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日本人の思想とこころ
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  (3)「日本国」の誕生―「にほん」ぬきの「日本書紀」

●そこでは「日本」を「にほん」と呼ばなかった!
 720年にできた正史「日本書紀」には、「日本」という漢字が満ち溢れているところがその「日本」の文字は、不思議なことに「ニホン」と読まれなかった。
 表題の「日本書紀」は、「やまとふみ」「日本武尊」は「やまとたけるのみこと」、初代の神武天皇の正式名・「神日本磐余彦天皇」の「神日本」は「かむやまと」と呼ばれている。つまり「日本」はすべて「やまと」と読まれていた

 天皇の名前にも「大日本」という名称が多く使われている。しかし、それらは「おおやまと」と呼ばれた。「倭」も「大和」も「日本」も、すべて「やまと」である。
 後で述べるが、大化の改新後の天皇である孝徳天皇は、詔の中で、その名を「日本倭根子天皇」と呼んだ。そこでは、「倭」、「日本」「やまと」の文字が2つ並んでいる。
 つまり「ヤマトのやまとねこのすめらみこと」であり、これは明らかにおかしい。

 本居宣長は著書「国号考」において、日本書紀・孝徳天皇の条における3国(=百済、新羅、高句麗)を相手にした詔の中で、はじめて「国号」に「にほん」が使われた、と述べた。
 その孝徳天皇の正式な名称は、大化元(645)年の高麗の使者に対する詔書では、「明神御宇日本天皇」(あきつかみとしろしめすにほんすめらみこと)と読まれ、そこで「にほん」という国号が初めて使われた、と述べられている。

 さらに、大化2(646)年2月、孝徳天皇が蘇我右大臣に読み上げさせた詔書のなかで、天皇自身の名として「明神御宇日本倭根子天皇」という言葉が使われた。
 そこでは「日本」と「倭」の重ね言葉になっている。そこで飯田武郷も大著「日本書紀通釈」の中で、本居宣長と同様に、それを明神(あきつみかみ)が日本(にほん)御宇(しろしめす)倭根子(やまとねこ)の天皇(すめらみこと)と読んでいる。

 膨大な数にのぼる日本書紀の「日本」という漢字の中で、この2箇所の「日本」のみが日本国の国号として初めて「にほん」と呼ばれた、というのが、本居宣長、飯田武郷など、平安朝以降における日本書紀の訓読の流れを受けた見解である。
 万葉集の中にも『日本』という言葉は登場しない。ただ一箇所に「ヤマト」に「日の本の」という「枕言葉」をかけた長歌がある。作者は未詳であるが、日本の海外に対する事情に通じたかなり身分の高い人物により作られたと思われている。(万葉集319)

 つまり大化の改新により、日本はヤマト中心の部族国家から日本列島全体を律令制国家として支配する第1歩を踏み出した。このことを海外にむけて宣言するとき、初めて「にほん」という国号が使われた、という解釈である。

 しかし戦後に日本古代史の権威を集めて編纂された「日本書紀」(日本古典文学大系・岩波版)においては、「日本倭根子」は、「日本」と「倭」との重ね言葉にも拘らず、「日本倭」を単純に「ヤマト」と読んでいる。
 そこでは日本書紀から「にほん」という呼称がすべて消された!

●古事記には「日本」という漢字もなかった!
 日本書紀に先立つ日本の史書は「古事記」である。この史書の史料的背景は、帝紀、旧辞など古いものではあるが、それが編纂されたのは天武天皇の時代の和銅5(712)年のことである。
 日本書紀が、養老4(720)年に編纂されたとすれば、編纂の時代は殆ど同じである。

 日本書紀には、「日本」という漢字が溢れているのに、「にほん」と読まれなかった。ところが同時代に編纂された古事記には、読み方どころか「日本」とか「日の本」とかいう文字そのものが現われてこない。
 たとえば日本武尊(やまとたけるのみこと)は、古事記にも登場するが、そこでは倭建命(やまとたけるのみこと)であり、同一人にあてられる漢字は全く異なっている。

 古事記に登場する天皇は推古天皇までであり、孝徳天皇がどのように呼ばれるか分らないが、初代・神武天皇は同一であり、神倭伊波礼毘古命となっている。つまり日本書紀における「神日本」が、古事記では「神倭」であり、日本書紀が編纂の際、従来、「倭」と呼ばれていた言葉に、「日本」という漢字を当てはめたことが分る。そのため日本書紀では、「日本」を「にほん」と読むことがなかった。

 つまり古事記も日本書紀も、太陽信仰の思想的観点から、日本国に「日本」、「日の本」という言葉を当てはめた気配が全く感じられない。このことから、日本国の国号を太陽と絡めて考える思想は、7世紀中ごろ、日本の国号の変更を外国に発表した後で創作されたと考えられる。

●日本の国号改定は、7世紀中ごろに外国向けに発表された?
 朝鮮の3国(百済、新羅、高句麗)の正史「三国史記」の「新羅本紀」の文武王10(670)年の条には、「倭国、号を改め、日本とす」と書かれている。
 それに加えて、「日出ずるところに近いことからその名をとる、と日本国自身が言っている」という注釈もついている。
 
 新羅本紀のこの記事は、中国の旧唐書が日本について挙げている記事を基にしていると思われるので、まず旧唐書を見てみよう。
 中国では、王朝ごとに正史が編纂されており、7世紀の日本についての記事は、旧唐書,新唐書に記述されている。この旧唐書の列伝、「東夷」の項には、新羅本紀の記述のもとになったと思われる記事が載っている。

 そこでは、「日本国は倭国の別種であり、その国が日辺にあることから、「日本」と名付けたという。一説には、「倭国」という名前が雅でないことから、それを嫌って日本と改めた、ともいう。また一説には、日本はもともと国が小さいので、倭国の地をあわせた」とする見解が載せられている。
 この記事のもとになった時期は、貞観22(648)年ころと思われる。

 このことから考えると、本居宣長が「国号考」で述べているように、大化改新後、つまり7世紀の中葉に、中国、朝鮮の国々に対して出された孝徳天皇の詔書の中で、「日本」(にほん)は、国号としてこの言葉を使い始めた、と考えられる。
 このことから本居宣長、飯田武郷の書紀訓読の見解は正しかったと私は思う

●「日出ずる国」の思想
 しかしここで不思議なことは、日本の国号には日出ずる国を意味する「にほん」を使い、さらに天皇の名前には「大日本」をつけて日出ずる国の王であることを強調しているにも拘わらず、日本書紀の記述から日出ずる国=日本という思想が、殆ど感じられないことにある

 私見を述べると、原始的な太陽信仰は日本に古来あったことは確かであるが、皇祖・アマテラス神と太陽神を結びつけ、日本国を「昇日の国」とする思想が形成されたのは、天武,持統天皇あたり、つまり7世紀末からである。そのため書紀の編纂時には間に合わなかったと私は考えている。
 そして奈良時代以降、書紀の訓読の過程で太陽信仰にからんだ日本思想が形成されていったと考えられる。そこで誰もがすぐ思いつくのは、7世紀始めに、聖徳太子が小野妹子を遣隋使として派遣した際、国書の中で使われたという「日出ずる国」という言葉のことである。その話を簡単に述べる。

 推古15(607)年秋7月、聖徳太子は隋との正式な国交を開くために、小野妹子を正使とした第1次遣隋使を隋の煬帝のもとに派遣した。このとき、聖徳太子の手になるといわれる国書の中に、「日出ずるところの天子、書を日没するところの天子にいたす、恙なきや」という言葉が使われていた。この国書の文言は、随書をはじめ多くの文献に残されており、事実であったと思われる。

 この国書の表現は、外交的には信じられないほど失礼な文言であり、殆ど常識では考えられないものである。どうしてこのような国書が、有徳と思われる聖徳太子によって書かれたのであろうか?これも歴史のミステリーの一つである。
 隋書倭国伝、日本国志隣交志によると、煬帝は、その場で激怒こそしなかったものの、不快な様子で鴻臚卿(=外務大臣)に対し、「野蛮な国から来る書には無礼なのがあるものだ。もう2度とこのような言葉は、聞きたくないものだ!」と語ったと記されている。

 その続きと思われる話が、日本書紀にある。この聖徳太子の国書に対する煬帝の返書を小野妹子は、帰路に百済人に奪われたとして持ち帰らなかった。そのため帰国後に流刑にされそうになる。正使が返書を奪われたという話は、殆ど事実としては考えられない。おそらく煬帝の返書の内容が、そのまま持ち帰ることを憚られる厳しい文言であったことが想像されるのである。
 
 小野妹子が隋を訪れた607年、煬帝は高句麗への遠征攻撃を計画していた。日本は、高句麗のその先にある辺境の小国である。この状況では、国書における言葉のやり取り次第で、隋・高句麗戦争に巻き込まれることを小野妹子は恐れたと私は思う。
 その結果、流刑を覚悟で国書を紛失したことにした。そのまま小説に書いたら面白そうな話である。まさに歴史における国際的なミステリーの一つである。

●日本における古代国家の完成―天皇は神になった!
 日本の古代国家は、645年の大化改新後から、中国の律令制度にならった中央集権的な支配体制がつくられ、部族国家から統一国家への第1歩を踏み出した。
 この新しい国家体制は天智天皇の病気と死去、さらに壬申の乱をへて、天武天皇と持統天皇によりかたちを変えて受け継がれた

 天武天皇とその皇后であった持統天皇により、日本は古代国家として確立した。天武天皇は壬申の乱を通じて神にまもられて即位したという意識が強く、そのため即位後の天皇の地位は、従来の部族の王を超えて、天を頂く「天皇」つまり現人神になった
  
 日本書紀では、第1代神武天皇以来、「天皇」を称しているが、天皇が政治権力と神的権威をもって君臨するようになったのは、天武、持統天皇からと考えられる
 その天皇の権威を明確にするために、古事記、日本書紀が編纂され、利用された。そして万葉集には天皇を神としてたたえる賛歌がいくつか登場した。

 例えば、壬申の乱に参加した大伴御行は、「大君は神にしませば赤駒の腹這う田井を京師(みやこ)となしつ」とか「大君は神にしませば水鳥のすだく水沼を京師となしつ」と天皇を「神」として奉賛する歌をいくつか作っている。
 また天武、持統天皇の時代を生きた大歌人・柿本人麻呂も「おほぎみは、神にしませば、あまぐもの、いかずちの上に、いほりうるかも」、また「おほぎみは、かみにしませば、くもかくる、いかずち山に、宮しきいます」と、天皇を「神」としてたたえる歌をささげている

 日出ずる国の天皇は、「日のもとの神」つまり「太陽神」になぞらえられた。そのため天武、持統天皇の時代には、天皇の祖神として太陽神=アマテラス大神が脚光を浴びることになった。
 記紀をはじめとする日本の神話に登場する神々は、八百万(やおよろず)の神といい、無数の神々が登場する多神教の世界である。この多神教の日本の神話が、天武、持統天皇の時代を通じて、皇祖神で太陽神のアマテラス大神を中心にした一神教に編成された。

 皇祖神で太陽神であるアマテラス大神は、崇神、垂仁天皇の時代に出雲神と分離・祭祀されて、5世紀末から6世紀には伊勢神宮がつくられていた
 壬申の乱に際して、天武天皇は三重県朝明郡の迹太川のほとりでアマテラス大神を遥拝したことを、書紀は伝えている。
 また柿本人麻呂は、万葉集199に、壬申の乱において伊勢の神風が天武天皇を擁護したとするたいへんな長歌をささげている。さらに、天皇の皇女を伊勢の斎宮とする制度が、天武天皇のときに成立しており、皇祖=太陽神アマテラスの伊勢神宮の権威は、天武天皇のときに確立した

 さらに天武天皇の皇后であった持統天皇は、自らをアマテラスに擬したといわれる女帝であり、万葉集における藤原京の役民の詩にも、「わが大君、高照らす、日の皇子」とうたわれたほどである。持統天皇は、7世紀末に日本最初の本格的都城である藤原京を造営した。その新都では、都の東に天の香具山、西に畝傍山、北に耳成山の大和三山が配置された。

 東の天の香具山は、日本神話の高天原の香具山が天下ったとされる太陽信仰の山であり、さらにその東の果てに、太陽神アマテラスを祭る伊勢神宮が配置された。
 また西の日没方位には墳墓の地、幽界の地として畝傍山を配置し、まさに太陽信仰による造都がなされたといえる。この造都の途中に、持統天皇は周囲の反対を押し切り、伊勢神宮に行幸している。

天上界と高天原・「神国日本」の誕生―では「幽界」の統治者はだれか?
 天皇=現人神とするためには、多神教の日本神話を再編成する必要があった。その観点から、記紀の神話を見直してみると、まさにミステリーに満ち溢れている
  
 崇神,垂仁天皇の時代にもう一度、戻ってみる。そこでは崇神天皇の5-6年にかけて、疫病がはやり、百姓の逃亡、背反が相ついだ。その原因は、どうも宮廷の中に、天孫族の祖神アマテラスと征服された出雲族の祖神オオクニヌシを、共に祭っていることにあることが分った。

 そこでアマテラス大神には、豊鋤入姫命をつけ大和の笠縫村に祭り、オオクニヌシ大神については淳名城入姫命を付けて祭った。ところが淳名城入姫命の髪は落ち、体はやせてオオクニヌシをお祭りできなくなった。
 そこで占いをしてみると、大和のオオモノヌシ神が現れて、大田田根子に自分を祭らせれば治まると告げた。このオオモノヌシ神が前に述べた三輪族の祖神である。

 その後、アマテラス神の奉斎役は、豊鋤入姫命から倭姫命に代わった。倭姫命は巡行を重ねた末、最終的に現在の地に伊勢神宮(内宮)が造られたことを日本書紀が記している。
 その後、雄略天皇のときに、伊勢神宮(外宮)がつくられた。しかし実際には、「外宮の先参り」という話もあり、内宮の方が外宮より後で作られたともいわれる。

 この伊勢神宮の祭神、アマテラス神を日本の神々の中心にすえる神話の構成が、天武、持統天皇の頃から行なわれ始めたようである。そのために「天神」を「高天原」から切り離し、地上界を治める「地神」の最高神をアマテラス大神とした
 「天皇」の祖神の最高位にアマテラス大神を設定することにより、アメノミナカヌシが治める天上界から切り離して、アマテラスが治める高天原と神である天皇が治める日の本の国を結ぶデュアル・システムの世界構造が出来上がった。

 明治のはじめ、天上界、地上界から離れた死後の幽界の支配権をめぐり、大騒動が持ち上がった。明治3年、明治新政府は、神社はすべて国家の宗祇であるとする太政官通達を出して、伊勢神宮を頂点として日本中の神社の社格を制定するとした制度化に着手した。つまり日本中にある八百万の神々の神社は、この制度により、伊勢神宮を頂点として社格が付けられることになった。

 明治8年3月に神道の準公的な中央機関としての神道事務局がつくられ、局内の神道大教院には4柱の祭神が祭られることになった。その4神とは、天之御中主大神、高御産巣日大神、神産巣日大神、そしてアマテラス大神であった。
 最初の3神は天神であり、殆ど実態のない神々である。津田左右吉からは記紀編纂時に権威付けのために挿入された神々であるといわれていた。
 つまり祭神の実態は、アマテラス大神を頂点とする神社統制を示すものであった。

 それにクレームをつけたのが出雲大社の大宮司で大教正の千家尊福であり、4柱に大国主命を加えて鎮祭すべきである、と建議した。
 千家尊福は、アマテラス大神が天界の統治者であるのに対して、死後の幽冥界の統治者はオオクニヌシの神の役割であるとして、その確認を全国の神道教導職の大会議での審議を求めたのである。
 人間の死後の問題は従来、神道は殆ど無視していた。しかし、記紀では幽冥界の統治者はオオクニヌシの神の役割としており、この建議は宗教としての神道の弱点をついたものになった。このことにより、神道界を2分する大騒動に発展した。

 大方の教正の見解は、死後世界についてはオオクニヌシに代表される幽界の神を祭祀すべきものとして賛成であったが、問題は幽界が必ずしも死後世界を意味するものではないことにあった。千家尊福の建議に反対した伊勢神宮大宮司兼大教正の田中頼庸は、アマテラスの世界が顕界に限定されて、幽界に及ばなくなることを恐れた
 
 伊勢神宮大宮司・田中頼庸によれば、アマテラス神の支配領域は、顕界、幽界のすべてに及ぶものであった。結局、この事件は勅裁を受けなければ解決出来ないところまでいった。勅裁の結果、神道事務局の神殿は宮中祭神の遥拝殿に縮小され、一件は落着した。しかし出雲神道のほうも、幽界への取り組み姿勢は、必ずしも明確ではなかった。そのため、この事件は神道の宗教としての理論的弱点を露呈することになった。




 
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