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日本人の思想とこころ
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  (3)「愛国者」の極刑―それは怨みを残した!

 叛乱将校たちの遺書は、彼らの衷心から生まれた「愛国」の行為が「逆賊」の汚名を着せられ、そのうえ極刑にされた怨みと憤怒の言葉に満ち溢れている。
 1960年代のある日、霊感のある歌手の美輪明宏が、三島由紀夫の肩の上に軍服姿の霊が見えるといった。三島は「それは磯部だ!」といって、顔色を変えた。

 磯部浅一(陸士38期)は、山口県の出身。広島幼年学校から陸士を1926(大正15)年に卒業、朝鮮歩兵74連隊を経て、32年に陸軍経理学校へ入学。34年に一等主計(=大尉に相当)になった。
 この年11月、陸軍行動派青年将校と士官学校の士官候補生によるクーデター(=士官学校事件)の計画に参加し、村中孝次、片岡太郎大尉と共に検挙され、停職処分になった。

 さらに35年7月に村中孝次大尉(37期)と共に、「粛軍に関する意見書」を発表し、教育総監更迭に関する怪文書を配布したかどにより、村中、磯部共に35年8月2日付けで免官処分になった。
 それ以降は軍の革新運動に専念し、2.26事件の中心人物として死刑の判決を受けた

 磯部浅一は、2.26事件の決起部隊の立場から「行動記」において事件の経過を書き、さらに、囚われた以降を「獄中日記」に書いた。
 その内容は戦後になり、ようやく明らかになった。特に15人が処刑された後に、遅れて処刑された磯部の7月31日以降の獄中日記は、まことに鬼気迫るものがある。
 それは三島由紀夫の作品「英霊の声」の、昭和天皇に対する美しくも恐ろしい呪詛のリフレインに限りなく似ている。
 私はそれを読んだとき、三島の肩に軍服姿の磯部が見える、という美輪明宏の言葉を思い出した。
     
 (獄中日記の抜粋)
 8月11日。 天皇陛下は15名の無双の忠義者を殺されたのでありましょうか。そして陛下の周囲には国民が最も嫌っている国奸等を近づけて、彼らの言いなり放題に御まかせになっているのだろうか。陛下、われわれ同志ほど、国を思い陛下のことを思う者は日本国中どこをさがしても決しておりません。・・・・。

 今の日本は何というざまでありましょうか。天皇を政治中心とせる元老、重臣、貴族、軍閥、政党、財閥の独裁の独裁国ではありませんか。いやいや、よくよく観察すると、この特権階級の独裁政治は、天皇さえないがしろにしているのでありますぞ。・・・・・・。

 陛下、なぜもっと民をごらんになりませんか、日本国民の9割は貧苦にしなびて、おこる元気もないのでありますぞ。・・・恐らく 陛下は、陛下の御前を血に染めるほどのことをせねばお気付き遊ばされぬのでありましょう。陛下のため、皇祖皇宗のため、仕方ありません。菱海(=磯部の雅号)は必ずやりますぞ。・・

 かくのごとき不明を御重ね遊ばすと、神々の御いかりにふれますぞ。いかに、陛下でも、神の道を御ふみちがえ遊ばすと、御皇運の涯てることもございます。
                              (磯部浅一「獄中日記」から) 

 「明治維新」の志士たちは「尊王倒幕」を掲げて戦った。昭和の青年将校たちは、それに習って「尊王倒奸」を掲げて決起した。そして政府の重臣たちを殺害し、その罪で死刑になった。この事件は、陸軍の青年将校たちの心に深い傷を残した。2.26事件において、軍の責任追及を日中戦争にすり替えて、軍事官僚たちは生き延びた。

 その後に続く長い戦争が、数百万人の国民とそれに数倍する外国の人々を殺した。そして2.26事件のアンコール劇は、1945年8月15日の早朝、再び皇居を中心に繰り広げられた。その朝、事実上の最後の陸軍大臣・阿南惟幾は、「一死、以て大罪を謝し奉る」という遺書を残して割腹自殺した。A級戦犯は靖国神社に祭られたが、2.26事件で処刑された「忠君・愛国者」たちは靖国神社に祭られていない!




 
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