍にたちなおりの機会を与えることに日本の狙いがあった。

 第一次山東出兵が行われた昭和2年6月から7月にかけて、東京で「東方会議」が開催された。この会議は、森恪・外務政務次官を中心に、外務・陸軍・関東軍の首脳による会議であり、北伐による中国の内戦を利用して、満州と蒙古を中国から分離する日本の中国政策が決定された
 つまり満州・蒙古の支配権は日本が確保し、それ以南の中国は国民党の支配にまかせるという考え方である。

 この東方会議により、その後の対中国の外交政策が規定された。この路線を受けて、7月20日に満鉄社長に山本条太郎、副社長に松岡洋右が任命され、日本の新しい満州政策が走り出した
 この間、中国では国共対立が激化して北伐は中止となり、翌昭和3(1928)年3月に北伐が再開されるまでの間に、日本政府と中国の国民党との間では、新しい日本と中国の関係をめぐって両国の首脳による交渉が行われた。
 
 昭和2(1927)年11月5日には、一時下野した蒋介石が来日して田中首相と会談、蒋介石は国民政府による中国統一に日本の協力を要請した。また11月12日には、山本条太郎・満鉄総裁が外務省にも知らせず極秘裏に張作霖と交渉して、懸案の満蒙5鉄道建設を認めさせた。
 この段階では、明らかに蒋介石や張作霖とも話し合いによる非軍事的な満州政策が着実に進行していた。

 しかし日中双方の首脳による話し合いとは無関係に、翌昭和3(1928)年に入ると、日中関係は急速に悪化していった。5月3日には、第二次北伐において北伐軍と日本軍が衝突(済南事件)、8日には日本は山東増援のため第三師団を派遣し、済南を総攻撃して11日にこれを占領した。これに抗議して5月10日には国民政府は日本の山東出兵を国際連盟に提訴した

 6月9日に、北伐軍は北京に入城して、「北伐戦争」は終わり、中国は蒋介石の国民党によって統一された。第3次出兵により中国の対日感情が極度に悪化している中で、昭和3(1928)年6月4日、関東軍は蒋介石に追われて北京から逃れてきた張作霖を奉天駅近くで列車ごと爆破して殺害した

 在来、日本と協力関係にあった張作霖が関東軍の行動に警戒心を持ち始めていたことを嫌い、更に張作霖の死によって満州に社会不安を起こして、一挙に関東軍による満州の軍事的支配に持っていこうという陰謀であったといわれる。
 その結果、張作霖の殺害には成功したものの、田中義一内閣はその責任をおって総辞職に追い込まれ、奉直命令が出ないため関東軍は出動できなかった。

 父親の張作霖を日本軍に殺害された息子の張学良は、国民政府と手を結び、12月29日、満州各地で国民党の旗である晴天白日旗を一斉に掲げさせた。いわゆる「易幟」である。これによって中国は満州まで、国民政府により一挙に統一されることになった。東方会議による満州分離政策は失敗した。勇み足の関東軍による国際的な大失政であった。

 張作霖は、殺害される半月前の5月15日に、満鉄社長・山本条太郎との間で吉会・長大両鉄道工事の請負契約に調印していた。この契約は、当然、その後に張学良により承認が拒絶された。そして外交による円ブロックの形成は失敗し、軍事力をもって実現する方向に舵が切られた。

●満州事変
 満州国の建設計画は、関東軍の作戦参謀・石原莞爾少佐と奉天特務機関・花谷正少佐、参謀本部の重藤千秋大佐などの陸軍の高級官僚の間でプランが作られたといわれる。

 満州事変の発端は、昭和6(1931)年9月18日、奉天の郊外の柳条湖で満鉄の線路が爆破されたことから始まった。当時、関東軍の司令部は旅順にあり、遼陽に第2師団、奉天に独立守備隊があり、総兵力は1万4千、軍司令官は本庄繁中将であった。謀略の首謀者は、高級参謀・板垣征四郎大佐、作戦参謀・石原莞爾少佐であった。

 基本的なパターンは、張作霖爆殺事件と殆ど同じである。張学良軍事顧問補佐官・今田新太郎大尉が中国人浮浪者3人を雇い、手榴弾で線路を爆破しようとしたが、暗闇と馴れぬ仕事で列車に損傷を与えることもなく、軌条の接合点をわずかに破壊した程度であった。
 爆発音を聞き、丁度、夜間演習を行っていた日本軍の独立守備隊が行ってみると、射殺された中国人の死体が残されていた。

 日本軍の行動は早かった。近くの北大営を直ちに攻撃し、残りの守備隊は奉天城を攻撃、旅順の本庄軍司令官は、夜11時頃、「日支両軍衝突」の報を受けて、直ちに出動命令を出した。翌日、独立守備隊と第2師団は、北大営と奉天城を占領。関東軍司令部は午後2時に旅順から奉天に前進した。

 関東軍が行動を起こすや朝鮮軍が、司令官の独断で満州に越境して進軍するという信じられない勇み足が起こり、事後的に奉勅命令が出されるという奇妙なことになった。関東軍は息つく間もなく、長春、営口を占領、更に吉林、チチハル、ハルピンに進出、わずか5ヶ月で全満州を手中におさめて、翌昭和7(1932)3月1日、「満州国」の樹立が宣言された。元首には、清朝の最後の宣統帝・溥儀の擁立が決定した。

 北京の紫禁城を追われた溥儀は、天津にいて天津駐屯軍の依頼を受けても動こうとはしなかったのを、奉天特務機関長・土肥原大佐と天津歩兵隊長・酒井大佐により仕組まれた1931年11月の「天津暴動」により天津から連れ出され、その後に満州国皇帝に擁立されていく。その過程は次号に述べる。




 
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