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日本人の思想とこころ
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  (3)「愛国」の無責任な変貌―「尊王攘夷」は、突然、「倒幕開国」に変わった!

 幕末の政治思想には、奇妙なねじれがあった。
 新政府を作ろうとする勤皇派の政治スローガンは「尊王攘夷」である。新しい時代を作るべき勤皇派の思想は、江戸幕府の制度を古代にまで後退させ、外国勢力をすべて日本から追い払い、日本の国家体制を原始の神武天皇の頃に戻そうというものである
 このような政策をそのまま実行したら、西欧の連合軍の総攻撃を受けて、中国のアヘン戦争と同様に日本も欧米の植民地となることは必定であった。

 これに対する幕府の思想は、国内的には幕府体制を将軍中心から列藩諸候による会議方式に変え、国外に対しては開国に踏み切り、軍備を強化して外国との貿易による近代化を志向するという、現実的かつ進歩的なものであった

 つまり新政府側の思想は時代を後戻しする反動的・観念的なものであり、旧幕府側の思想が進歩的・現実的なものであるという奇妙な逆転現象が生じていた
 では、明治政府を作ろうとする勢力が本当に「攘夷」思想を持っていたかというと、下部組織の人々はともかく上層の主流派の人々は本心では「攘夷」など全く考えていない。そこに四郎左衛門の悲劇があった。(これも2.26事件の「尊王討奸」に似ている。)
 つまり軍事、技術、経済のすべてで遥かに進んでいる西欧諸国を相手にして「攘夷」を行うことは、勤皇派の指導者にとっては幕府を追い詰める政治的手段に過ぎなかったのである。

 現在ではそれを立証する証拠が数多くある。文部省が戦前に発行した明治維新の正史の要約である「概観維新史」(昭和15)は、1867(慶応3)年12月9日の条に「初め王政復古大号令が煥発せられるや、参与岩倉具視は、朝議において欧米諸国と和親交際すべしとの論を唱え、従来鎖港攘夷に慣れてきた朝臣の多数を一驚せしめた」(851頁)と書いている。

 昨日まで攘夷一辺倒であった勤皇派の中心人物が、政権を取った途端に「欧米諸国との和親交際」に転換したわけである。「朝臣の多数」ならずとも驚くのが当然であろう。
 つまり「攘夷」というスローガンは、「征夷大将軍」である将軍を権力の座から追い落とす手段に過ぎなかったのである

 従って、権力が朝廷に移ればもはや「攘夷」という政策は不要であり、明治政府は積極的に開国への道をとることになった。その転換の舵取りをした中心人物は、明治維新の立役者・岩倉具視であったと思われる。
 その岩倉も初期には「攘夷」を考えたこともあったようであるが、既に岩倉村に蟄居させられた頃には、攘夷から開港に方針を明確に変えていた。

 岩倉を信奉していた玉松操という人物がいる。国学者であった侍従・山本公弘の子であり、国学者の大国隆正に学んで神武天皇時代への王政復古思想に固まっていた。
 慶応3年、岩倉村に蟄居していた岩倉のもとにきて、王政復古の計画に参画した。
 この頃から岩倉は、裏の隠れ戸を通じて大久保、木戸、小松、広沢などの勤皇派の志士と連絡を取り、その段階で既に攘夷から開国に転換していたといわれる。しかし、そのことを岩倉は玉松には一切言わなかった。

 攘夷派の玉松は純粋一途な人であったので、「小御所会議」から政治家として復活し、突然、開国に転換した岩倉の裏切りを許せなかった。そこで玉松は「姦雄の為に誤られた」といって岩倉の下を去った。
 その後は岩倉からのお召しにも一切応えず、1室に屏風をたててこもってしまい、明治5年になくなった。

 同じ様な話は、薩摩藩士・有馬藤太の談話筆記にもある。慶応3年12月25日、有馬は中村半次郎(=桐野利秋)とともに岩倉のもとを尋ねた。岩倉は、中村に「この戦争が終わると攘夷をしなければならないが、準備はできているか?」と聞いた。
 すると中村の答えは、有馬が想像だにしないものだった。中村は、攘夷などという言葉は御前(=岩倉)の口から出されるものではありません!あれは倒幕の口実であり、これからは開国です、といった。

 仰天した有馬が中村に真意を問いただすと、なんと中村は、それは西郷隆盛の見解だ!といった。更に驚いた有馬が西郷に問いただすと、西郷は平然と言った。
 「アお前にはまだ言わなかったかね。モー言っておいたつもりジャッタが。アリャ手段というモンジャ。尊王攘夷というのはネ、唯幕府を倒す口実よ。攘夷攘夷と言うて、他の者の志気を鼓舞するばかりジャ。つまり尊王の2字の中に倒幕の精神が含まれているわけジャ」。之を聞いて有馬は、「多年の迷夢」から覚めた。(平河祐弘「和魂洋才の系譜」334頁)

 「愛国」思想を持つ人々は、純粋な気持ちで国家的スローガンを信じている場合が多い。それに対して、「愛国」を利用する人々の言動は、極めて胡散臭いことが多い。そのことを上記の事実は見事に暴露している。

 尊王攘夷における岩倉、西郷の場合がそれである。このようなスローガンを日本の国民は明治維新から80年後の第2次世界大戦を通じて、いやというほど見せ付けられた。そのスローガンは「尊王攘夷」から「忠君愛国」「米英撃滅」など、数多い。

 その結果、日本における「愛国」思想は、その胡散臭さとの戦いになった。
 田原総一郎氏が、2003年のテレビ朝日における「朝まで生テレビ!」という番組で、「愛国心」と「国益」を取り上げた。(田原総一郎編「愛国心・国益とはなにか」アスコム、2004.2)その冒頭で「つい最近まで、この国では、この『愛国心』という言葉を口にするのはタブーであった」といっている。

 この言葉は正しくない。正確には田原氏が生活するマスコミの世界において「愛国心」を論ずることがタブーであったに過ぎない。それは当たり前のことである。戦争中は軍部の提灯持ちをして「鬼畜米英」といって大本営発表をそのまま国民に伝えていたマスコミが、戦後には全く180度転換して、何の反省もなしに「アメリカン・デモクラシー」に転向したわけである。
 いくらマスコミが無責任でも、一寸気恥ずかしくて「愛国心」を口にすることがはばかられたのは当然のことであった。

 戦後における日本人の「愛国心」をめぐる悪戦苦闘の歴史は、小熊英二の大著「『民主』と『愛国』」,新曜社、2002.10に詳しい。




 
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