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日本人の思想とこころ
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  (2)大化改新とは、何であったのか?−そのナゾのいろいろ

●大化2年詔の信憑性
 大化改新には、いろいろなナゾが含まれている。まず「大化改新」という言葉自体が日本書紀にはない。ただ大化2年の詔に、「改新の詔」と書かれており、更に、その内容が、大改革のねらいを明らかにしていることから、「大化改新」と呼ばれるようになったと思われる。
  
 ところがその重要な詔の信憑性に問題が出てきた。詔文のうち、各条の主文に続く「およそ」で始まる副文は、大宝・養老令と同文か、もしくは非常に類似していることが、津田左右吉氏の近江令文転載説以来、多く指摘されてきている。

 次に、「大化改新」の開始と終了の時期に関することである。「大化改新」は、通常は、645年の蘇我入鹿謀殺に始まり、650年の白雉改元までをその期間としているようである。
 しかし実際の大化改新は、蘇我氏謀殺の前からいろいろと着手されていたことが、クーデターに対する参加者の層の広さから推測されるし、また改革の終了も、少なくとも668年の天智天皇による近江令の制定までの23年という長期の改革が考えられる
 つまり大化改新は、その開始・終了時期が定めにくい、日本の古代史における最大の改革であったといえる
  
 ところがこの詔の信憑性から始まって、最近では逆に非常に小規模な改革として捉える傾向が強くなっている。これは不思議なことであり、大化改新は、むしろ天武天皇以降に引き継がれて、古代国家における大変革への第1歩になったと私には思われる。
 この最近の大化改新に対する過小評価の傾向は、大きなナゾである。

●乙巳の変―蘇我本宗家の滅亡
 皇極4(645)年は、前年に引き続いていろいろ不思議な事件が相ついだことを、日本書紀は伝えている。正月には、岡や川辺や宮殿、寺院なとで、10匹から20匹の猿がうめく声がして、何者かが動くように見えるのに、近づいて見るとなにもなかった。
 また4月には、高麗で虎から忍術を学んだという学問僧が、毒殺されたという不思議なうわさが流れた。これらのことから、なにとなく大きく世の中が動きそうな予感に満ち溢れていた
 これらの記述は、日本書紀が中国の讖緯思想に大きく影響されていることを感じさせるものである。

 6月12日、朝鮮の高句麗、百済、新羅の三国から貢物が奉られることになった。そのため皇極天皇をはじめ蘇我大臣入鹿、中大兄皇子など、政府の要人たちはすべて大極殿に出揃うことになっていた。
 その場が蘇我大臣入鹿を謀殺する舞台に利用された。暗殺計画の策定と実行の中心人物は、中臣鎌足,中大兄皇子、実行犯は蘇我倉山田石川麻呂をはじめ海犬養連勝麻呂、佐伯連子麻呂、葛城稚犬養連網田たちであった。
 彼らは、軍事を仕事とし朝廷の防衛を任務としている人々であった。実際の三国の調はそれから1ヶ月後に行なわれていることから、その日は偽りの計略日であったと思われる。

 クーデターの当日、皇極天皇は板葺宮の大極殿に御し、舒明天皇と蘇我馬子の娘の皇子である古人大兄がそばに持した。上表文を読む蘇我倉山田石川麻呂の声は緊張で乱れて、入鹿が怪しみ始めたとき、刺客の中大兄と子麻呂らが切り込んで入鹿は殺害された
 『この日、雨降りて、いさら水、庭に溢めり、庭にむしろ、障子(しとみ)をもちて、鞍作りが屍(しかばね)を覆う』と日本書紀は格調の高い名文で記している。

 古人大兄皇子は、「韓人が、鞍作大臣を殺した、悲しいことだ!」と人に語り、自分の宮に閉居した。中大兄皇子は法興寺を居城として戦備を整え、一方の、蘇我蝦夷のもとには東漢直の一族が参集して戦いの準備をした。しかし態勢はその日のうちに決まり、翌日、父親の蘇我蝦夷は家に火を放って自殺し、事件はあっけなく終わった。

●乙巳の変のナゾ
 この政変の年である645年の干支は乙巳であることから、「乙巳の変」とよばれる。そしてこの政変にはいろいろなナゾがある。

 ▲蘇我入鹿の暗殺者は誰か?
 古人大兄皇子は、入鹿暗殺の実行者として、「韓人が、鞍作大臣を殺した!」と叫んだ。この実行犯人である「韓人」とは、いったい、誰をさすのか?それがナゾの一つである。
 この「韓人が鞍作大臣を殺した」という意味は、「韓人」は中大兄皇子のニックネームであるとする説や、三韓の朝貢にことよせて殺された、とする説などがある。
 また藤原鎌足も後述するように新羅系の渡来人の家系である。

 蘇我氏は、百済の木氏の流れを汲む「韓人」の一族である。その同系の古人大兄皇子が、中大兄皇子に殺されたことを「韓人に殺された」といった!その犯人と思しき人々は、上にあげたように複数人ある。古人大兄皇子は、そのうちの誰を犯人として「韓人」といったのであろうか?

 この事件は、中大兄皇子、藤原鎌足など少数の人々によるクーデターのように思われているが、蘇我氏、海犬飼氏、雅犬飼氏、佐伯氏、葛城氏など、古代の有力氏族が多数クーデター派に参加しており、予想以上に多くの人々から支持されていたことが分る。
 そのことが蘇我蝦夷や東漢直氏など、蘇我氏の本宋家派の反撃を最終的にあきらめさせたと思われるが、その周辺の事情は不明であり、ナゾに包まれている。

 ▲悪役にされた蘇我入鹿と蝦夷
 5-7世紀の日本の古代政治史において、長い間、蘇我氏は天皇の外戚として強力な権力を保持し、ついにはその権力は天皇のそれを超えるほどになったとされている。
 特に、643年に山背大兄皇子を謀殺して以降、国政を私する蘇我入鹿の所業は、誰が見ても目に余る状況になってきたことを日本書紀は克明に記述している。
  
 例えば、祖廟を葛城高宮にたてて、伶人に天皇にしか許されない八●(ハチイツ)の舞をまわせたとか、部下の民と百八十の部曲を徴発して、蘇我父子の双墓を今来に造り、一を大陵といい蝦夷大臣の墓とし、一を入鹿臣の墓として小陵とするとか、目に余る横暴がいろいろ書かれている。
 これらの話は、かなり事実であったことと思われるが、その一方で、不当に悪役に仕立てられている面も多いと考えられる。

 その代表的なものが、「入鹿」と「蝦夷」の名前である。これについては門脇禎二氏が、「『大化の改新』論」の中で問題提起されている。それによれば、蘇我の「蝦夷」という名は、日本書紀に5回出てくるが、本来の彼の通称は、嗽加大臣、蘇我大臣、宋我大臣、豊浦大臣であり、「エミシ」は明らかに故意につけられた差別用語であった。
 これに相当する呼び名としても「蘇我豊浦毛人大臣」であるが、エミシからはかなり遠い。

 蝦夷の「蝦」は、エビのことであり、また「夷」は、えびす、つまり野蛮人のことである。このような名前が、1国の宰相に使われていたとは考えにくいことである
 門脇禎二氏は、この名前の由来が、藤原鎌足伝の中で、藤原鎌足が蘇我石川麻呂に語る言葉の中に、「太郎(=入鹿のこと)は暴虐、・・必ず宗(=先祖、ここでは父親?)を夷(そこなう)の禍あり」という言葉からきたと推論されている。
 これは非常に興味ある指摘である。我々は、歴史を読むとき、いつも知らないうちに勝者によって作られたストーリーに乗せられているのである。

 蝦夷の子の「入鹿」も、おかしな名前である。彼の名も鞍作、林臣、蘇我太郎などいろいろあるが、日本書紀の皇極紀には、ほとんど蘇我入鹿で登場する。門脇氏によれば、入鹿の本名は「蘇我林臣鞍作」といったらしい。また通称も、蘇我太郎とか蘇我林臣太郎とか林太郎とかいったと推測される。
 入鹿の名の由来を、門脇氏は古来の穢れ禊いの易名の儀において、神に供えられる魚の意とされている。その意味では、蝦夷のエビと同じ差別用語である

●クーデター派のナゾ
 ▲天智天皇による即位の回避はなぜなのか?
 大化の改新のクーデター派についても、いろいろなナゾがある。
 まず中大兄皇子に大きなナゾがある。この皇子は、クーデター派の中心人物であり、しかも「大兄皇子」という名称は、皇子の中でも最も皇位継承の優先度の高い皇子に付けられるものである。
 クーデターに成功したとき、皇極天皇は直ぐ中大兄皇子に譲位しようと考えた。
 しかしそこで中大兄皇子は、藤原鎌足と相談して、最初、皇極天皇の弟君である軽皇子を推薦する。軽皇子が辞退すると、驚くべきことに、古人大兄皇子に話を持ちかける。
  
 古人大兄皇子は、蘇我氏が次代天皇として擁立しようとしていた皇子である。中大兄皇子が、この皇子に話をもちかけるのは、ジェスチャーなのであろうか?それにしても不思議な行動である。
 当然のことではあるが、古人大兄皇子は、それをことわり法興寺に入り出家してしまう。そこで再び軽皇子に話がいって、軽皇子が孝徳天皇として即位し、中大兄皇子は皇太子として政権をたすけることになる

 ところが655年、孝徳天皇が崩御後にも、再び、中大兄皇子は即位を断る。そのため大化改新の前に蘇我氏が擁立していた皇極天皇が、斎明天皇として重祚(ちょうそ)された。そして、中大兄皇子はそのまま皇太子として残るという異例の事態となった。
 その斎明天皇も、661年新羅の攻撃を受け滅亡の危機にある百済救援のため西征し、筑紫の朝倉宮を本営にするが、661年7月そこで崩御になる。

 中大兄皇子は、斎明天皇の崩御を受けて、喪服を付けて百済を支援して、新羅との戦争をすすめるが、663年日本の水軍は唐の水軍に白水江で敗北して百済は滅亡し、日本は唐,新羅の攻撃を受ける危険が非常に強くなってきた。日本の国家的危機であり、そのために筑紫に築城し、667年に都を近江に移し、山城のような大津京がつくられた。

 ここで不思議なことは、この近江遷都の年は天智6(667)年であり、斎明天皇の崩御から既に長い年月がたっているが、天智天皇はまだ即位されていず、厳密にいえば天皇は不在なのである。中大兄皇子が、そこまで皇位につくことを回避されるのは、尋常なことではない。その理由は、一体、何なのであろうか?

 この期間は「称制」(まつりごとをきこしめす)と呼ばれ、中大兄皇子は、天皇と同格の地位で、即位せずに政務をとるとされている。しかしこれは中国における「称制」とは、大きく異なる。中国における「称制」は、天皇が幼少で事実上の政務がとれないとき、天皇の政務を太后が代行するような場合に用いられることばであり、中大兄皇子には当てはまらない。
 これまでして中大兄皇子が、皇位につくことを回避される理由は、服喪とか、鎌足との執制とか、国際情勢とかされているが、この異常な長さはそれでは説明できない。全くのナゾである。

 天智天皇は、668(天智7)年になり、ようやく即位された。そして皇后には、古人大兄皇子の娘の倭姫王と蘇我山田石川麻呂の娘などを迎えられた。共に、クーデターにより粛清された人々の娘たちである。ここに天智天皇のクーデターによる粛清への思いが込められており、それが即位回避に対する思い入れの一つのヒントになるのかもしれない。

 ▲藤原鎌足の出自のナゾ
 大化の改新の中心人物である中臣鎌足の正伝「大織冠伝」によると、鎌足の出身地は大和の高市郡であり、アメノコヤネ神の子孫とされる。代々、神祇の職にあり、天地をまつり、神々と人々との相和を仕事としてきた。しかし「大中臣氏系図」によると、鎌子の曽祖父は黒田大連であり、欽明朝に仕えた常盤大連のときに初めて中臣姓を賜り、推古朝の中臣御食子の子が中臣鎌子となっている。

 中臣御食子は、日本書紀に中臣連弥氣(みけ)として登場しており、推古天皇の禁裏に仕える奏官で、宮中祭祀を兼務していた人物と思われる。皇極天皇の3(644)年正月に、中臣鎌子連、後の藤原鎌足は、神祇伯(かむつかさのかみ)に任命されたとする記事が日本書紀にある。
 神祇官は、後の令制において太政官とならぶ国の最高機関であり、神祇伯はその機関における最高の地位であり、従五位下から1名が選ばれる。
  
 氏族としては、その職に中臣氏から選ばれることは多いものの、斎部氏、作賀氏などから選ばれたこともある。「職原抄」によると、「神祇伯は、昔は諸氏が混任され、あるいはまた大中臣氏が任命されたが、中古以来は、花山院の御子」が相続することになった、と書かれている。
 中臣鎌子は、このように神祇職の家に生まれたが、一方では仏教を信仰し、更に周易を僧旻に学び、儒学を南淵請安に学ぶという最新の知識につとめる文化人であったようである。鎌足は、当初は家業の祭祀の任に就くのを断り、別業にとどまり、中大兄皇子に近づき、大化の改新における政変に積極的に参加した。
  
 鎌足は、天智天皇の即位の翌年、天智8(669)年10月に病死した。天智天皇は大化の改新における彼の貢献を評価し、最高の官位である大織冠と大臣の位を贈り、更に藤原の姓を賜った。飯田武郷氏の大著「日本書紀通釈5」によると、中臣を変えて藤原になったのではなく、正しくは「中臣の藤原氏」であったという。
  
 問題はこの「藤原」であり、「藤原」は大和国高市郡の地名といわれる。金思Y氏の「古代朝鮮語と日本語」によると、この中臣氏の出身地の「藤原」(布治波良)は、新羅の「昌寧」(慶尚南道に所在)をあらわしているといわれる。つまり蘇我氏の本拠である飛鳥が百済からの渡来民の土地であったのに対して、中臣氏の本拠である藤原は新羅からの渡来民の土地であったと思われるのである
  
 蘇我氏を含めて、それまでの日本の朝廷は親百済派が主流をなしていたのに代わり、中臣氏の登場により親新羅派が勢力を持ち始めたこと意味する。
 この観点からすると、大化改新が国際的な背景をもって見えてくる。
 クーデターの後で、古人大兄皇子は、「韓人が、鞍作大臣を殺した、悲しいことだ!」と叫んだ。
 蘇我氏は、百済からの渡来系氏族であり、古人大兄皇子もその血に繋がっている。
 その古人大兄皇子が、「韓人」ということは、新羅人、つまり、中臣鎌足が蘇我大臣を暗殺した、と叫んだことも考えられる。

 中大兄皇子のニックネームを「韓人」とする説もある。その根拠はよく分らないが、天智天皇自身は親百済系の天皇であり、親新羅系の孝徳天皇と衝突したこと(653)がある。
 天智天皇は671年に崩御されるが、その崩御に先立つ663年に天智天皇が百済応援のために送った日本水軍は、唐の水軍と白水江に戦い大敗北を喫した。その年、百済は唐と新羅のために滅亡する。 そして日本の政権も672年の壬申の乱により、天智天皇の親百済政権から、天武天皇の親新羅政権に移っていく。




 
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