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彷徨える国と人々
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  (3)金大中氏のその後 ―死刑判決から大統領まで

●続く軍事政権との対決
 ▲朴大統領の暗殺事件
 79年10月26日、18年間続いた朴正熙の軍事独裁政権が、突然終わった。
 その日の午後7時半、大統領官邸の青瓦台に近いKCIA分室食堂において、朴大統領がホストの金載圭・KCIA部長に拳銃で殺害されるという事件が起こった。
 その場にいたのは、大統領、車智K・大統領警備室室長、金桂元・秘書室長、そして金載圭・KCIA部長の4人のほかは、ホステスの女性2人であったといわれる。
 
 事件の原因は、金載圭・KCIA部長が、「釜馬事態」と呼ばれる空前の反政府的なデモの責任をライバルであった車智K・大統領警備室室長に面罵され、それに大統領が同調したことが直接的な動機となったといわれる。
 「釜馬事態」とは、維新体制の第7年の前日である10月16日、釜山において学生・市民4000人が「天に訴える」べく蜂起した事件である。
 その蜂起は既に前日、釜山大学の学生集会において維新撤廃、緊急措置解除、政治犯釈放、学園の自由、言論の自由、朴政権の下野、金日成の退陣、金泳三支持を訴えた事に始まっていた。
 この釜山事態は、釜山市全体の蜂起に発展し、10月18日には釜山市に非常戒厳令が発令された。この釜山市の蜂起は、直ぐ隣の馬山市に飛び火し、衛戍令が発令された。これが「釜馬事態」である。

 ▲全斗煥の軍事クーデター
 朴政権が崩壊すると、維新憲法の規定に従い、国務総理である崔圭夏が大統領権限を代行し、12月6日に崔圭夏が第10代大統領に選出された。
 しかし12月12日に、陸士11期出身の全斗煥、盧泰愚、金馥東が主導して、軍内部で陸軍参謀総長・鄭昇和を逮捕してクーデターを起こした。

 ソウル市内に戦車部隊が出動して対峙したこの軍事クーデターにより、全斗煥司令官が軍部を掌握するとともに、80年4月14日には自ら軍服のままKCIA部長代理に就任、民間人の支配権まで軍部が掌握した。
 5月17日、崔暫定政権の政策に対して民主化を要求する学生デモが激発すると、非常戒厳令を全国に拡大し、国会解散、政治活動の禁止を強行した。
 さらに、この5.17クーデターに抗議して、光州市において学生・市民が決起すると、軍は光州市において学生・市民の大量虐殺に踏み切った。これが所謂「光州事件」である。

 ▲光州事件と金大中の死刑判決
 光州市のある全羅南道は、元大統領候補・金大中の政治的基盤である。そのため戒厳司令部は、金大中一派を、「光州騒乱の黒幕」にデッチ上げた。
 そのため金大中は5月17日に逮捕されて、南山のKCIA本部の地下室において連日連夜、厳しい取調べをうけた。

 戒厳司令部は、5月17日の深夜以来、連行して取り調べていた金大中ら36人の反政府活動家の捜査報告を7月4日になって発表し、金大中は、8月14日から内乱扇動罪により軍事裁判にかけられた。
 そして9月17日、陸軍戒厳普通軍法会議の文応植裁判長(陸軍少将)は、金大中に「死刑」の判決を下した
 裁判の開始から判決まで、僅か1ヶ月という余りの短さに驚かされる。

 死刑の「判決要旨」は、「被告は、執権のための野望に目がくらみ、学生および国民を扇動し、暴力による反国家活動により、わが政府の打倒を企画した。このような犯行は、天、人ともに許さざるところである」(角間隆「金大中大統領」小学館文庫、212頁)と述べている。
 KCIAによる事実上の自宅軟禁状態に置かれていた金大中被告に、そのような反国家的企画ができたのであろうか? しかも、死刑に値する証拠が、1ヶ月程度の裁判で明確にできたのであろうか? この判決文の表現はいかにも抽象的である。

 この裁判の過程で、80年8月16日、崔圭夏の大統領辞任が発表され、「全斗煥・国家保安委員会常任委員長の大統領就任を支持する」という声明が出された。
 そして崔氏は18日に青瓦台を去り、9月1日、全斗煥は、第11代大統領に就任した。KCIAは廃止され、「国家安全企画部」と名を変えた。

 一方、金大中は、80年11月8日に、日本の最高裁にあたる「大法院」に上告し、81年1月23日、大法院は「上告棄却」の判決を下して死刑が確定した。そして世評では、判決と同時に間髪をいれず死刑が執行されると思われていた。
 しかし1月20日に、大統領就任式を終えたばかりのアメリカ大統領レーガンが、新国防長官の座についたワインバーガーを通じて、全斗煥大統領に金大中の処刑中止を申し入れてきた。これは明らかにアメリカによる露骨な内政干渉である。
                       (角間隆「上掲書」216頁)

 ▲金大中の減刑と渡米
 しかし問題は、民主主義の人権と生命にかかわる重要な問題である。金大中は大統領の特権発動により、81年1月24日、「死刑」から「無期懲役」に減刑され、忠清道・清州刑務所という韓国で最も過酷な刑務所に投獄されることになった。
 この刑務所は冬には零下18度まで気温が下がるといわれ、椎間板ヘルニアの持病に悩まされていた金大中にとっては、非常につらい獄中生活であった。

 81年3月3日、全斗煥は「大統領選挙人団」による間接選挙においても圧倒的な票を集めて、正式に第13代大統領の座についた。
 そのとき、金大中の刑を「無期懲役」から「懲役20年」に減刑した。しかしこれは既に50代半ばの金大中にとってはあまり益はなかった。
 一方、全斗煥大統領の立場は、側近たちの汚職事件などにより急速に悪化していた。そこで金大中をアメリカへ追放することにより、アメリカの人権擁護派への立場をよくする取引材料として、「海外で政治活動をしない」という条件で、82年12月23日、金大中とその家族をアメリカへ送り出した。
 
 83年1月から金大中は、首都ワシントン郊外、ヴァージニア州アレクサンドリアのアパートの16階で、アメリカにおける療養生活を始めた。しかし手術をしてもその効果が期待できない事が分かり、83年6月にマサチューセッツ州ケンブリッジのハーバード大学に居を移し、国際問題研究所の客員研究員として学究生活に入った。

 しかし85年2月12日には韓国において国会議員選挙が予定されており、金大中は命がけの帰国を果たすことにした。

●与・野党の対決時代へ
 ▲金大中の帰国と新民党の躍進
 金大中の帰国にあたり、最初、全斗煥政権は、「入国したら即刻、逮捕・投獄する」と言っていた。
 ところがアメリカ政府が、金大中の帰国と全斗煥の第2回目の訪米受け入れを取引材料にしたため、2月8日に無事帰国することはできた。しかし帰国後は、再び「自宅軟禁」状態に逆戻りしてしまった。

 金大中は、アメリカ滞在中から韓国にいる盟友・金泳三と連絡をとり、新野党の「新韓民主党」(新民党)の構築をすすめていた。そして新民党は、2月12日の選挙では野党第1党になった。
 ちなみにその後の5月特別国会の議席配分は次のようになった。
       与党「民正党」―――148議席
       野党「新民党」―――103議席
       その他   ―――― 25議席
 
 この野党進出の状況に危機感をもった全斗煥大統領=民正党総裁は、陸士同期であった盧泰愚・予備役陸軍大将を、「ソウル・オリンピック組織委員長」に任命した。
 それは明らかに「ポスト全斗煥」の大統領候補として、軍事政権を維持する対策である。そこでこれと同時に、85年3月6日には「三金氏」(金泳三、金鐘泌、金大中)をふくむ大物14人の政治追放の解除に乗り出さざるをえなくなった。
 このような政治的背景の下、88年の大統領選挙では、市民や野党勢力による「大統領直接選挙制」への憲法改正を要求する声が高まってきていた。

 87年6月29日、全斗煥大統領は「民正党」の代表委員の盧泰愚とはかり、「6.29民主化宣言」という思いもかけぬ先制攻撃に打って出た。そしてこの宣言の中で、(1)「大統領直接選挙制」への合意改憲の実現、(2)金大中氏の赦免と復権を表明した。
 そして87年12月16日、72年の朴大統領による維新憲法から、16年ぶりの大統領の直接選挙が行なわれた。

 この段階では、野党の「新民党」は、民主党、平民党、共和党の3つに分裂していた。その野党側は統一候補の擁立に失敗したため、候補者は、盧泰愚(民正党)、金泳三(民主党)、金大中(平民党)、金鐘泌(新共和党)の4人の戦いになった。
 そのため「安定の中の民主的発展」を公約とした盧泰愚候補が第1位で828万票、第2位の金泳三候補に200万票の差をつけて圧勝して、第13代大統領・盧泰愚が誕生した。

 引き続き行なわれた88年4月26日の国会議員選挙の結果、議席は次のようになった。
     与党の「民正党」―――125議席
     金大中の「平民党」―― 70議席
     金泳三の「民主党」―― 59議席
     金鐘泌の「共和党」――35議席

 ▲大与党・民自党の誕生と金泳三政権の成立
 政府にとっては、特に金大中の「平民党」の進出が脅威であった。90年1月2日、盧泰愚大統領は、野党第2党の金泳三、野党第3党の金鐘泌を密かに青瓦台に招き、与野党が合同して新党を結成するという戦法に撃て出た。これによって「民主自由党」(=民自党)という新政党が誕生した。

 92年12月18日の大統領選挙は、盧泰愚大統領の後任の座をめぐり、金泳三(民自党)、金大中(民主党)、鄭周永(国民党)の3候補の間で戦われることになった。
 その結果、93年2月25日、金泳三が第14代大統領に就任した
 金泳三時代の韓国は、「円高・ウォン安」を背景に経済成長を続け、95年には成長率9%、1人当たりのGNP1万75ドルとなり、96年10月23日には長年の悲願であったOECD(経済協力機構)への加盟も認められ、アジアでは日本に次いで2番目の「先進国クラブ」への仲間入りを果たした。

●金大中・第15代大統領の誕生
 韓国民の民主化への期待をこめて誕生した金泳三時代の政権も、94年10月21日にソウル市の「聖水大橋」が崩壊して32人が死んだり、大事件が続発して、与野党の連合体であった「民自党」は、金泳三の新韓国党(のちのハンナラ党)、金鐘泌の自由民主連合、国民新党などに分裂した。
 
 金泳三自身も改正憲法の規定により、98年2月には権力の座から降りなければならないという状況の中で、軍事政権時代の汚職や不正事件の摘発が始まった。
 そのような情勢の中で、95年暮れに全斗煥、盧泰愚の「元・前大統領」が逮捕され、裁判にかけられるというパフォーマンスが行われた

 96年8月の第1審の判決は、「全斗煥は死刑」「盧泰愚は懲役22年6ヶ月」という驚くべきものであった。
 97年4月17日の上告審では、「全斗煥は無期懲役」、「盧泰愚は懲役17年」に減刑されたものの、それでも大統領経験者に対する処置としては、まさに「革命」に匹敵するものであった。
 97年12月の大統領選挙で金大中の当選が決まった。正式就任までの間隙をついて金泳三は、軍事政権時代の2人の大統領に「特別赦免」を与えた。
 金大中大統領の出現は、将に「革命」であった。

 97年12月18日、第15代韓国大統領を選ぶ「直接選挙」が行なわれた。
 金泳三の与党・ハンナラ党はあらゆる手段を使って、金大中の失脚をはかろうとしていた。そのため金大中(国民会議)は、金鐘泌の保守新党の「自民連」と手を組まざるを得なくなった。空前の激戦の結果は次のようになった。
     金大中(新政治国民会議=国民会議)――1033万票(40.3%)
     李会昌(ハンナラ党=新韓国党)――――994万票(38.7%)
     李仁済(国民新党)―――――――――――493万票(19.2%)
 
 僅差の当選であった。当選の翌日、金大中は経済問題担当・副総理・林昌烈から韓国が直面している「経済危機」の現実をきいた。
 当時、韓国経済は、「アジア通貨危機」の影響を受けて建国以来の深刻な危機を迎えていた。そこでの金大中政権の対策については、「何処へ行く世界」の中の、7. アジア経済の行方、 (6)韓国の通貨危機 ―金大中大統領による「開発独裁」体制の解体を見ていただきたい。
 なお本項の「(3)金大中氏のその後」の内容については、角間隆「金大中大統領」小学館文庫に大きく依存している。






 
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