(1)「金大中事件」とは何であったのか?(その2)
●金大中事件とは?
このように見てくると、金大中の拉致事件は、朴大統領の「維新体制」と称する独裁制を確立するために起こされた一連の事件のひとつであることが分かる。
そこでまず事件の経過を簡単に述べる。
72年秋、朴大統領によって作られた独裁体制に反対するため、金大中は政治の活動拠点を国外のアメリカと日本に移した。そして在米、在日の韓国人を中心に、米、日の有力政治家の支援を得て朴政権に対する反対勢力を結集し始めていた。
その結果、73年7月8日に韓国民主回復統一国民会議の米国本部が結成され、さらに翌8月13日には、同会議の日本本部が結成された。
これにより海外における反朴勢力の活動は、朴政権にとって無視できない状況になってきていた。
この反朴活動の中心人物である金大中を抹殺しようという試みは、既に、71年5月に起こっていた。国会議員選挙の最終日であったその日、金大中の乗用車は大型トラックに衝突され、乗用車は横転し、金大中は重傷を負うという事件が起こった。
そのため金大中は、72年以降、活動の拠点を危険な韓国からアメリカや日本に移した。その間にもKCIAによる嫌がらせや、妨害がいろいろ行なわれていた。
73年8月8日における金大中の拉致にいたる過程については、第4代・KCIA部長を務めた金炯旭の証言がある。彼は、69年までは尹将軍に代わり、朴政権を支える4人の実力者の1人に数えられていた人物である。
しかし73年4月、維新態勢の確立とともに米国に亡命し、朴政権の内幕を暴露する行動に出た。そのことから、その後、パリで暗殺される。
▲拉致計画の関係者
金炯旭の証言によると、最初に金大中の拉致の指示を受けたのは、駐日大使館公使の金在権(本名:金基完)であった。しかし金在権がその計画に反対したため、韓国政府は、彼の部下の金東雲を韓国へ派遣するよう指示してきたという。
金東雲が、KCIA本部にいくと、李厚洛部長ではなく、金致烈次長から詳細な計画を指示された。金致烈は、その後、検事総長から内務大臣まで出世した人物である。ここからも金大中事件が、李厚洛を落としいれる策略であったことが分かる。
金致烈は、金東雲に金基完(金在権)を日本における総責任者に、李哲熙をKCIA本部と東京との連絡役に指名した。(フレーザー委員会公聴会報告、第1部、39-40頁)
この事件の関係者は、その後に委員会に提出されたKCIAリストを含めると、次のようになる。
KCIA部長―李厚洛
KCIA次長―金致烈
KCIA次長補―李哲熙、KCIA本部と東京の連絡役
(実行メンバー)
金在権(本名:金基完)―駐日大使館公使、拉致計画の現場責任者
団長―KCIA本部から派遣、尹振元(海兵大佐)、実行犯リーダー
駐日韓国大使館参事官―尹英老、実行犯メンバー
同一等書記官―金東雲、拉致計画の実行責任者
駐日横浜領事館領事―劉永福、実行犯メンバー
駐日韓国大使館参事官―洪性採、実行犯メンバー
秘密工作員―柳春国、実行犯メンバー
駐日韓国大使館書紀官―白哲鉉、
▲拉致事件の概要
金大中は、73年7月10日、韓国民主回復国民会議の日本支部を結成(8月13日)するため、アメリカから日本に入国した。このときから彼は、日本の警察、CIA、KCIAなどによる3重の監視下に置かれるようになる。
そのため東京における彼の宿泊場所は、京王プラザホテル、ニュー・オータニ、ホテル・パシフィック、原田マンションを転々と変えて警戒を厳重にしていた。
拉致事件当日の73年8月8日には、昼12時に韓国民主統一党の党首・梁一東と彼の宿舎である九段のグランド・パレス22階の2212号室で、昼食を共にして会談することになっていた。
梁一東は、4日から同ホテルの2211号と2212号の続き部屋のスイート・ルームに宿泊していた。金大中は11時頃にそこを訪問し、同じホテルにいた民主統一党の国会議員の金敬仁を交え、3人で昼食を共にして会談を行なった。
*事件初日(8月8日)
金大中は、2時から赤坂東急ホテルで自民党の木村俊夫代議士と会う約束があったので、1時過ぎに2212号室を出た。
金敬仁が金大中を見送るため一緒に廊下に出ると、6人の男たちが飛び出してきて、金大中は、4人の男に2210室に連れ込まれた。
驚いた金敬仁が大声を出すと、2人の男に2212室に押し戻された。
そのとき1人の男が、「騒いだら国の恥だ。国際的にも困難な問題だか一寸我慢しなさい」と静かな物腰で、韓国語でいった。(毎日新聞社編「金大中事件全貌」20頁)
2210室に連れ込まれた金大中は、エーテルのようなものをかがされ、一瞬、気を失ったが、麻酔の効果は薄かったようである。気がついたときは、縛られており、部屋から引きずり出されて、エレベーターに乗せられた。
日本人の男女2名がエレベーターに乗ってきて、7階で下りる時に金大中は「助けてくれ」と2回叫んだ。このとき、けられたり、殴られたりした。(「朝日新聞」73年8月14日夕刊)
8月31日に前田駐韓公使が韓国外務部から受け取った「金大中供述調書」によると、2212号室から出て、金大中がエレベーターのほうへ7,8歩歩いたとき、2210室から3人、2215室から3人の計6人により囲まれた。
そのうち2人が金敬仁を2212室へ押し戻し、4人が2210室へ金大中を押し込んだ。
4人は金大中を部屋に監禁し寝台に寝かし、目と口を覆い隠し麻酔を嗅がしたので意識が朦朧となったが、麻酔は完全には効かなかった。しばらくして2人の男が金大中の腕を支えてエレベーターに乗ったら、17,8階で27歳くらいの日本人の男女が乗り込んできた。
金大中が「人殺しだ!助けてくれ!」と日本語で叫んだが、日本人に反応はなく、7階で下りていった。(「毎日新聞」73年9月1日夕刊)
エレベーターは地下駐車場に下り、4人の男により大型乗用車に乗せられた。2210室には、麻酔薬の臭いが立ち込めており、ピストルの弾倉、リュックサック、キスリング、13メートルのロープ、外国タバコ、その他、多くの遺留物が残されていた。そこから後に金東雲の指紋も検出された。
情報機関の仕事でこれだけの証拠を残したことは、わざとしたとしか考えられない。
さらにフシギなことは、金大中拉致には駐日韓国大使館が関与していると直感した梁一東は、金在権公使に直ちに電話をした。すると公使は日本の警察に金大中の捜査、保護も依頼せず、既に現場へ急いでおり電話が繋がらなかった。
そのため日本の警察が現場へ到着するのは、公使よりも遅れるとういうフシギな初動捜査が始まったわけである。
さらにフシギことは、この初動捜査の遅れの理由に対して国家公安委員長・江崎真澄は、金大中のシンパと見られていた自民党議員・宇都宮徳馬の秘書から警察が電話を受けたので、その調査をしていたことにある、と国会で答弁している。
(金大中氏拉致事件真相調査委員会編「全報告・金大中事件」215-216頁)
その頃、自民党最右翼の中川一郎、石原慎太郎などの青嵐会は、「金大中という人物は芝居好きの人物であり、この事件は自作自演の芝居だ」とする風説を流していた。(「上掲書」216頁)
このようにみてくると、金大中事件は後の政治決着を含めて、朴政権と日本の韓国ロビーによる日韓合作のなれあい事件のように見える。
さてグランド・パレスの地下駐車場から、大型乗用車に乗せられた金大中は、高速を5,6時間走り、途中で道を聞いたとき京都とか大津とかの地名を聞いた。
そこで、誰かが「アンの家」へ行こうと指示を出した。アンの家は、エレベーターのある家で、1時間ほどいた。
そこで現金、旅券、時計などすべて奪われ、身体は縛られ、運動靴に変えさせられた。午後11時頃、海岸からモーター・ボートに乗せられ、1時間後、大きな船に移された。このとき犯人の1人は、「12時50分だ」といった。
**その後に判明したこと
■ グランド・パレスの駐車場係が確認した「大型乗用車」は、クリーム色のスカイライン2000「55も2077」、出庫時間は、8月8日13時19分である。
■ 途中、犯人から道をきかれた人物は、日本道路公団大阪管理局交通管理所の職員であることが分かった。
■ 「アンの家」は、神戸市東灘区のマンション「エクセル岡本」302号室と思われ、大阪韓国総領事館の朴宗華領事が使用していた。その運転手を安(アン)竜徳といい、事件直後に韓国へ帰国している。
■ モーター・ボートは、林秀根所有の「ヤマハ28CR」という376馬力の高速艇であり、西宮ヨット・ハーバーから沖合いの船まで運んだと見られる。
林秀根(日本名、林秀夫)は、大阪市天王寺真田山町に豪邸を構える在日韓国人であり、済州島出身、国際観光株式会社社長である。
■ 最後に、モーター・ボートから移された大型船は、KCIAにより対北朝鮮工作用に用いられた高速艇で、最大出力35ノットの性能をもつ。最初は「金竜号」と名付けられていたが、その後、「竜金号」、「唯星号」と改名された。
■ 金大中が拉致されたときには、「竜金号」と呼ばれていたと思われる。
(「全報告金大中事件」219-229頁)
*事件第2日(8月9日)
船の中では眼帯の目隠しの上にテープを巻き、口には木のくつわ、右の手足に50キロくらいの重りをつけられ、海に投げ込まれるのではないかと思った。そのとき、「飛行機だ」と犯人たちの騒ぐ声が聞こえた。
船は500トン級の大きな船で、「水が欲しい」といたら、「何を言うか」とどなられたが、その後、ジュースと米の粉、タバコを持ってきてくれた。
**その後に判明したこと
■ 門司海上保安部崎(へさき)信号所の「信号日誌」によると、金大中を乗せた竜金号は、8月9日午前8時45分に大阪港を出航し、10日午前9時54分に関門海峡を通過して西に向った。韓国側の発表によれば、8月11日の深夜に釜山港外に到着し、12日の午前7時に接岸している。
■ この飛行機と殺害計画の変更は、諸説があって最も重要なところであるが、残念ながら最も分かりにくいところでもある。
ここではアメリカへ亡命した韓国のジャーナリスト・文明子の証言を以下に紹介する。「事件直後、在韓米大使館の某高官が青瓦台に対し、金大中氏の安全確保について、強硬な申し入れを行なった。
その結果、青瓦台は、金大中を殺せという当初の指令の撤回を李厚洛KCIA部長に命じた。新指令に基づく韓国側の要請により、自衛隊のヘリコプターが「殺すな」と、韓国語で書いた警告文に重りをつけて、誘拐本船の甲板上に落とした。」
(文明子の証言、毎日新聞社「金大中事件 全貌」142頁)
73年8月9日、海上保安庁のヘリコプター118号機が、訓練のため八尾飛行場を離陸し、午前11時5分に帰着している。「秘」印の飛行記録には、大阪南港の埋立地上空を長楕円形に飛んだ飛行コースが記載されている。
まさに竜金号の上空を海上をかするように飛んでいたことになる。乗員は、八尾航空基地次長の松本国喜代ら4人であるが、当然、彼らは、そのような事実を否定している。
「全報告 金大中事件」は、飛来した飛行機は米軍機としているが、米軍関係で、その時刻に、現地を飛んだ記録はない。なお海上保安庁の広島基地からは、6-8時、10-11時、13-14時に3機のヘリコプターが広島周辺の瀬戸内海を飛んでいる。
もし文明子のいう自衛隊のヘリコプターが、海上保安庁の118号機であるとすると、8月9日の10時頃に犯人たちは指令の変更を受け取り、金大中への取り扱いが変わり始めたことになる。
「全報告 金大中事件」では、9日深夜に竜金号は金大中を外洋の海中に投棄するため1度、大阪港外から南下して外洋に向っていたのが、飛行機による指令により暗殺計画の中止により、再び大阪港に戻ったとしている。
*事件第4日(8月11日)
午前10時頃、韓国のどこかの港につき、モーター・ボートできた4,5人の男に引き渡された。上陸後、目を覆われたまま注射を2本された。その後、車に乗せられ、さらに、寝台のある大きな車に乗り換え、2時間ほど走った。道路は舗装されており、大型貨物車の行きかう音が聞こえた。11日夜、ある家に着いた。薬を3粒飲まされた。
**その後に判明したこと
韓国側の発表によれば、8月12日の午前2時頃、竜金号は釜山港外に到着し、12日の午前7時に接岸したという。これは上記の金大中の記憶と完全に1日分ずれている。竜金号の韓国への到着については、韓国側の記録によるしかないので、このズレは大きなナゾである。
*事件第5日(8月12日)
午前8時頃、目が覚めた。油紙を敷いた家の2階で、部屋にはオンドルがあった。医師に注射を2本打たれ、目と手の治療を受け、眼帯を取り替えた。このとき犯人の2人を見た。30歳くらいの体格のよいスポーツマン・タイプであった。食事は、韓国の定食であった。
*事件第6日(8月13日)
午後8時頃、車で家を出た。犯人は「救国同盟行動隊」を名乗った。車は2時間ほど走り、ソウルへ入り、自宅近くの教会前で降ろされ、3分後に目隠しをとり、家に帰った。
●事件の実行犯?
事件の実行犯として、75年7月31日に社会党金大中事件調査特別委員会(事務局長・田英夫参院議員)が公表したリストは、図表-2のようなものである。
図表-2 金大中事件の真相
役割 |
名前 |
役職 |
元凶 |
李哲熙 |
KCIA次長補 |
総責指令 |
金在権 |
前公使 |
現場指揮 |
尹ジュンウォン |
特別派遣 |
下手人 |
尹ジュンウォン |
特別派遣 |
尹英老 |
参事官 |
金東雲 |
1等書記官 |
洪性採 |
同上 |
柳春国 |
|
劉永福 |
2等書記官 |
ホテル予約 |
韓春 |
1等書記官 |
国内管理 |
河テジュン |
局長 |
金振洙 |
中領、生年隊長 |
(出典)毎日新聞社編「金大中事件 全貌」171頁
今ひとつ、アメリカへ亡命した第4代KCIA部長・金炯旭が、米下院国際関係委員会(フレーザー委員会)に提出して発表されたリストを図表-3に揚げる。
図表-3 金大中事件犯行者リスト
名前 |
役職 |
役割 |
李厚洛 |
中央情報部長 |
|
金致烈 |
中央情報部次長 |
|
李哲熙 |
中央情報部次長補 |
|
金在権 |
駐日大使館公使 |
日本の犯行責任者 |
尹振元 |
海兵大佐、本部から派遣された現場責任者 |
実行グループ |
尹英老 |
駐日大使館参事官 |
金東雲 |
駐日大使館1等書記官 |
劉永福 |
駐日大使館参事官 |
洪性採 |
駐日大使館参事官 |
柳春国 |
駐日大使館2等書記官 |
白哲鉉 |
駐日大使館1等書記官、後に不参加が分かりリストから外された |
(出典)毎日新聞社「前掲書」、175頁
この2表からいろいろな事が分かる。まず関係者がすべて中央情報部と駐日大使館の関係者であることから、この事件が、韓国政府の組織的な犯行であることを示している。
第2に、図表-2から、この事件の「元凶」と名指しされたKCIA次長補の李哲熙が、事件後にKCIA次長に出世していることである。ということは、事件そのものは朴政権にとっては成果があったことを示している。
第3に、この事件の中心になるべき李厚洛の姿が見えないことである。そのことは、この事件が、金大中の拉致と同時に、そのことによる李厚洛の失脚を狙ったものであった事を如実に物語っているように思われる。
その意味から、一見して粗雑な国際的テロ事件とみられるこの事件が、朴政権にとっては十分に成果があったと考えられるのである。しかしその反対に、日本政府は、この事件により、有力な大統領候補であった外国のVIPの生命を危険にさらし、しかもその犯人たちが政府を背景にした組織的なものであることから、国際的な体面を失うことになった。これに対する調整が、「政治決着」と呼ばれるものである。
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