(3)金本位制の崩壊と第二次世界大戦への道
●世界大恐慌と各国経済のブロック化
1929(昭和4)年10月24日(木曜日)午前10時25分、ニューヨークの株式市場は突然、史上空前の大暴落に見舞われ、更に、このアメリカに始まった株式市場の暴落は、その後、世界大恐慌に発展していった。
この「大恐慌」はアメリカの経済を長期にわたり大不況下においたのみか、1930年代を通じて世界の政治・経済体制を大きく変貌させることになった。
この「世界大恐慌」により、金本位制による統一的な国際通貨体制は崩壊した。その結果、世界の国々はいくつかの対立する経済ブロックに分かれ、その中て生き延びざるを得ない環境が形成されていった。
そしてこの世界経済のブロック化は、1930年代の終わり頃には、一方の極に「持てる国」イギリス、アメリカと、いま一方の極に「持たざる国」ドイツ、日本、イタリアという対立に収束していった。
これらの経済ブロックは、その内部の国々に対しては利益保護を行うと同時に、外部の国々に対しては関税障壁をたてて輸入を排除する保護主義の政策を推進した。そしてこのことが第二次世界大戦を引き起こす根本的原因になった。
それは第一次大戦前の帝国主義間の対立とは異なり、自立的経済圏を形成するための対立であり、その為の軍事化も急速に進展した。これが次項で述べる日独伊3国同盟から世界を2つに分割した第二次世界大戦へ発展していった。
その意味で、1930年代は、世界的に経済ブロック化が進んだ時代といえる。
●各国の経済ブロックの形成
主要各国の経済ブロックの内容をみてみよう。
▲ドル・ブロック(アメリカ)
まずアメリカでは、大恐慌の過程で産業・金融部門が深刻な危機に陥った。
その結果は、昭和8(1933)年3月以降の銀行恐慌に発展し、3月6日にルーズベルト大統領は全国の銀行休業令を出し、昭和8(1933)4月にアメリカは金本位制を停止した。
アメリカは、この1930年代経済危機の中で、自国の国内事情のみに目をむけ、国際金融や国際通商のリーダーシップをとろうとしなかった。
アメリカの場合、この段階で国際的には「モンロー主義」的政策を採っていたが、ラテン・アメリカ諸国を対象にしたパン・アメリカニズムの政策が、ニューデール政策の一環として採られ、1934年に互恵通商条約法が成立した。
この法律により、ラテン・アメリカに限定したわけではないが、互恵条約の締結に加えて地理的関係、政治的結合、海外投資とドル通貨とのリンクによる金融的結合を利用した緩いパン・アメリカ・ブロックが形成された。
このアメリカの経済ブロック化の成果としては、イギリス、ドイツほどではなかったが、ラテン・アメリカ向けのアメリカの輸出は急激に増加した。
▲スターリング・ブロック(イギリス)
イギリスは、昭和6(1931)年9月20日に金本位制を停止した。それまで自由貿易主義を維持してきたイギリスでは、この金本位制からの離脱により、国内的には保護関税政策による国内市場の拡大と投資の活発化を狙う政策が行われた。
これらの保護関税政策は、1932年2月の輸入関税法により「恒久的体制」として確立した。これによって自由貿易の国イギリスは「驚くほどの論議や反対もなしに明確に保護主義国になった」(原田聖二「両大戦期におけるイギリス帝国の変貌」)。
1932年夏のオタワ帝国会議では「英連邦内特恵関税制度」が作り出され、世界で最初のイギリスを中心にした「スターリング・ブロック」という一大経済ブロックが形成された。
このブロック化は、英帝国内諸国の利益保護を目的にしたものであったが、同時に他の工業諸国との関係を絶って、イギリス産業の国内および域内市場の確保をねらった保護主義的なものであった。
英帝国内の諸国をはじめとする多くの国が通貨切り下げを行い、自国の通貨をポンドにリンクさせた。 このイギリスのブロック形成はかなりの効果を上げ、そのためイギリスの世界貿易の地位は、再び世界の首位に上がった。
▲マルク・ブロック(ドイツ)
ドイツは、帝国主義の復活が著しく強化された段階で世界大恐慌に襲われた。
新生ドイツの国際的地位は、ヴェルサイユ体制の抑圧下ではまだ弱く、国内ではこのヴェルサイユ体制やワイマール体制を打倒しようという動きが出てきていた。
いたるところでその権力の限界に突き当たっていたフアッシズムは、ドイツの経済危機の中で、既成の支配層がぎりぎりの選択を迫られた結果として採用された予防的な反革命であった。
1930年はじめ、恐慌の進展によるナチスと共産党の進出が、アメリカ資本の引き上げを促進し、恐慌は更に深刻化した。関税障壁によりドイツの輸出は縮小され、そのための生産制限により、失業者は一挙に増加した。31年5月、オーストリアのクレディット・アンシュタルトが破産し、7月にはダナート銀行が支払いを停止した。
1932年7月、ローザンヌ会議は、ドイツからの賠償の取立てが不可能であることを認め、賠償の実質的な帳消しを決めた。一方、1923年のミュンヘン一揆の失敗以来、勢力が激減していたナチスは1929年から勢力を回復し、30年9月の選挙では、ナチ党の得票数は、1928年の81万票から一挙に640万票へと大躍進した。
30年秋には恐慌の影響により勤労大衆の生活は破壊され、失業者は激増していた。このような社会不安の中でドイツ共産党の支持も増えて、「反ファシズム行動」も広がりを見せていた。このような中で、32年に反ナチス労働者統一戦線の結成が失敗に終わったことから、翌1933年1月、ヒットラーが政権をとった。
ヴェルサイユ条約による再軍備の制限をはねのけて強力な軍事国家を再建するという点においてナチス、国防軍とその他反動勢力の目標は一致していた。
ドイツは1933年10月23日、軍備平等権の主張が認められないという理由で国際連盟を脱退し、35年1月住民投票によりザールを併合、3月16日、徴兵制復活を宣言してヴェルサイユ条約の破棄に乗り出した。
恐慌によって生じた600万人以上の失業者は、その後、恐慌からの回復と再軍備経済に吸収されて、1936年には完全雇用に近い状態になった。同年3月7日早朝、ドイツ軍は非武装地帯ラインラントに進駐し、それ以降、スペイン内乱等、次々に領土的紛争にのめりこんで入った。
ナチス・ドイツは、1934年9月、清算協定方式によるブロック形成を積極化した。外貨不足に悩み、植民地を持たず貿易依存度の高いこの国は、かなり過激な方法を取らざるをえなかった。その政策は、主として東南ヨーロッパと南米にむけられていたが、自国の輸出能力以上に輸入しないとする極端な双務主義的性格をもっていた。
▲その他の経済ブロック
そのほかにはフランスを中核とした金ブロック、日本を中心とした「大東亜共栄圏」の円ブロック、オランダを中心にした経済ブロックが形成された。
これらの経済ブロックは、更に一つの極に「持てる国」イギリス、アメリカと、今一つの極に「持たざる国」ドイツ、イタリア、日本といった大きなグループの対立に収束していった。
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