アラキ ラボ
彷徨える国と人々
Home > 彷徨える国と人々1  2  3  4  >> 
  前ページ次ページ
  (2)異能の政治家・田中角栄

●政治家・田中角栄とは
 日本の政治においては、官僚出身の政治家による政権を「保守本流」と言うようである。事実、戦後政治を担当した幣原、吉田、芦田、岸、池田、佐藤などの歴代首相は、みな官僚の出身の政治家であった。
 官僚出身でない総理大臣は、片山、鳩山、石橋と非常に少ない上に、その政権は短命で存在感が薄かった。しかし田中内閣以降は、広義の保守本流に官僚以外の政権が次々に誕生するようになった。竹下、橋本、小渕などがそれである。

 佐藤はその後継者に大蔵官僚出身の福田赳夫を考えていた。しかし国民は7年8ヶ月も続いた佐藤長期政権を通じて、官僚的な政権にイイカゲンうんざりしていた。
 そのため昭和47(1972)年7月5日、自民党大会において田中282票、福田190票という圧倒的な差により田中が自民党総裁に選出されたとき、この越後の貧農から身を起こした宰相の出現に対して多くの国民が喝采を贈った

 田中角栄は、大正7(1918)年、新潟県刈羽(かりわ)郡二田(ふただ)村(現在の西山町)に生まれた。少年時代、父は牛馬商、養鯉商であったが失敗し、母が野良仕事で家を支える貧困な家庭生活をおくった。
 小学校では優等生を通し、どもりで弱い体を克服して、高等科2年を卒業するときには卒業生総代として答辞を読んだ。
 その後、上京して土建会社に小僧として住み込み、夜は中央工学校の土木科で勉強し、さらに建築設計事務所で建築設計の仕事をした。その後に機械設計もやり、土木・建築・機械の設計、製造、施工の技術を身につけた。
 その後独立して、兵歴、大病を経験したのち、昭和18(1943)年、25歳で田中土建工業(株)を創業し、社長になったという立志伝中の人物である。
 
 敗戦直後の昭和22(1947)年に29歳で衆議院議員に初当選して、衆議院建設委員となる。政治家になってからの田中角栄の活躍は華々しいものであった。
 昭和32(1957)年 第2次岸内閣の郵政大臣(39才)
 昭和37(1962)年 第2次池田内閣で大蔵大臣(44歳)
 昭和40(1965)年 佐藤内閣の自民党幹事長(47歳)
 昭和46(1971)年 佐藤内閣の通産大臣(53歳)
 昭和47(1972)年 54歳で自民党総裁、総理大臣となる。

 これらの経歴を見ただけでも、田中が並大抵の政治家ではないことが分かる。

●田中外交の業績
 田中の建設関係における業績は広く知られているが、それ以外の外交問題において特に異能を発揮した例が、日米繊維交渉と日中国交回復である。
 ▲日米繊維交渉
 佐藤政権時代に、ニクソンが沖縄返還の代償として持ち出したのが、繊維交渉(=毛・化合繊の対米輸出を規制する国際協定の交渉)であった。
 もともと繊維製品の対米輸出規制は、ニクソンが大統領選挙に際して、南部の繊維業者に約束していたものであり、それはニクソンにとっては、日本の沖縄と交換するほどの重要な問題であった。
 そのため昭和45(1970)年6月に日米繊維交渉が決裂すると、アメリカ側は対日貿易の制限をすることにより日本を牽制し、そのため70年10月の佐藤・ニクソン会談で、再び繊維問題を取り上げることになった

 70年1月、佐藤首相は繊維問題の解決のため、通産大臣を大平から宮沢に代えた。
 しかし宮沢とアメリカ側との交渉は、6月には決裂し、ニクソンは繊維問題に対する最後ののぞみを、10月の佐藤・ニクソン首脳会談に託した。
 しかしその首脳会談では繊維問題が先送りされる結果に終わり、怒ったニクソンは、日本の頭越しの訪中と金・ドルの交換停止という2重の「ニクソン・ショック」により、佐藤政権に報復した
 
 佐藤政権は、ニクソンの繊維問題に対する執着を軽く見ていた。追い詰められた佐藤首相は、通産大臣を宮沢から田中に代えて解決せざるをえなくなった。
 この最終の段階で、昭和46(1971)年7月5日、田中角栄は、第三次佐藤内閣の通産大臣になり、佐藤首相から繊維交渉の早期妥結を要請されることになった。
 この過去2代の通産大臣にわたり混迷を続けた繊維交渉を、田中通産大臣は就任後のわずか3ヶ月でまとめあげて、外交における非凡な能力を内外に示した。

 この田中的解決方法とは、アメリカの要求をほぼ全面的に受入れると同時に、それによる業界の損失を全額補填するという思い切った措置であった。この方法は、現実的ではあるものの、官僚出身の政治家にはあまりに多額の費用がかかることから、採用を躊躇する方法であったといえる
 1971年10月15日、日本側はアメリカに全面譲歩し、毛・合繊輸出の総枠で9750万ヤードの規制水準を3ヵ年維持するという、アメリカの当初原案に近い政府間協定を設けて、東京で調印後にただちに実施した。

 このような解決は、保守本流の政治家には殆どその採用が不可能な方法であった。
 このことにより田中は、アメリカから非凡な政治家として警戒され、後のロッキード事件により失脚させられる原因になったとする説さえある。

 ▲日中国交回復
 田中が首相になって取り組んだ最大の外交問題が、日中国交回復であった。既にニクソンによる衝撃的な訪中が昭和47(1972)年2月に行われており、米中間には国交が回復していた
 従って日本としても、中国との国交回復は不可避の課題になっていた。しかし岸政権以降の日本における保守本流の国際政治は、中国敵視政策をとり続けており、日本側からの日中の国交回復を行うことは、非常に困難な課題になっていた。

 この問題に対して、田中内閣は昭和47(1972)年7月6日の発足と同時に、積極的な取り組みを開始した。これに対して周恩来も田中政権発足の翌日、田中内閣による日中国交正常化の歓迎を表明し、早速、中国要人の来日が始まった。
 自民党も7月13日に日中国交正常化協議会を発足させ、7月から9月にかけて奔流のように日中国交回復の動きが活発化していった
 しかし非常に難しいのは、自民党内部の「台湾派」=反対勢力の存在であり、しかもそれが「保守本流」として存在していたことである。

 このような動きを背景にして、昭和47(1972)年9月25日、田中首相を中心とする日本政府代表団が北京を訪問した。中国側は、国交回復に当たり、次の3原則を提示していた。
 (1)中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であること。
 (2)台湾は中華人民共和国の領土の不可分の一部であること。
 (3)日本と台湾政府の平和条約は不法、無効であること。

 このうちの(3)は、「共同声明」ではふれず、共同声明の調印後に大平外相が発表した政府見解で、「日華平和条約は存在の意義を失い、終了したものと認められる」という見解を述べることで解決した。

 日中の国交正常化は、ニクソン訪中にも拘らず、保守本流の岸、佐藤政権下では取り組むことが非常に困難な外交課題であった。それが田中政権に代わったことにより、田中首相、大平外相というコンビで、僅か2ヶ月という短時間で達成された
 一方、アメリカの方は、ニクソンの歴史的訪中の以後も、米中間の国交回復は容易に実現せず、ニクソンは1974年8月にウォーターゲート事件で失脚していた。

 この間の米中関係は、昭和50(1975)年12月にフォード大統領がキッシンジャーと一緒に訪中して、ようやく米中国交正常化を確認するというようなもたつきを見せていた。
 一方、田中内閣による日中の国交の方は、73年5月に海底ケーブル敷設の協定調印、76年には工事完了、74年4月には、非常に難航した日中航空協定も調印に到った。つまり田中政権の誕生により、折角先手をとったアメリカの対中交渉は、逆転の危機にさらされていた。

 田中首相は、昭和49(1974)年9月、メキシコ、ブラジル、アメリカ、カナダを巡る旅に出た。資源の安定供給の確保を目的にした経済協力を目的にしたことから「資源外交」といわれた。
 その途中のアメリカで、フォード大統領との首脳会談に臨んだ。その前月の8月8日にニクソンはウォーターゲート事件で失脚しており、フォード副大統領が大統領に昇格していた。
 ニクソン失脚の後を継いだフォード政権と米中国交の裏舞台を勤めたキッシンジャーは、田中政権による日中国交の進展に対し、非常に警戒感を持ったと思われる。

 かつて1972年8月のニクソン・田中の首脳会談は、「日米対等」を演出してハワイで行われた。そのときニクソン大統領は、わざわざワシントンから陸軍軍楽隊を呼んで、田中首相を出迎えた。
 ところが2年後の74年9月、田中首相のワシントン訪問に際しては、「歴代首相の訪米で、こんなに静かな光景は一度もなかった」と特派員が伝えるほどの、アメリカ側は冷たい対応をした。(中野士朗「田中政権・886日」、221頁)
 田中・フオードの首脳会談は、わずか1時間で終わり、その意義は日本でも問題にされたほどである。
 
 その間における状況変化の原因は、田中の訪中と中国による田中歓迎にあったといえる。これに危機感をもったアメリカが仕掛けたのが、その後の田中失脚のシナリオではなかったか、という説は、いまなお囁かれている。






 
Home > 彷徨える国と人々1  2  3  4  >> 
  前ページ次ページ