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日本人と死後世界
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1.仏教における浄土への転生
2.日本人の死後世界
3.来世への生き方

4.死後の祭られ方
(1)遺体と霊魂
(2)怨霊の鎮魂 -荒魂、聖霊、御霊
(3)「御霊」-平安京の怨霊
(4)菅原道真 -「天神」となった怨霊
(5)平将門と「天慶の乱」
(6)神道における霊魂 -魂の顕界と幽界

5.日本における死後世界の探求
6.日本人の霊魂のゆくえ
7.あとがき -このテーマを選んだ理由
 
  4.死後の祭られ方

(1)遺体と霊魂

  儒教の思想は、極めて現実的かつ即物的である。人間は精神と肉体に分けられ、精神の主宰者を「魂」(こん)、肉体の主宰者を「魄」(はく)といった。怪談などに、「魂魄この世に止まりて、・・」などといって、恨みを述べる言葉に使われている。

 儒教では、生きていることは魂魄が一致していることであり、魂魄が分離することが死である。死後、魂は天上へ登り、魄は地下へ行く。そして天上では、地上と同じように家族で生活が営まれている。地上の子孫達が、先祖供養をすれば天上の祖先達は幸せになり、そのお礼に地上の子孫達が幸せになるように努力してくれる。
 魄でこの世に残るものは、白骨である。頭蓋骨は、特に重要視された。そこで、子孫が祖先の頭蓋骨を頭上にのせて、香を炊いて天上の魂を呼ぶ招魂儀礼も行われていた。

 仏教の場合は、霊魂は死後49日で次の世界に生れかわる。死後の肉体自体は、骨を含めてただの「物体」に過ぎない。先祖はすべて他の世界へ生れ変わっているため、「先祖供養」や49日を越えた死者の供養は、仏教ではあまり意味を持たない筈である。つまり遺骨は、仏教ではただの「もの」でしかない。

 しかし日本では、古来、儒教と仏教が習合し、複雑な思想や風習が形成されてきた。たとえば民衆の中では、先祖の霊は儒教のように高い山に住居を定めて、時をきめて子孫の家や田圃に降りて来ると思われていた。また葬送儀礼でも、仏教の49日で終わることはなく、100か日、1周忌、3回忌、7回忌、13回忌、17回忌、23回忌、27回忌、33回忌、50年忌、100年忌まであり、資産家の中には、そのすべてを行う場合もある。

 このような法事の方式は、儒教でも仏教でもなくおそらく日本的な方式であり、葬送儀礼を商売にする人々により作られたものであろう。特に葬送儀礼については、日本では奇妙な風習が多く、その中には新しく明治以降につくられたものも少なくないようである。

◆仏舎利崇拝

 仏教では、一般的には遺体・遺骨に対する執着はない。それは仏教発祥の地であるインドでの遺体・遺骨の取扱いを見ると分かる。インドでは死者は火葬にされ、灰はガンジス川に流される。また火葬にしない人骨が、輸出されて全世界の大学医学部の骨格標本に提供されている。そこでは人間の肉体はすべて自然に帰るか、人間を含めて他の生物の生存に役だつものとして提供する精神が徹底している。現在のインドの思想は、仏教ではないが、それらの考え方は仏教以前からの風土的なものであろう。

 仏教でも例外的に始祖である釈迦と仏弟子の遺骨だけは、「仏舎利」として信仰の対象になっている。日本にも仏舎利は、いくつかの寺院に到来している。
 はじめて日本に仏舎利が到来したのは、敏達天皇(538-585)の13年で、司馬達止が蘇我馬子に献じた。その大きさは胡麻くらいで、紅い色のものが紫色に光った。その数は増えたり減ったりして、夕方になると光った。

 弘法大師空海が唐から請来したという仏舎利が、京都の東寺の五重塔に納められている。
 その仏舎利は、甲乙の2壷に収められており、天下繁栄の時には増え、衰退の時には減るといわれる。後醍醐天皇(1288-1339)の正中元年(1324)12月14日に、国家安泰、弘法利益のために、37粒奏請されて、祈念された。その後、みだりにこれを請い奉ることを禁じた。奏請があっても甲壷は禁じ、乙壷のみ奏請に応えることとした。

 舎利の粒数は、しばしば数えられて「舎利勘計記」ができ、舎利をはかるスプーンも用意された。舎利は、赤、白、黒の美しい粒からなるといわれる。

 「釈氏要覧」によると、梵経の設利羅(せつりら)を略して舎利という。骨身には全身、砕身の2種類があり、砕身は白色の骨舎利、紅色の肉舎利、黒色の髪舎利からなる、とされているという。(李家正文「仏舎利の秘密」、「怪奇伝承集」所収)

◆日本の遺骨信仰 -忌むべきものとしての遺体・遺骨

 日本では、戦地の遺骨収集や事故の犠牲者にたいする遺体・遺骨の回収が、非常なこだわりをもって行われる場合が多い。しかし歴史的に見ると、わが国では、遺体や遺骨が必ずしも大切に扱われてきてはいない。ただし仏教や儒教の場合と違って、遺体や遺骨には死後も霊魂が残っているという原始的な遺骨信仰は、現代にいたるまで長く続いてきている。両墓制という日本的葬送の方式もそれと関係しているように思われる。

 遺体・遺骨に対するこだわりと、遺体の火葬は、矛盾する面を持っている。しかし仏教思想の影響で、遺体・遺骨をなくする火葬の採用も、かなり古い時代にさかのぼる。既に、8~9世紀にかけて天皇にも火葬が採用されるようになった。

 日本における火葬の始まりは、「続日本紀」によると文武4年(700)の僧道昭といわれる。道昭は火葬後、「暴風たちまち来り、骨灰共に失う」(「元享釈書」巻1)といわれる。つまり道昭の遺骨は、火葬によってすっかりなくなってしまった。
 天皇では、持統天皇が、大宝3年(703)12月に飛鳥岡において、天皇としては始めての火葬になった。それまで遺体は、嬪宮におかれるため、白骨は完全な形を保つことができたが、火葬の導入以降は全く形をとどめなくなった。
 元明天皇(661-721)は、死後は山に簡単なかまどを作って火葬とし、そのまま喪処として常葉の樹を植え刻字の碑を建てるよういい、養老5年(721)12月に、遺詔通りに葬られた。
 淳和天皇(786-840)は、死後に遺骨を散骨せよという詔を出した。「予聞く、人没して精魂天に皈る。而るに空しく冢墓を存し、鬼物これに憑きて終に乃ち崇をなし、長く後累を胎すと、今宜しく骨を砕き粉と為し凝れ之を山中に散らせ」という衝撃的な内容である。(「続日本後紀」承和7年(840)5月6日条)。そして5月13日、天皇の遺体は山城国乙訓郡物集村で火葬にし、遺骨は詔に従って粉砕されて、大原野の西山の峯に散骨された。
 嵯峨天皇(786-842)の場合の遺詔も徹底しており、薄葬の遺詔が詳細に出されて実施された。そしてこの薄葬の儀礼は、その後の天皇に引き継がれ定着した。

 ここから見られるように、遺体も遺骨も単に穢れたもの以上に、鬼物がついて崇をなす恐ろしいものであった。そめため遺体や遺骨は、焼却されればなくなってしまうが、そのままの形で埋葬する場合は、住居からできる限り遠い所に埋葬した。

 延暦11年(792)は、長岡京の第2年目の年であるが、この年の8月に山城国紀伊郡深草山の西斜面に、遺骸の「葬埋」の禁令がでた(「類衆国史」巻79)。それは、京都市伏見区深草の地は、長岡京の真東に直線で7キロの地点にあるが、それでも都に近いという理由からであった。
 平安遷都から3年後の延暦16年(797)1月25日、朝廷は都城の周辺域の農民達に、遺体を自宅の周辺に葬る事を禁じ、違反者は畿外に追放または移住させることを命じた。(「日本後紀」)
 上記の深草の地は平安京の東南にあり、古来からの葬地であった。平安京の左京に中心が移ると、葬地も東の宇治に移り、その中心は御蔵山西麓の木幡地区になった。そしてそこには、藤原氏一族の墓所が造られた。

 これらのことから感じられることは、古代の貴族にとって死者の遺体や遺骨は、忌むべきものであり、できる限り自分の生活範囲から遠ざけたいという考え方である。これは近親者に対しても同じであり、このことは儒教的な先祖崇拝や招魂儀礼などとは、極めて異なる思想である。

 たとえば「栄花物語」において、長徳2年(996)叔父道長によって大宰権師に左遷されることになった伊周が、夜、宇治の木幡の墓所を訪れ、前年に亡くなった父道隆の墓標を探して恨みを述べる話がでてくる。この時、わずか1年前の墓標をあちこち探し回らなければ分からなかった。これは、藤原氏のような貴族であっても、陵墓祭祉が行われていなかったことを示している。

 このことは日本の墓制の特徴である「両墓制」とも関わると思われる。「両墓制」とは、死者の葬地を、遺体または遺骨を埋葬する土地(ウメバカ、ミバカ、ステバカなど)と、遺体・遺骨とは別に死者の霊の祭地(マイリバカ、ラントウなど)を分離して祭る制度であり、日本では中世の末期から近世にかけて、かなり広範な地域で行われてきた。
 この場合、霊の祭地は寺院の敷地や隣接地に造られているのに対して、遺体・遺骨の埋葬地は、霊を祭る寺院とは離れて設置されている場合が普通である。
 ここでは遺体・遺骨は、仏教のようにただの「もの」とは認識できないし、儒教のように先祖の霊達の死後の生活の場という認識も持ち得ず、遺俸・遺骨を忌むべきものとして遠ざける、神道的であいまいな日本的思想が見え隠れしている。

◆庶民の遺体・遺骨

 空也上人(903-972)は、平安中期の僧である。阿弥陀念仏を唱えながら諸国を遍歴し、橋を架け井戸を掘るなど、社会的な奉仕を通じて浄土教の伝道教化を行い、市聖とか阿弥陀聖と呼ばれた人である。空也上人は、諸国遍歴の際、野原に遺棄されている屍骸を見付けると、一か所に集めて火葬にし、念仏供養したといわれる。
 つまり貧しい人々の行き倒れた死体は、その頃は山野、河原などに、多くはそのまま放置されていたと思われる。「続日本後記」承和9年(842)10月14日の条には、左右京職に命じて、「嶋田、及び鴨河原の髑髏を焼きおさめしむ、すべて五千五百余頭なり」とある。
 同月23日条にも、「鴨川の髑髏を聚め葬らしむ」とあり、鴨の河原は平素から平安京の人たちの遺体の葬送の地であったようである。
 当時は遺体を埋葬せず、そのまま放置した形で葬送している場合が多く、「三代実録」貞観13年(871)8月28日条には、従来、百姓が葬送、放牧の地にしてきたものを、耕地にすることを制限する布告が出されている。

 京都においても、阿弥陀ケ峰・船岡山・鳥辺野・西院・竹田とか、千本・最勝・河原・中山・鳥辺野などを五三昧とよんで、古くから葬送の地としてきたことは確かであるが、これらが葬地として固定する前には、遺体は河原に投げ捨てられていたと思われる。
 空也上人などの活動により、鳥辺野、化野、蓮台野などが遺体の放置された葬地から、三昧の名で呼ばれる葬地に格上げされたのが本当であろう。(「京都の歴史」1)

 これらの葬地は、埋葬されるようになってからも、埋葬直後はともかく、暫くすれば、だれの墓かを識別することは難しいものであったと思われる。
 そのことは藤原氏の木幡の墓地でさえそうであったことが、伊周の例でわかるわけである。このように遺体・遺骸を放置したり、遠ざけたりしているのに、それらが霊魂の「依り代」になっているとする畏怖の気持が、別に抱かれてきたようである。

◆なぜ遺体・遺骨は忌むべきものか?

 日本では遺体・遺骨に対する考え方は、仏教や儒教のそれのように明解ではない。日本人は、遺体や遺骨が死後も霊魂の「依り代」として長く残ると考えていたようである。
 つまり遺体や遺骨には、死後も霊魂がついていて、特に生前の思いが残っている場合には、生きている人間にかかわってきたり、恨みが残っている場合には、災いをもたらすものと考えられてきた。特に恨みをもった遺骸や霊魂に対しては、「御霊信仰」という特別な信仰の形態を作り出した。

 古代の日本人は、遺体や遺骨を放置したにもかかわらず、一方では、それらに対していろいろなこだわりや恐れを持っていた。それらを特に「遺骨」に絞って見てみる。
「日本霊異記」(以下、「霊異記」という)には、いろいろな挿話が記載されている。

● 大化2年(646)は「墳墓の制」が決められた年である。この年、京都の宇治川にかかる宇治橋の架橋工事が行われていた。この工事のために奈良山の道の人通りが増えたが、その道で一つの髑髏が人や獣に踏み付けられていた。これを見た元興寺の僧が、その髑髏を従者の万呂に命じて木の上に置かせた。その年の暮れに、その髑髏の霊が万呂を訪れ、ご馳走して、自分が兄に殺され、金を奪われたことを語った。(後略)(「霊異記」上巻第12)

● 天平元年(729)2月、元興寺の大法会で、長屋王は僧侶に食事を捧げる役を命じられた。このとき長屋王が、僧の頭を傷つけたことがあった。その後に、長屋王は聖武天皇に讒言されて、王の一族はすべて自害して果てた。天皇は、長屋王の一族の屍骸を城外に捨て、焼き砕いて河・海にすてよ、と命じた。長屋王の骨は土佐国へ流された。その後、土佐では死者が多く出たため、長屋王の祟りで皆が死んでしまうと訴え出た。そこで天皇は、長屋王の骨を紀伊国海部郡沖島へ移した。(「霊異記」中巻第1)

● 称徳天皇(718-770)の御代、紀伊国牟ろ郡熊野村に永興禅師という僧がいた。熊野の河上の山中で一つの屍骨を見た。この骨は、麻の縄を2つの足に繋ぎ、厳に懸かり身を投げて死んでいた。骨の側には水瓶があり、以前に自分を訪ねてきた僧であること知った。その後3年経っても読経の声がしているという山人の話をきき、もう一度行ってその骨を取ろうとして髑髏を見ると、3年たってもその舌が腐らず、そっくりそのままの状態であった。
このことは吉野の金蜂山にもあったことで、そこでも一つの髑髏が、長い間、日に晒されながら、舌だけは腐らずついていた。禅師が法華経を読むと、髑髏も一緒に読むために、舌が震えていた。(「霊異記」下巻第1)

● 宝亀9年(778)12月、備後国葦田郡大山の品知牧人という人が、竹原に宿をとった。すると夜、「目が痛い」と呻く声が聞こえた。一晩中、寝もやらず、翌朝になって見ると、一つの髑髏があり、目の穴を竹が生えて突き通していた。そこで目の竹を抜き、干し飯を供えて「吾に福を得しめよ」と祈った。市の帰りに、また竹原に泊まった。すると髑髏が生きた形になって現れた。(以下略)(「霊異記」下巻第27)

 「日本霊異記」には、9世紀頃の日本人の、遺骨に対する考え方が現れている。ここでは、髑髏に生きているときの執念がそのまま残されている。しかしそれは焼いて粉々にするとかなり消えると思われるが、それでも強烈な恨みや怨念は消えないことがわかる。

 「平家物語」では、都を福原に移した頃から平家に対する怨念は「物怪」(もののけ)となり、骸骨の形で現れ始める。ある夜、平清盛が寝所から出て中庭を見ると、「死人の骸骨(しやれかうべ)どもが、いくらといふ数(かず)もしらず、庭に満ち満ちて」いるのを見た。彼等は「上になり下になり、転びあひ転びのき、端なるは中へ転び入り、中なるは端へいず。夥しう絡めきあひ」、さらに、「多くの髑髏どもが一つに絡まりあひ、坪の内にははばかる程になって、高さは十四五丈もあらんと覚ゆる山のごとく」になった。
 その大きな骸骨の山に、「生き足る人のまなこの様に大のまなこどもが千万いできて」(「物怪之沙汰」)入道相国をにらんだ。
 つまり平家に対する怨念は、無数の髑髏になったり、また、大きな一つの髑髏になったりして、平清盛の前に現れたわけである。そこでは、人間の怨念の象徴が、死者の髑髏の形をとって現れた。

 過去の自分自身の執念が、屍骸の形になって現れてきた話もある。
● 浄蔵法師という、えらい行者がいた。この僧が蔦城山で修行をしていた頃、金剛山の谷に大きな白骨死体があり、それは五体そろって横たわっていた。死体には青い苔が生え、石を枕にし、手には独鈷を握っていた。誰の遺骸か分からないので、本尊に祈請をすると、第5日に夢告があった。実は、この死体は浄蔵法師の昔の骨であり、速やかに加持して、独鈷を受けとれというお告げであった。日覚めて死骸に向かい、声をあげて加持すると、死骸は起き上がって独鈷を浄蔵に与えた。その後、この遺骸を火葬にし、石の卒塔婆を立てた。今もこの谷にあるという。(「古今著聞集」第2)

 ここでは、昔修行していた自分が遺骸の形で存在していたわけで、言わば自分のドッペルゲンガーに会った話である。しかもドッペルゲンガーの方は、白骨死体であった。

 中国の道教の古典である「抱朴子」によると、狐が人間の「髑髏を(頭に)載せて、北斗を拝す。落ちざれば、すなわち人に変化す」とあり、日本でも江戸初期に書かれた浅井了意の「伽婢子」にその話がでてくる。

● 江州(滋賀県)武佐の宿に割竹小弥太という男がいた。ある夕暮れ時、1人所用で篠原堤を歩いていると、道の傍らに狐が出てきて、人間の髑髏を頭にのせて、北に向かい礼拝したら、髑髏が落ちてしまった。7、8度落して載くことを繰り返していたが、やがて落ちなくなってから、百度ほど北を拝んだ。するとたちまちに17、8才の絶世の美女になった。(以下略)(「狐の妖恠」)

 白骨も五体揃っていると、さらに蘇りやすいようである。同じ「伽婢子」に次の話がある。
● 文亀の頃(1501-1503)、長間佐太という男が京都北山で柴を買い受け、これを都で売って少々の利益を得ていた。ある日、北山へ行き帰りが遅くなり、蓮台野に差し掛かった時は夜中になっていた。道のかたわらに古塚があり、急に両方に開いた。見ると、内部から光がでて、松明を灯したようにまわりが明るくなった。塚の中には一体の白骨があり、骨は頭から足まで揃っていた。この白骨が、急に起き上がつて佐太に抱きついてきた。佐太はしたたかな者なので、力まかせについたら、白骨は、あおむけに倒れて、ばらばらになり、動かなくなった。次の日に行ったら、白骨はくだけ、塚もくずれていた。佐太がその後どうなったかは、分からない。
 蓮台野は、京都における遺体の埋葬地である。古い白骨も、五体揃っていると、場合によって霊がついて蘇ってくることを語っている。

◆小町伝説

 小野小町は、「小倉百人一首」の歌でも知られた平安初期(840年頃)の女流歌人である。美貌でしかも「六歌仙」の一人という才媛であるにもかかわらず、生没年も不明であり、その生涯は謎に包まれている。そのくせ、不思議なことに伝説だけは多く、しかもその内容はかなり悲惨なものが多い。

 鎌倉期に書かれた「古今著聞集」は、小町が生きた時代から3百年以上後になるが、小町についてはあまり良くは書いていない。そこには小野小町が若く色好みの頃は、中国の王妃も及ばないほどの奢った生活をしていた、と記している。「衣には錦繍のたぐひを重ね、食には海陸の珍をととのえ、身には蘭麝を薫じ、口には和歌を詠じて、よろずの男をばいやしくのみ思いくたし」(巻5)た、と書かれている。
 そしてその後に、17才で母、19才で父、21才で兄、23才で弟を亡くして、たった一人になった。頼る人もなく美貌も日々に衰え、家は破れ庭も荒れ落魄れて、はては野山をさまよった、と記している。

 読んでいると、小町は大変気の毒な境遇であり、むしろ同情されるべきなのに、なぜこのようなひどいことを書かれなければならないのか?と思う。しかし、他の伝記はもっとひどい事になっていく。

 鎌倉期に成立した「古事談」には、在原業平が東下りの旅の果てにおける話がある。奥州八十島で宿をとった夜、野原の中から和歌の上の句を詠む声が聞こえてきた。その言葉は、「秋風の吹くたびごとに、穴目穴目」と聞こえた。声の方へ行って見ても、人の姿はなかった。明るくなってから見ると、そこには1つの髑髏があり、目からはススキが出ていた。風が吹くたびに、ススキの靡く音がこのように聞えていた。不思議に思っていると、ある人が、小野小町がこの国にきて、ここで亡くなり、あの髑髏は小町のものであるといった。そこで業平は、かわいそうに思い、下の句を、「小野とはいはじ、薄生いたり」とつけた。
 また「童蒙抄」には、この歌は「小野小町集」にあるものという。昔ある人が野中を歩いていて、この歌を詠ずる声を聞いた。立ち寄って声の主を探している間、詠じていた。そのススキを取って、髑髏をきれいな所へ安置して帰った。その夜の夢に小野小町がお礼に現れた。

 鎌倉期には、さらにこの「古事談」をもとにしたと思われる「小野小町盛衰絵巻」という絵がかかれた。そこでは死亡直後の絵から、腐敗し、犬やカラスに食い荒らされていく小町の姿を、冷酷なまでに写実的に10コマに描かれている
 「古今目録」では、小野小町は出羽国の郡司の娘で、数十年の間、京にいて好色であった。そして本国へ帰って亡くなったので、そのため屍は八十島にある。小野は姓であり、住所である、と記されているが、小野小町の祖父は有名な参議小野篁であり、その息子が地方官である「郡司」になることはない。つまり小野小町は京生れである。

 小野小町については、江戸時代の本居内遠の「小野小町の考」という詳細な考証があり、これらの伝説は、「玉造小町壮衰書」という書物から作られたもので、実際の小野小町とは無関係な仮託であると述べている。同書の原題は、正確には「玉造小町子壮衰書 一首並序」という長いもので、著者は空海とされて空海全集にも収録されている。平安・鎌倉期の人々は、当然この書により小町を考えてきた。

 しかし実際には、2人の小町が別人であることを、最近の著作では、岸元史明「二人の小町」(「王朝史の証言」所収)が明らかにしている。つまり芸人の娘であった玉造小町が年老いて零落し亡くなった話と、謎めいた美貌の歌人小野小町の話が組み合わされて作られたのが、「小町伝説」のようである。

 どちらにしても、ここで登場する髑髏は、小町の怨念の象徴というよりは、美女の代表としての「小町」にふられた、多くの男共の怨念が生み出した産物のように思われる。





 
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