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日本人の思想とこころ
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  (3)首都を支える地方都市の機能

 江戸時代における多角的な都市機能とそのネットワークは、更に学問、技術、文化などの交流を通じて、3都を含むその他の地方都市との間にソフトウェアのネットワークを作り出した。そのために現代の東京一極集中とは全く対極的ともいえる都市空間の関係が作り出されていた。

 これに対して、明治以降の日本における東京一極集中の傾向は、皇居、行政、経済の分野に留まらず、学問、技術、文化にいたる広い範囲に及んだ。
 そのことにより、東京から学問、技術の研究機関を地方に移すと、その水準が落ちるおそれがあるために移転ができないという状況になった。
 つまりハードウェアもソフトウェアもともに一極に集中してきたことが、現在の東京問題の根底にある。この点が江戸時代には現代の日本と非常に違っていた。それを見てみよう。

●長崎―外国文化が流入する最先端都市
 鎖国(1639:寛永16年)下の江戸時代における長崎は、国外に向けての窓口となる唯一の町であった。特に、西洋文明に対しては、西欧で唯一の国としてオランダが長崎の出島に商館を構えることが許された(1641:寛永18)。そのため西洋の学問、技術、文化は、長崎へくるオランダ人を通じて齎されたことから、長崎という町は「蘭学」(オランダ=西洋学)の最先端の町となり、そこへ全国から蘭学を学びたい人々が集まってきた

 17紀の中ごろから、長崎へ来日したオランダ人の医師を通じてオランダ医学(=蘭学)が流入するようになった。ここから在来の漢方医に対して、新しく蘭方医が生まれた。更に8代将軍・吉宗が蘭書の輸入の解禁(1720:享保5年)を行い、実学の振興政策をとったことから、医学、天文学、暦学などの分野も発展した。

 長崎において日本人を相手にした塾を開いた最初の外国人は、1823(文政6)年に来日し、鳴滝塾を開いて医学を教えたシーボルト(オランダ人ではなく、実はドイツ人の医師)である。彼の門下生には高野長英、小関三英、伊藤圭介など数十人が出た。

 彼の教育は日本における洋学の発展に非常に貢献したが、1828(文政11)年に帰国の際、当時は国禁であった地図などを海外へ持ち出しそうとしたことが発覚した。そのためシーボルトは国外に追放され、同時に国内では洋学が弾圧された。さらに彼の門下生の多数が処罰されるという、「シーボルト事件」が起こった。

 シーボルトに続いて日本の医学教育に大きな功績を残したのは、1857(安政4)に長崎の海軍伝習所の医官となったファン・メールデルフォールト・ポンペである。

 彼は長崎西役所で医学教育を行い、彼の建言により1861(文久元)年、長崎西小島に本邦における初の洋式病院である長崎養生所が開設された。
 ポンペを巡る幕府医官・松本良順や異能の医師・司馬凌海(=伊之助)をはじめとする幕末の医師たちの群像は、司馬遼太郎の大著「胡蝶の夢」の中に見事に活写されている。

 オランダ医師に続くのが、オランダ生まれのアメリカの宣教師・フルベッキであろうか!フルベッキは1859(安政6)年、宣教師として来日した。 
 彼は長崎奉行所直属の英語伝習所およびその後の済美館、また長崎・肥前藩の致遠館において英学を教えた。ここでは蘭学が、英学に変わっていることに注目される。このとき日本に必要な語学はオランダ語から英語に代わりつつあり、その発祥も長崎になった。

 幕末の写真家・上野彦馬がとったという、長崎の英語塾「致遠館」の若者たちの1枚の写真が残されている。その写真には、驚くべきことに幕末から明治の日本を支えた重要人物の殆ど大部分がそこに写っている。その人数はなんと50人にのぼる。

 そこには、幕府方では横井小楠、勝海舟、尊王攘夷派では、岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通、伊藤博文、江藤新平、大村益次郎、桂小五郎、大隈重信、高杉晋作、坂本龍馬、をはじめとする人々が、フルベッキ博士を中心に仲良く写真に納まっている。その数の多さから、私は最初、合製写真かと思ったほどである。

 1607(慶長12)年に幕府の儒官の祖・林羅山が長崎に来遊してから、西郷隆盛が1872(明治5)年に長崎入りするまでの250年の間に、長崎へ遊学した人の数は500人に上るという(太陽スペシャル「長崎遊学」平凡社)。 そこには江戸時代の知識人の殆どが長崎へ遊学していると思われるほどである。

 1788(天明8)年4月23日、江戸を出発した司馬江漢は、所要日数をなんと110日もかけて長崎へ着いた。それはいくら気ままな旅とはいえ大変な旅であった。帰りは生月島を1月4日に出て、江戸到着が4月18日、これも105日をかけている(江漢西遊日記)。
 これほど遠い長崎へ500人もの人々が西洋の学問を学ぶために向かったということは、真に大変なことであったといえよう。

●大阪―長崎に次ぐ先端学門の地
(1)緒方洪庵と適塾
 緒方洪庵は備中の藩士の家に生まれた。父が大阪蔵屋敷の勤務であったことから、大阪において文武両道を学んだ。1831(天保2)年に江戸に出て、江戸の3大蘭方医の一人である坪井信道の塾・安懐堂に入門し、更に杉田玄白の娘婿の蘭方医・宇田川玄真、またオランダ医学の雑誌を編集・刊行した箕作阮甫などにつき蘭学を学んだ。

 さらに1836(天保7)年に長崎へ下り、オランダ商館長ニーマンに学んだが、このオランダ人は医師ではなかったようである(藤野恒三郎「医学史話」)。

 緒方洪庵は1838(天保9)年に大阪瓦町に蘭学塾を開いた。その名には適適斎塾、適々斎塾、適塾など諸説あるが、一般的には適塾と呼ばれている。その後、塾の場所はどぶ池すじに移り、その家屋は現在まで保存されている。緒方洪庵は1862(文久2)年、幕命で江戸に出て、奥医師と医学所頭取になったが、翌年、54歳で急死した。

 適塾に学んだ人々の数は3千人といわれ、明治時代に活躍した大村益次郎、福沢諭吉、橋本佐内、大鳥圭介、佐野常民、長与専斎など有名人を多数輩出した。この適塾の出現により、広く洋学を学ぼうという人々は、遠い長崎まで行かなくても、大阪まで行けばそれが学べるようになったわけであり、その意味から適塾の功績は非常に大きいといえる。
 現存する天保15年の姓名録には636人の門人が記録されている。当時の適塾の状況は門人の一人であった福沢諭吉の福翁自伝に詳しく述べられている。

(2)大阪の官学校・懐徳堂
 江戸時代の官学は儒学である。そのための学問所として5代将軍綱吉の文教政策により、江戸において幕府儒官で林家の祖である林羅山の子・鵞峯の私塾が、江戸幕府の学問所に格上げされた。
 その後、1790(寛政2)年の寛政異学の禁により、それが官立の昌平坂学問所となった。ここには林家以外の学者も教育に登用されることにより、旗本の子弟の教育施設として整備された。それが江戸の「昌平黌」(しようへいこう)である。
 この学問所は、江戸時代を通じて儒学教育の最高の学校であった。そしてそれは現在の東京大学に系譜する、官学における日本の中心校となった。

 この江戸の昌平黌に対抗して大阪に設立されたのが懐徳堂(かいとくどう)である。懐徳書院ともいう。1724(享保9)年に、大阪において懐徳堂の5同志と呼ばれる三星屋武右衛門(中村睦峰)、道明寺屋吉左衛門(富永徳通すなわち芳春)、舟屋四郎右衛門(長崎克之)、備前屋吉兵衛(吉田益枝)、鴻池又四郎(山中宗吉)とういう有力町人衆により創設された。

 塾は道明寺屋吉左衛門の隠宅の地であった尼ヶ崎町1丁目の土地が提供され、京都の儒学者・三宅石庵を初代の塾長とした私塾として発足した。
 2代目の塾長となった石庵の弟子の中井甃庵が幕府に働きかけて、懐徳堂は半官半民による官許の学問所となった。石庵の友人の五井蘭州が助教として大きく貢献したことはよく知られているが、蘭州の薫陶を受けた中井竹山、中井履軒の兄弟が教授となり懐徳堂は隆盛を極めた。

 江戸時代の儒学の主流は朱子学であったが、初代塾長の三宅石庵は「外朱内王」(外に朱子学、内に陽明学)を唱えて、朱子学・陽明学のいずれにもこだわらない自由な教育を行なった
 時には、古学派(=儒教の原理主義)の伊藤東涯にも講義を依頼したといわれ、そのため「鵺(ぬえ)学問」ともいわれたが、授業の仕方も学生の聴講も自由であることが大きな特徴であったといわれる。

 懐徳堂の学問体系は、最初からかなり独自のものであり、特に中国思想の根幹をなす「陰陽五行説」を否定したことは驚嘆に値する。町人に理解されやすく、教養を高めるのに貢献し、庶民が多く参加しており町人むけの儒学としての実学を狙いにしたといえる。

 受講生の中から、道明寺屋吉左衛門の三男であった富永仲基や、仙台藩蔵元升屋の名番頭・山片蟠桃などのユニークな思想をもった学者が出た。1726(享保11)年に官学の取り扱いを受けた後、大いに発展し懐徳堂学派と呼ばれる独自の思想を展開したが、新政府になった明治2年に廃校となった。

 つまり江戸時代の大阪は、単に町人の町で商業の中心であるばかりでなく、その思想的基盤を作り、それを目指して各地から人々が集まる思想のネットワークの核ともなっていたことが分る。

●浜松、松坂、京都、江戸―国学者の門流
 江戸時代には儒学に対抗して国学の運動が盛んになり、全国のあちらこちらに私塾が作られ、出張講義による社中があちこちに形成された。

 その代表的なものを以下に挙げる。

(1)賀茂真淵の浜松文化社中―江戸と浜松の国学研究グループ
 賀茂真淵(1697−1769)は、元禄10年、遠江国浜松の神官の家に生まれた。浜松は宿場として栄える城下町である。人口は元禄年間に4,300人を数え、物資流通の中心であると同時に、日常必需品の生産地でもある。近くの笠井とともに遠州木綿の中心市場でもあった。

 浜松で国学が盛んになるのは、このような浜松宿の繁栄を背景にしていた。
 ここに賀茂真淵は、遠州国学の歌を中心とするサロンを開いた。真淵の家は代々、賀茂新宮の禰宜であり、「賀茂県主」と呼ばれていた。
 真淵は、若いときから万葉集に関心をよせており、「まごころ」、「まこと」、「ますらおぶり」をとき、多くの著書を書いてきた。

 真淵は42歳のとき江戸へ出て古学を講じた。県居門人と称して330−340人を数えたといわれる。
 門流の系統は、万葉派、江戸派、新古今派に分かれる。

 万葉派には、田安宗武、楫取魚彦、河津美樹(加藤宇万伎)、荒木田久老、栗田土満、海量、谷真潮。江戸派には、加藤枝直、千蔭、村田春道、春海、清水浜臣などがあり、新古今派としては本居宣長がいた。
 このうち楫取魚彦、河津美樹(加藤宇万伎)、加藤千蔭、村田春海を県門の4天王とよんでいる。

 真淵の門流は江戸に本拠を置き、故郷の浜松を中心にして出張講義を行なう形で、遠州国学として豪農の中にまで広がった。豪農の門弟としては、小笠郡平尾村の旧家で神職の栗田土満、磐田郡大谷村の豪農・内山真竜などが有名であるが、そのほかにも遠州各地方における郷村の国学の徒が多く出た。

 洋学の場合には、長崎、大阪の塾を拠点にして学問の普及が行なわれた。これは外国人の内地雑居が認められなかったことや、日本人に対しても攘夷者の危害が及ぶ危険があったため、自由に各地で教育などができなかったことによると思われる。
 これに対し国学にはその心配がないため、私塾に拠点を置き出張教授・講演などの形式で門徒が形成されていったと思われる。真淵の門人の約120人を調べたデータでは、最も多いのが女子で40人、続いて町人、農民で39人、武士が19人である(伊東多三郎「国学の史的考察」)

(2)本居宣長と鈴の屋社中―伊勢中心につくられたネットワーク
 江戸時代における最大の国学者である本居宣長(1730−1801)は、伊勢松坂の木綿問屋・小津屋に生まれた。元文年間に同家がつぶれたため、その後に小津という商家の屋号を捨て、本居宣長と改名して医師を志した。
 1752(宝暦2)年、京都へ出て儒者と医師であった堀景山の弟子・武川幸順に医学を学び、松坂へ帰り小児科医を開業した。国学では賀茂真淵の弟子でもあり、源氏物語から古事記にいたる日本の古典文学の研究を行なった。

 1758(宝暦8)年に京から帰った頃から、門弟をとり自宅で源氏物語の講義を始めた。宣長の学問の成長とともに門弟の数は増加し、1773(安永2)年に総数43人ですべて伊勢の人であったのが、1780年代に入ると140人を越えて、その地域も近隣諸国に及ぶようになった。

 1782(天明2)年、53歳のとき、自宅2階の書斎の1間を増築し、これを「鈴屋」と名付け、翌年、ここで臨時の歌会が行なわれた。この4畳半の茶室風小部屋の名前が、その後、宣長の国学1派の名称となり、鈴屋社中と呼ばれた。
 
 鈴屋社中の門弟の全氏名が宣長自身により作成され、「授業門人姓名録」として残されている(鈴木、岡中、中村編著「本居宣長と鈴屋社中」錦正社)。
 これによると門弟の数は、寛政5年には297人に増えており、最終的には500人を越えている。内訳を見ると、まず地域的には、当然のことではあるが、伊勢が200人でトップを占めており、続いて尾張の87人、山城21人、遠州19人で、西のほうに多く分布しているようである。
 しかし大阪は0人、江戸が4人であり、大都市には門人が少ないということであろうか?また身分的には、鈴屋社中の人々のうち280人を町人、農民が占めており、神官まで含むと350人になる。武士の割合が少ないことが一つの特徴のようである。

(3)平田篤胤とその学派
 平田篤胤(1776―1843)は、大角(大叡)または気吹屋と号し、秋田の下谷地町の藩士・大和田氏の家に生まれた。1795(寛政7)年、20歳で単身、江戸に出て艱難辛苦を嘗めつつ身を立てる努力をした。25歳のとき、松山藩士で山鹿流兵法をよくする平田篤穏の養子となり、平田姓となった。

 宣長の著書を読み、国学研究の志を立て宣長没後の鈴屋の門人となる。その知識は該博で、学風はかなり鈴門とは異なったが、真淵、宣長に次ぐ国学者と自覚するようになった。
 激しい儒学批判と尊王思想を特徴としており、宣長死後の古道精神を拡大し強化した。宣長の正統派からは嫌われたが、中部・関東以北の在方の有力者に信奉されて一大学派を形成するようになり、幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を齎した。その平田派の学問の影響は、島崎藤村の「夜明け前」に活写されている。

 28歳のとき、儒者の太宰春台を批判した呵妄書を手始めに、次々の著書を出版した。この頃から門人の数も増えて、平田学派である気吹舎門が形成されるようになった。
 1808(文化5)年、神祇伯の白川家からその諸国配下の神職の教導が依頼され、48歳の時には著書を禁裏に献上するまでになった。篤胤は、文政年間(1818−)には徳川御3家の一つ尾張候に仕えようとしたが、うまくいかなかった。

 彼の学説は、堂上家を動かし禁裏御所,仙洞御所にも献上されるようになり、このことから秋田、尾張、水戸、田安の諸家から招かれるまでになった。
 しかし幕府から警戒されて国元へ追放、著述を差止めの命令を受けるに至った。このような状況の中で、1843(天保14)年、郷里秋田で亡くなった。

 「気吹屋門人帖」を見ると、平田学派は1804(文化元)年から明治9年までの73年間に、なんと4,283名という数になる。しかもその内容は本居学派と非常に違っていた。
 まず本居学派では少なかった江戸の入門者が非常に多い。又身分では、これも本居では少なかった武士が圧倒的に多いことが特徴である。また、門人が幕末の情勢が緊迫した文久年間(1861−)以降、急激に増加している。(伊東多三郎「草莽の国学」)

 このほかにも江戸時代にはいろいろな学問、技術、芸術などのネットワークが、日本中に張り巡らされていた。それらは各藩の自立性に関わるものでもある。その面から考えると、明治以降の日本において東京の一極集中が進行して来た事は、わが国においては思想的に民主主義が成立しなかったこと、そして本来の意味の地方自治が確立しなかったことと、関わっていると思われる。




 
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