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彷徨える国と人々
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  (3)ロッキード事件の役者たち

●ロッキード社(ロッキード・エアクラフト・コーポレーション)
 Lockheed Aircraft Corporation(略称はLAC,ここでは「ロッキード社」もしくは「ロ社」という)は、昭和7(1932)年に設立された航空会社であり、本社はアメリカのカリフォルニア州バーバンクにある。
 事業は、各種の航空機、エレクトロニクス、宇宙船、ミサイル等の設計、開発、販売を主たる営業目的にしており、アメリカ国防省からの受注契約高は全米企業中第1位を占める。つまり「官」には強く、「民」には弱い会社である。ここにロッキード事件の鍵が隠されていた。

 ロッキード社では、昭和42-50(1967-75)年の間、アーチボルト・カール・コーチャンが社長を務めていた。従業員数は関連会社を併せて約6万人。わが国の自衛隊が使用しているF-104Jスター・ファイター戦闘機、P-2V対潜哨戒機は同社から納入されたものであり、軍用機には強いが、反面で民間機は出遅れていた。

 ロッキード事件で有名になったコーチャンとクラッター両氏の略歴を述べる。
 アーチボルト・カール・コーチャンは、1941年にロッキード社の関連会社に入社し、その後、ロッキード社に移り、経理、財政、管理部門に勤務。1963年にロ社の実行副社長、1967年に社長に就任した。75年副会長に昇格し、76年2月13日、ロ社の海外における不正支払いの責任をとり退任した。

 クラッターは、1939年にロ社へ入社。販売部門に勤務。1958年にLAI社に配属され、国際取引業務を担当。しばしば来日し、その後、LAAL社の社長兼東京事務所の代表に就任。1974年の末頃、LIC社の市場開発部長になり離日した。

 ロ社の営業成績は、70年代以降、その経営が悪化しており、倒産寸前に追い込まれていた。そのため1971年にニクソン大統領は、ロ社に政府保証による緊急融資を行なった。そのような大統領によるロ社に対する特別な配慮は、ロ社がアメリカで最大の軍用機のメーカーであることに加えて、その本社がカリフォルニア州にあり、そこがニクソン大統領の選挙基盤であることからくる政治配慮があったと思われている。

●ロッキード社の販売代理店と全日空
 ロッキード事件に関わる日本の販売代理店と、ロッキード社の顧客となる全日空の関係を簡単に述べる。
 航空行政は、防衛、外交、交通の面から、一国の国家政策に最も関連の多い産業である。そのため日本の戦後における航空機の生産、購入、管理などの行政手続きは、GHQ(連合軍総司令部)により厳重な統制下に入った。
 GHQは昭和20(1945)年10月に、まず日本政府の航空行政を航空保安施設の維持、管理に縮小・限定して、それまでの航空局を逓信院電波局航空保安部と名称を変更した。
 その時の保安部長が、後に日本航空の社長になる松尾静麿、また保安課長が同じくその後に全日空の社長になる大場哲夫である。

 この航空行政は、昭和31(1956)年の国防会議構成法から、日本の国防の重要な柱となった。翌年2月に日本の再軍備路線を進める岸内閣下で、国防会議は「国防の基本方針」(5月)を決定した。
 この方針に従い、6月に第1次防衛力整備計画が策定され、航空機を1300機保有する事が決定した。ここから日本は戦後に初めて、戦闘用の航空機を保有することができるようになった。この日本における最初の戦闘機の購入をめぐり、昭和32-33年にかけてグラマン社とロッキード社などによる壮絶な売り込み合戦が繰り広げられたことは有名である。

 このときグラマン社から30億円という巨額な資金が岸首相の自民党に流れ、それが選挙資金に流用される事件が起こった。それを児玉誉士夫がスッパ抜いて、国会でも大きな問題になった。この事件を通じて、昭和32年から児玉誉士夫はロッキード社の「秘密代理人」となり、また丸紅は第1次FXにおけるロッキード社の代理店となった

 ▲全日本空輸(株)−「全日空」
 全日空は、昭和27年12月27日に日本ヘリコプター輸送(株)として設立され、昭和32年12月1日に全日本空輸(株)と名称を変更した。これが現在の全日空の始まりである。
 社長は昭和44年5月30日から45年6月1日まで大庭哲夫、その後を受けて、51年12月17日までを若狭得治、その後を安西正道が務めた。

 全日空は、昭和45年1月、大型ジェット機を昭和47年4月に導入する事を目途として機種選定を行なうため、社長の諮問機関として新機種選定準備委員会(以下、「選定委員会」という)を発足させ、その委員長には若狭得治副社長があたった。
 選定委員会は、ボーイング社(代理店:日商岩井)、ダグラス社(代理店:三井物産)、ロッキード社(代理店:丸紅)などからプロポーザルを提供させて、選定作業を進めたといわれる。

 大庭哲夫が全日空社長に就任した昭和44(1969)年5月30日の、2ヵ月後の7月25日に、大庭社長は三井物産を代理店とするダグラス社にDC10購入の意向を伝えている。この頃、三井物産は全日空の第2位の大株主であり、しかもDC10の導入には、閣僚級の政治家の後押しもあったといわれる。
 7月下旬には、三井物産はDC10を7機購入しており、それは明らかに全日空へのダグラス社のDC10導入の動きが始まっていたことを示している。
 さらに、選定委員会が発足した2ヶ月後の3月に大庭社長は、ダグラスの社長に70年9月に確定注文の予定を通告している。
 これらの状況を見ると、全日空の大庭社長は1970年の中ごろ、明らかにダグラス社のDC10を導入する予定で行動していたと思われ、同時にダグラス社や三井物産も、それに向かって手配を進めていたように見える。

 ところが全日空の大庭社長によるDC10導入計画は、フシギな事件により昭和45年の中葉に頓挫する。そのフシギな事件とは、俳優の田宮二郎の自殺事件でも有名になったM資金から、昭和44年7月28日に大庭社長が、3000億円の架空融資を受ける念書にサインしたことが明らかになったことである。
 その責任をとって、大庭社長は昭和45年5月31日に全日空社長を辞任し、代わって副社長の若狭得治が後任の社長に就任する。
 これにより全日空は、ダグラス社からのDC10の購入計画から、ロッキード社のトライスターの導入計画に変える。そのため三井物産は既に購入ていたDC10を、大幅値引きしてトルコ航空に売らざるをえない状況に追い込まれた。

 一方、ロッキード社側は、昭和44年頃から主に日航を対象にトライスターの売り込みを行なっていた。しかし日航は、従来ボーイング社やダグラス社と密接な関係にあり、エアバス級の旅客機を購入する可能性は全日空のほうが高いとして、全日空が若狭社長になった頃から、全日空への売り込みに転換する。

 ▲ロッキード社の販売代理店・丸紅
 ロ社の販売代理店を努める丸紅(株)は、丸紅飯田が東通を合併し、昭和47年1月に社名を丸紅に改めた。本社は大阪にあるが、営業の拠点は東京にあるため東京本社と呼び、営業の中心は東京にある。
 従業員数は1万人で、内外物資の輸出入を扱う総合商社である。この会社で、ロッキード事件の関係者となったのは、次の人々である。

 檜山宏 −昭和7年東京商科大学専門部卒、丸紅の前身である大建産業に入社、昭和39年に取締役社長、昭和50年に会長を務め、ロ事件により51年3月退職。

 大久保利春 −昭和13年東北大学法文学部卒、三和銀行勤務からはじまり、昭和41年6月に丸紅飯田の科学機械部長に就任、43年に取締役、46年5月に常務取締役、50年5月に専務取締役。43年6月から航空機の輸入・販売等を担当。昭和51年2月17日からロ事件に関連して取締役を辞任。

 伊藤宏 −昭和23年東京大学法学部を卒業後、大建産業に入社、その後、病気で除籍になったが、26年に丸紅に復籍。社長室に勤務し、昭和46年取締役として社長室、人事部、研修室の部長、昭和47年常務取締役として社長室長、人事本部副本部長、業務本部副本部長を兼務、50年6月に専務取締役として人事、業務部門を管掌したが、51年2月17日にロ事件に関連して取締役を辞任した。

 ▲ロッキード社の秘密代理人・児玉誉士夫
 児玉誉士夫は、戦前、戦後を通じて行動右翼として、日本の裏社会を中心に活躍した人物である。出生は福島県安達郡本宮町であり、大正7年頃上京した。その後、朝鮮に渡り働いたが、大正15年4月に再び上京して鉄工所に工員として勤め、夜学で勉強した。
 昭和4年に上杉慎吉博士の右翼団体「建国会」に入り、次のテロ事件により3回入獄して有名になった。
 昭和4年(18歳) 天皇直訴事件       懲役6ヶ月
 昭和6年(20歳) 井上蔵相脅迫事件     懲役5ヶ月
 昭和7年(21歳) 天行会・独立成年者事件  懲役4年6ヶ月     

 出所後、右翼団体を組織したが間もなく解散し、内蒙古方面を旅行していたとき、外務省情報部長・河相達夫の紹介で外務省情報部嘱託となった。
 さらに、陸軍参謀本部嘱託、支那派遣軍総司令部嘱託などを経て、昭和16年11月ころから海軍航空本部嘱託になった。
 同年12月に有名な児玉機関を設立して、昭和20年8月まで上海を本拠にして海軍航空本部のための物資調達等の活動に従事していた。

 戦後、GHQの防諜部隊(CIC)が、戦時中の児玉機関の調査を徹底的に行なった。その時、児玉機関の財務試算表の総額は、なんと447億1,476万3,517円42銭という膨大な額にのぼっていたといわれる。
 ここからCICは、児玉が蓄積した資産は30-50億円と推定した。(春名幹男「秘密のファイル −CIAの対日工作」新潮文庫、上、342頁) 当時は10円札が大金の時代であり、その頃の上記資産額は殆んど天文学的な数字であった。
 この資金の一部は、戦後、鳩山の日本自由党の創設資金に使用されたという。

 戦後、児玉は昭和20年9月に東久邇内閣の参与になったが、翌年1月、A級戦犯容疑で巣鴨拘置所に収容され、23年に釈放された。
 戦後の児玉の仕事は、表と裏に分かれており、表の仕事としては貿易会社、製糖、ホテル、新聞など多くの事業を始める。
 しかしその一方で、「児玉事務所」を設けて、会社間の紛争の仲裁を始めた。これがいわば裏の仕事であり、その一つがロ社の秘密代理人であった。

 児玉とロ社の関係は、昭和33年4月頃、ロ社のF-104型戦闘機を日本政府に売り込むため、LAI社長のジョン・ケネス・ハルが、わが国の政財界に隠然たる勢力を持つ児玉の尽力を借りるため要請したことに始まる。それ以降、児玉の要請で、契約書など一切作成しない秘密コンサルタントとして活動していた。

 この関係は昭和39年にハルからクラッターに引き継がれ、昭和43年12月に第2期の戦闘機がグラマンに決定したとき、怒った児玉は佐藤内閣総理大臣あての公開質問状を送った。この頃、児玉にはロ社からクラッターを通じて、毎年1500-2000万円の報酬が支払われていたといわれる。(ロ事件検事側冒頭陳述より)

 昭和40年代に入り、航空旅客需要は世界的に急増しており、航空各社の販売競争は激烈を極め始めていた。ボーイング社は40年9月頃からB-747ジャンボ・ジェット旅客機の開発に着手し、ロ社は昭和42年からエアバスL-1011型機、これと前後して、ダグラス社はエアバスDC-10の開発に着手していた。

 ロ社のコーチャン社長は、児玉のコンサルタント料を増額し、全日空に対するDC-10の売り込み情報を入手するとともに、全日空等の大株主で日本の航空業界に隠然たる勢力をもち、かつまた内閣総理大臣・田中角栄と眤懇の関係にある国際興業社長・小佐野賢治を、ロ陣営に取り込む事に成功した。

 コーチャンは昭和47年9月16日ころ、児玉、小佐野と面談して、9月1日の田中・ニクソン会談において、ニクソンがエアバス導入と、トライスターの購入の話を出したかどうかを、政府筋に確かめてほしいと依頼した。
 これに対して小佐野は、この依頼を了承し、トライスターを支持する意向を明確にしたといわれる。児玉は、小佐野がロ社のためにいろいろ援助してくれていることから、昭和48年10月中旬に20万ドルを小佐野に渡した。(ロ事件検事側冒頭陳述から)

●田中首相の刎頚の友・小佐野賢治
 小佐野賢治は、「たった一人で田中角栄政権を生み出した上、四十余年の経済活動で十兆円もの巨額な資産を残した。・・空前絶後の政商といわれる」(菊池久「政商たち 野望の報酬」82頁)。
 47年7月7日の田中が福田に圧勝した自民党総裁選は「札束戦争」といわれて、60〜100億円の総裁選挙資金が動いたといわれるが、それをたった一人でまかなったのが小佐野であり、まさに「田中政権の生みの親」といわれる所以である。

 小佐野賢治は、昭和6年に山梨県東山梨郡東雲村の東雲尋常高等小学校高等科2年を卒業し、すぐに上京して自動車の部品販売業の本郷商店に入った。昭和12年に召集されて入隊、14年9月に戦傷により除隊、療養の後、16年に東京の自動車部品販売業である東京アメリカ商会の経営に参加した。
 同社は、昭和20年2月に東洋自動車工業(株)と名称を変更し、小佐野はこの会社の代表取締役社長に就任した。これが国際興業(株)の前身となる。

 小佐野は昭和23年9月、業務上横領罪で横浜米軍軍事法廷において重労働1年の判決を受けた事から、同社の社長を辞任していた。しかし小佐野自身が同社の株を100%保有していることから、「社主」あるいは「会長」と称して同社に常勤し、業務全般を統括してきた。

 小佐野は、この国際興業を中心にして、ホテル、交通、建設、観光企業の株を取得して事業を拡大し、日本電建、国民相互銀行、富士屋ホテルなど、多数の国際興業グループの役員を兼任するほか、帝国ホテル、東京急行電鉄など多数の会社の取締役にも就任し、さらに49年6月から51年8月まで日本電信電話公社の経営委員も勤めた。
 
 小佐野は、自分が経営する国際興業がホテル事業および航空代理店業を行なっている関係から、わが国の主要定期航空会社の株式を、小佐野名義で取得してきた。
 昭和47年12月現在では、日航(1.97%)、全日空(2.02%)、東亜国内航空(0.09%)、また51年3月現在、日航(2.61%)、全日空(2.00%)、東亜国内航空(0.09%)、(カッコ内は、全株式に対する%:出典:検事側冒頭陳述書)であり、日本の航空会社の大株主として隠然たる勢力を持つ存在となっていた。

 政商といっても、小佐野が田中と組んで仕事をしたのは、虎ノ門公園跡地の国有地払い下げとロ社のトライスター売り込みの時だけといわれる。(菊池久「前掲書」102頁) その他は、小佐野が倒産寸前の田中が所有する日本電建を買い上げてピンチを救い、さらに田中の後援団体である越山会への政治献金を行うなど、主として小佐野が田中を支援する関係であったという。

 9月1日の田中・ニクソン会談の後で、小佐野が砂防会館にある田中事務所へ行ったとき、田中は「実は、ニクソンとの会談でハワイに行った際、ニクソンから日本が導入する飛行機は、ロッキード社のトライスターにしてもらうとありがたいといわれた。全日空の方針はどうかな」と話し、その意向を全日空側に伝えるように依頼した。
 そこで小佐野が、9月中旬頃、国際興業において全日空副社長・渡辺尚次に田中の意向を伝え、暗に全日空がL-1011型航空機を選定するよう慫慂した。渡辺はそのころ若狭社長にその旨を報告したという。(東京新聞特別報道部編「裁かれる首相の犯罪 −ロッキード法定全記録」★ 59頁)






 
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