(2)ゾルゲ事件の経過
●事件の発覚
事件の発端は、日本共産党の伊藤律が特高警察に漏らした情報から、1941(昭和16)9月28日に「アメリカ帰りのおばさん」・北林トモと夫芳三郎が共に逮捕され、麻布六本木署に留置されたことに始まるとされてきた。
その取調べの結果、同じくアメリカ帰りの画家・宮城与徳との関係が浮かび、10月10日に宮城与徳が逮捕された。宮城がゾルゲの指令によって活動していたことから事件の全貌が浮かび上がり、全員の検挙にいたった、とするのが通説であった。
ところが1989年のソ連の崩壊以降、長い間秘密にされてきた1930年代におけるソ連の諜報活動の史料が明らかになり、ゾルゲ事件の裏には、当時、コミンテルンの執行委員であった野坂参三の関与が明らかになってきた。
そのため60年後になり、100歳を越えて日本共産党の名誉議長の地位にあった野坂が、1992年にスパイ活動により党を除名されるという事態に発展した。
そのため、ゾルゲ事件の見方も今では大きく変わってきている。
事件の発端になった北林トモは、1886(明治19)年、有名な漢学者・斉藤匪石と妻ツヤの三女として生まれた。1920(大正9)年にロサンゼルス郊外で農園を営む北林芳三郎と写真結婚して渡米、1934(昭和9)年にアメリカ共産党に入党した。しかしその後、キリスト教徒に転向し、1936(昭和11)年に単身帰国した。
その後、渋谷区隠田の洋裁女学院の教師となったが、39年に夫が帰国すると、夫の郷里の和歌山へ移り住んでいた。
特高が北林トモを調べてみると、同じくアメリカの共産党員であった洋画家の宮城与徳との関係が明らかになった。宮城与徳は、沖縄生まれの洋画家で、1920(大正9)年に16歳で渡米、アメリカの美術学校で絵の勉強をし、プロレタリア芸術の運動を行い、1931(昭和6)年にアメリカ共産党に入党、2年後に帰国し、帰国後、非合法運動に参加していた。
帰国に当たり、宮城に200ドル与えて、日本上陸後の連絡方法を指示した日本人のコミンテルン関係者は、「ロイ」と呼ばれる人物であった。当時、アメリカ共産党・日本語書記局にロイ・矢野という人がいたが、その人は野坂参三に粛清されたといわれる。そしてゾルゲ事件において宮城、北林に指示を出した「ロイ」という人物は、実際には野坂参三であることを、野坂の下で働いていた長谷川泰次が自供したといわれる。(「週間新潮」昭和53年3月9日号、48頁、ジェームス・小田「スパイ野坂参三追跡」彩流社)
宮城与徳はコミンテルンの野坂参三の指示?を受けて、1940(昭和15)年から尾崎の娘の絵画教師という名目でゾルゲと尾崎の連絡役を務めていた。
宮城の供述から10月15日に尾崎が上目黒の自宅で逮捕された。続いて、17日に水野成(大原社会問題研究所・東洋協会勤務、中国問題の専門家、獄死)、18日にゾルゲ、クラウゼン、ヴィーケビッチの3人、22日に川合貞吉(中国で活躍した革命家)が逮捕され、翌年4月までに25人が逮捕された。
第1回公判は43年5月31日に始まり、判決は9月27日というスピード裁判により、尾崎、ゾルゲともに死刑になった。尾崎は上告したが、44年4月5日に棄却され、同年11月7日のロシア革命記念日に、東京巣鴨の拘置所で尾崎、ゾルゲの死刑は執行された。
●「ゾルゲ事件」―戦後の経過
1945年8月15日の敗戦により、日本の状況はすべて変わった。それにも拘らず、治安維持法や特高など戦前の政治的法規制は、そのまま残っていた。それがGHQの命令によってすべて撤廃されたのは、10月4日のことであった。
そのため10月10日には戦時中の政治犯はすべて釈放され、東京・新橋の飛行館において歓迎大会が開かれた。その10月末、西沢隆二、岡林辰雄、小沢茂、梨本作次郎らが、警視庁から戦時中に押収された文書、資料を奪還してきた中に、伊藤律の自白によりゾルゲ事件を摘発した特高警察の伊藤猛虎に、内務大臣功労賞を与えるという稟議書が発見された。
また1949(昭和24)年2月10日に、米陸軍省は「極東における国際スパイ事件」コーネル報告(=「ウィロビー報告」)を発表し、これを翌日の日本の新聞は一面で一斉に報道した。
その発表の背景には、戦後になり年を追って激化してきていたアメリカとソ連の東西冷戦とそれによる諜報戦争があり、特に、48年ごろからはアジアを中心にした状況は危機的段階になってきていた。
当時の国際政治の状況を見ると、40年代末の中国では、殆どその全土が共産主義の陣営に入っており、朝鮮半島においても全島の共産主義化が危惧される状態になっていた。日本の敗戦により南北に分断された朝鮮半島においては、米ソ協定により米ソ両軍が48年12月に朝鮮半島から撤退することが決まっていた。当時、南朝鮮の政情は極めて不安定であり、米軍の撤退と同時に朝鮮戦争に突入する前夜の様相を帯びてきていた。
中国では、49年に人民解放軍が北京、南京、上海を解放し、10月1日には北京において中華人民共和国建国が宣言されるところまできていた。
このアジアにおける共産化に危機感をもったアメリカは、ソ連の国際共産主義の謀略が日本において戦前から行なわれていた事実を公表し、共産主義の脅威を日本人に宣伝する活動を開始。そのために戦時中のゾルゲ事件が利用された。
それが「ウィロビー報告」である。しかし不思議なことに、ゾルゲ事件公表の2週間後には、ロイヤル陸軍長官が「事件発表は一部広報部員の手違い」と発表し、前年に発足していた「ゾルゲ事件真相究明委員会」も閉鎖されることになった。
この「ウィロビー報告」において、伊藤律が、北林トモをスパイとして警察に密告し、そこで警察が1941年9月28日に北林トモを逮捕し、これがきっかけになって10月にゾルゲ事件の一味が逮捕されたとされている。
つまりこの報告により、ゾルゲ事件の発端は、官憲のスパイであった伊藤律の密告によることが明らかにされた。
戦後、伊藤律は1945年8月26日にいち早く仮釈放された。これは一般の政治犯の釈放が10月10日であったのに比べて非常に早い。戦後、共産党へ入党したのは12月以降と見られるが、12月23日には第1回東京地方党会議において9名の党委員の一人に選出されている(以下、出典の多くは渡部富哉「偽りの烙印」による)。つまり伊藤律は、戦後の早い時期から政治行動を開始しており、徳田球一,志賀義雄により共産党が再建された最初の段階で入党したと思われる。
45年10月頃からは農民運動のオルグとして参加し、46年2月の第5回党大会において日本共産党の中央委員・書記局員、5月には政治局員、さらに農民部長という重要な地位を占めて、徳田球一の政策の片腕となった。
従って、40年代後半期における特高資料の発見やウィロビー報告は、当時の日本共産党の指導体制に深刻なダメージを与えたと思われる。
日本共産党は、49年2月10日、志賀義雄が次のような談話を発表している。
「伊藤律がこの事件(=ゾルゲ事件のこと:引用者)に関係があったといううわさも、すでに1946年3月(=特高資料の発見段階:引用者)、厳密に調査を進めた結果、当時の特高に固有の邪悪な謀略と妄想と功賞をもとめるための作文にもとづくものであることがわかった。かれは北林ともという夫人とはなんら組織上の連絡はもたなかった」(渡部富哉「上掲書」312-313頁)
翌1950年1月6日、コミンフォルム(=共産党および労働者党情報局:1947年にソ連共産党を中心に作られた共産主義の国際機関)の機関紙が、「日本情勢について」という論文において日本共産党の野坂参三の「平和革命論」を名指しで批判するという衝撃的事件が起こった。
49年から50年にかけて、日本共産党はまさにアメリカとソ連の双方から攻撃を受けることになった。
このコミンフォルム批判を受けて、日本共産党の指導体制は、徳田の「主流派」と、志賀,宮本の「国際派」に分裂し、深刻な対立が激化することになった。
この50年8月初旬、徳田球一の指導下における最後の政治局会議において、国内指導は志田,伊藤,椎野の3者合意を中心とする指導体制を決めた。
つまり伊藤律は、いくつかの「スパイ事件」の疑惑にも拘らず、合法共産党の最後の段階における主流派のトップの位置についた。
1950年5月3日、マッカーサー元帥は日本共産党を非合法化し、翌月、国警本部は全国の集会、デモを禁止した。日本共産党の幹部は地下にもぐり、この年の10月に徳田が、翌月に野坂が、ついで西沢が北京へ脱出し、中国に北京機関をつくった。そして翌51年10月、伊藤律も日本から北京へ脱出した。
徳田球一は53年10月に北京で死去する。そして彼の片腕であった伊藤律は、徳田が入院して事実上のトップの座から降りた52年12月、北京において野坂参三を中心とした幹部会により、スパイ容疑で隔離査問を受けることになった。
徳田球一が死去する前月に、「アカハタ」は伊藤律の処分声明を発表した。そして53年12月から伊藤は「アメリカ帝国主義のスパイ」として、北京で投獄生活を送ることになる。55年9月、日本共産党の中央委員会常任幹部会は、伊藤律を「スパイ挑発者」と発表し、記者会見を行なった。
その中では、伊藤律は既に一高時代から警察のスパイであり、ゾルゲ事件では北林トモを売り渡し、ゾルゲ事件の尾崎秀実をふくむ進歩的な人々の言動をくわしく定期的に警視庁に報告していた、とされている。さらに、伊藤はゾルゲ事件の直前に逮捕されて、内部からゾルゲ事件の証拠かために貢献したとされている。
1958年8月の第7回大会において伊藤律の党からの除名が決まった。そして中国において28年間という長い獄中生活を送った伊藤律が日本に帰国したのは、1980年9月であった。そしてその9年後の89年8月7日死去した。
伊藤律は、86年6月8日付けの渡部富哉氏宛ての書簡に次のように書いている。
「若し私が本当にゾルゲ集団を売り渡す大罪を犯したのなら、スランスキー(=スターリンに粛清されたチェコ共産党書記長:引用者)同様、裁判にかけ処刑すべきであった。
それをせずに28年間秘密監禁し、永遠に私の口を封じようと野坂、宮本らが企てたのは何故か?ここにはかつての国際共産主義運動の暗黒面と日共内部の路線闘争、そしてCIAの手が絡んでいることは明白である。」(渡部「前掲書」、344頁)。
伊藤律の死から3年たった1992年9月、「週刊文春」がモスクワで発掘した資料をもとに、今度は野坂参三が実はソ連のスパイであったとする説を連載し始めた。
そして在米共産党員・宮城与徳を日本に派遣した"ロイ"と呼ばれる人物は、実は野坂参三であることが明らかになった。
野坂参三は1892年生まれであるから、このときはなんと100歳である。日本共産党の表看板を長く勤めてきた野坂は、この年の9月の中央委員会総会において除名処分になった。モスクワで発掘された資料では、野坂がソ連のエイジェントとして情報活動をしていた期間は、戦前から53年までの資料により明白である、とされている。
事実、野坂参三は、1931年日本共産党の密名を帯びて入ソし、コミンテルン執行委員会幹部会員となり、その後、アメリカに2回潜入して日本における人民戦線の構築を呼びかけている。
まさにアメリカ共産党の日本人部の人々が、コミンテルンの指示により日本に帰国した時期に相当している。さらに、40年に中国の延安に入り、中国共産党と協力して国際共産主義運動を推進した人物である。
ゾルゲ事件の背景には、コミンテルンの野坂参三がいたことが明らかになったわけである。しかしこれほど状況証拠が明確なことが、50年間も伊藤律をアメリカのスパイに仕立てて放置され、今度は100歳になった野坂参三がソ連のスパイであった、と発表されたことは真に不思議なことである。
ゾルゲ・スパイ事件は、日本共産党を中心にして今なお日ソ米3国におけるスパイ合戦の闇の中に生きているといわざるを得ない。
|